第二十二話 孟桃との再会

「あっ……いたた、痛い……」

「あんたも武人なら我慢なさいよ」

 陣地に戻った田管は、薬師によって頬の矢傷に軟膏を塗られて治療されていた。その薬師というのが、張香という女子おなごである。張石の娘で、張舜の姉に当たる人物だ。

 その軟膏が傷口に沁みるのが、田管には我慢ならない。戦いの際には、傷を受けても案外痛まないのであるが、そういった場合、戦闘が一段落すると、途端に痛み出すのである。そこに薬など塗られれば、余計に痛みを感じようものだ。

「まあ、これならあとにはなりにくいかもね。せっかく綺麗な顔してるんだもの。勿体ないわ」

「いえ、このような傷は戦場にいれば往々にしてできるものです。それを恐れているようでは武官など務まるものではありません」

「そのくらい分かってるよ。まあ、あたしは傷のあるお顔の殿方も好みではあるけれど」

 張香の表情が、俄かに淫靡いんび笑貌しょうぼうに変容するのを田管は見た。以前、初対面の時にも見た表情である。田管はその美貌故に、他者から向けられる欲求には慣れている。少なくとも、呉同のような暴挙に出ない限りにおいては、特別悪い顔をすることもない、と田管は思っている。

「ありがとうございました」

「あんまり無理はしなさんな。あ、でもあんたみたいな綺麗な顔したお方ならいくらでも来てくれていいから」

「いえ、必要な時だけお世話になります」

「つれないねぇ……他の男連中はむさ苦しいから、あんたが来ると目の保養になるんだけどもね」

 張香はからからと笑った。


 戦いの後、張石は寿延に入城し、この地に拠点を置くことにした。前述した通り、田管には何かと因縁のある場所である。

 この地に再び足を踏み入れた田管の目に、一軒の屋敷が留まった。

「あっ……」

 それを見た田管は、あの、屈辱的な、忌まわしい記憶を思い出してしまった。呉同なる男によって凌辱の限りを尽くされた、あの屋敷が残っていて、田管の目の前に立っている。

 田管は無意識に、ぎり、と、歯を食いしばった。恐怖というよりは、寧ろ憤怒の感情を抱いていた。呉同とその一味が今生きているかどうかは分からない。けれども、もしのうのうと生き永らえているのであれば、必ずや自らの手でその命を奪ってやろうと、そう強く思ったのである。

 この所、息つく暇もなく戦ってきた。久しぶりに、敵を目前にすることもなく、じっくり腰を落ち着けて休めるであろう。

 寿延の市街は、以前にも増して寂れていた。戦乱続きともなれば、逃亡したまま戻らない民なども多かろう。

「彼女はどうしているだろうか」

 ふと、田管は自分の逃走を助けてくれた孟桃という女人を思い出した。次に会うことが会ったら礼をしたいと思っていたが、もう寿延にはいないだろうか。そのようなことを考えながら、市街を歩いている。

 彼女のことを、人に尋ねてみようか……一瞬、そのようなことを考えたが、やはりそれは躊躇われた。このような戦乱の世にあっては、彼女の身に何かあったとておかしくはない。そういった凶報を聞いてしまうのを、田管は恐れたのである。

「田管さま」

 その、田管の背後から、何処かで聞き覚えのあるような、そんな声がした。女人の声である。

 まさか……そう思って、田管は後ろを振り返った。

 そこに立っているこざっぱりとした容貌の美人を、田管は覚えている。

「孟桃殿……私をお許しください」

 その姿を見るなり、田管は肌脱ぎになり、上半身を露わにした上で平身低頭した。中原において、肌脱ぎになるという行為は謝罪の意味を持つ。

「田管さま、頭を上げてください」

「かたじけない……」

 言われた通りに頭を上げた後も、田管は目の前の女人、孟桃を直視できずにいる。

「よくぞ、御無事でいらっしゃいました。わたくしにはそのことだけで十分です」

「こちらこそ、孟桃殿が無事でよかった……」

 このような荒れた世の中とあっては、暫しの別離がそのまま今生の別れとなってしまうことも珍しいことではない。まして、田管は武人であるから、何処で命を落とすかなど知れたものではないのである。

「次に孟桃殿にうた時には、礼をさせていただきたいと思っておりました。私が手に入れられるものであれば用意致しましょう。どうか、何なりとお申し付けください」

 田管は恭しく礼をした。それを聞いた孟桃は当惑の表情を浮かべたが、やがてその顔は真剣な表情となった。

「なら、わたくしを嫁にもらってくださいますか」

「それは……」

 今度は、田管の側が困った顔をした。

「わたくしは貴方さまが欲しゅうございます」

「そのようなことは……明日も知れぬ我が身ですから」

 婚姻など、今の田管は考えていない。そのようなことは、普の帝室を打倒し、梁を復興してから改めて考えるべきものだと思っている。宝玉、毛皮、絹などの財物を求められる方が、余程応えようがあるというものだ。

「わたくしに子を授けてくださったら、それを以て礼と致しましょう」

「それは応えかねます。天下が定まってからでなければ、私は所帯を持つことなどできません」

 熱を帯びた視線を送る孟桃と対照的に、田管の顔はより一層、困惑の色を強めている。

「後ほど璧玉へきぎょく一対ときんをお贈り致しますので、どうかご勘弁願います」

 そう言って、田管は足早にその場を去った。冷たい北風が二人の間に吹き寄せ、枯葉が砂と共に舞い上げられた。

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