序章「千代の過客」⑥

 殺気とは抽象的な概念だ。

 例えるなら他者を害そうとするケモノが如き闘争心。それを感じ取る人の生存本能。

 爪を出し牙を向く獣は人の世には生きられない。もし殺気を隠さぬ人があれば、それは望んで孤独に生きているのだ。孤独はその人をより修羅に近付けるだろう。

 男は刺客である。

 本来なら殺気を放つなどあってはならない。名乗ることなどもってのほか。影から人知れずに標的を討つ、それが刺客の務めというものだ。

 だが男には卑怯を嫌う性分があった。

 蜂屋と名乗った男は鬼の如き殺気を放つ。芭蕉は思わず後退あとずさった。

「芭蕉、覚悟は決めたか」

 背後から殺生石が語りかけてくる。

「お主が言った、石を拾わねばここで死ぬというのは」

「この男に、そういうことだ」

「おお…… なるほど」

 てっきりこの殺生石に殺されるのかと思っていたが、そういうことか。

 どういうわけか騒速衆がここにいる。殺生石の言葉に嘘はなかった。

「いざ」

 蜂屋は拳を鳴らしながら一歩踏み出す。

「まて」

 芭蕉は手をかざし蜂屋を制止した。

「ワシを殺してなんの得がある」

 こうなった経緯をちゃんと話せばあるいは。

「貴公が仕立てられた偽の隠密。そんなことは百も承知。光圀にきゅうを据えるにはそんな首が相応ふさわしい」

 ……もはや説明をしても無駄ということか。

 なんだこれは。勝手に巻き込まれた上に命まで取られるだと。曾良を問い詰めた時に想像したその通りになったではないか。

 定府殿はとんでもないことを仕組んでくれたものだ。

 遠くで間欠泉が噴き出す。

 岩場に漂う水蒸気はひたいの汗と混ざり合い、大粒となって芭蕉の頬を伝った。

 蜂屋はさらに一歩踏み出す。

「まて、まだ聞きたいことがある!」

 芭蕉の姿を命乞いと見た蜂屋は嘲笑あざわらう。低く太い笑い声は虎の唸り声に似ていた。

「──よかろう。貴公までのあと3歩。1歩にひとつ、答えて進ぜよう」

 殺す気になればいつでも殺せる。そんな余裕がこのような余興を生むのだろう。

 芭蕉は子供のころに読んだおとぎ草子を思い出した。

 昔話の主人公は往々にして鬼に捕まる。鬼はよく油断し、主人公は総じて頓知とんちけていた。

「よもや口先だけでこの場が収まると思うなよ芭蕉」

 淡い妄想に殺生石が釘を刺す。残念ながらこの石は芭蕉の死を断言していた。

「助かりたければ石を拾え。石を拾えば助けてやる」

 つまり拾わねば見殺しにするということか。

 女は誓いの証を欲しがると言うが。まるでキリシタンの踏み絵のようだ。

「女が袖にされた男に未練を残すと思うな」

 それは殺生石の最後の通告だった。

 わかっている。拾えるものならとうに拾いに走っている。だがもう殺生石に近寄ることは叶わん。

 目の前の男は音も立てずに背後に忍び寄ったのだ。逃げるそぶりを見せれば、たちどころに首を飛ばせる手練れであろう。

 蜂屋から芭蕉までが3歩。芭蕉から殺生石までの距離も3歩。しかし芭蕉は動けなかった。

「どうした。聞きたいことがあったのではないのか」

 蜂屋は芭蕉が口を開くのを律儀りちぎに待っている。

 芭蕉は深く息を吸い、ゴンと杖で地を突いた。気圧けおされぬように胸を張る。

「なぜ田村は同じ血を分けた伊達と争う。主家である伊達に黄金を差し出せばすべて丸く収まるではないか!」

 いい策は思いつかない。ならば聞きたいことを聞くまで。

「黄金か……。そんな物は田村には無い、と答えるべきところだが」

 蜂屋は律儀に質問に答えた。

「伊達家当主、綱村つなむら様は力に飢えている。黄金を手にすれば必ず兵部と同じ野心に取り憑かれる。それが伊達に黄金を渡せぬ理由だ」

「ふむ……」

 芭蕉は職業柄、多くの文化人と交流を持つ。名士の噂話なら勝手に耳に入ってきた。しかし綱村の噂はとんと耳にしたことが無かった。

 伊達綱村、とは伊達藩4代目藩主である。先代の父が酒と色欲に溺れて藩政を顧みなかったことから、万治3年西暦1660年に僅か2歳で藩主の座に担ぎ出された。

 この幼き綱村の後見人となったのが綱村の大伯父祖父の弟。伊達政宗の末子、伊達兵部である。

 兵部は幼き綱村を傀儡かいらいにして伊達藩を欲しいままにした。自身の孫を藩主に据えるべく、綱村廃嫡はいちゃくまでたくらんでいたと言われている。

 さらに平泉と一関を己の直轄地とした兵部は、我こそは奥州藤原氏の正統であると称した。父政宗と同じ奥州王を騙ったのだ。

 兵部の野心はとどまるところを知らない。いずれは伊達家のみならず奥州、ひいては天下にまで野心を抱くのではないか?

 危機感を抱いた忠臣達は幕府への告発に打って出たが、時の幕府大老とも結託していた兵部は、その訴えすら握り潰してしまう。

 もはや誰も止められぬ。そう思われた兵部の支配を突如終わらせたのは──。

 兵部が伊達を支配し、追放されるまでの一部始終が、世に言う伊達騒動と呼ばれるものだ。

 成長した綱村はこれを教訓とし、第二の兵部を生まぬよう権限を藩主に集中させる専制政治を始めた。

 これで綱村が名君ならばよかったのだが。

 未熟な綱村の政治は多くの面で適正を欠く。伊達藩はこの代で幕末まで続く負の遺産を抱えることになる。

 当然、藩内からは不満の声が噴出する。しかし綱村はその声を聞き入れることができない。意見をする者はみな自分の地位を脅かす者として厳罰に処した。

 力による独裁。綱村は皮肉にも兵部と同じ道を歩もうとしていた。

 なぜ兵部はあれほどの力を持ったのか。自分に足りないモノはなんなのか。悩む綱村に光圀は話を持ちかける。藤原の黄金、それさえあれば……。

 元禄2年西暦1689年、綱村31歳。伊達藩はいまだ終わらぬ伊達騒動の渦中にある。しかし芭蕉にはその内情を知る由もない。

「あと2つ」

 蜂屋は一歩近づく。

 芭蕉は再びゴンと杖で地を突き口上を述べた。

「伊達が信用ならんと言うのなら定府殿に差し出せばよいではないか!」

 そう。水戸の名君と呼ばれる光圀さまなら黄金を悪いようには使わぬはず。

 しかし蜂屋は鼻で笑った。

「光圀ならなお悪い。奴が内に秘めたる野心は兵部を超える」

「つまらん誹謗ひぼうを」

 芭蕉は光圀の為人ひととなりを知っている。光圀は型破りな度量を持つが、野心を抱くような人物ではなかった。

「……世人よじんは知るまい。だが奴は己が野望を叶えるためにずっと藤原の黄金を狙っていたのだ」

 藤原の黄金。たしかになぜ光圀さまがそれを知っていたのかは気になる。曾良がなにか言っていたような気もするが。

 曾良。そうだ曾良はどうしたのだ。まさか既にこの男に!?

「案ずるな芭蕉。曾良はまだ生きておる」

 心を読んだ殺生石が口を挟む。

 芭蕉はほっと胸を撫で下ろした。

「あとひとつ」

 目前に蜂屋が迫る。

 芭蕉は臆せず蜂屋に言い放った。

「ならば将軍様に差し出せばよい。天下を治める将軍家に野心はあるまい!」

 頑なに田村宗永が黄金を隠す理由はなんなのか。それこそが田村の野心ではないのか。

犬公方いぬくぼうがあの黄金を持てば、きっと犬が人を飼う世に変わるであろうな」

 蜂屋は吐き捨てるように言った。

 犬公方、とは5代将軍綱吉の別名、というよりただの悪口である。なぜそう呼ばれたのかは言うまでもない。

 天和てんなの治と呼ばれる善政を敷いた名君。生類しょうるいあわれみ令で民を苦しめた暗君。相反する二面性で語られているのが綱吉である。

「黄金で犬が人を飼う…… だと?」

 まるで黄金がこの世の仕組みを変えてしまうかのような。……たしか殺生石もそんなことを言っていた。

「政宗公が野心を捨てて使わなかったものを…… 兵部が掘り起こしたばかりに!」

 蜂屋が怒りをあらわにする。

「あの黄金は人の手には負えぬ。扱いを誤れば人の世が終わるのだ」

 この男…… やはり殺生石と同じことを。

 本当にいるのか。奥州の龍穴とやらに、黄龍というモノが。

「誰かが番人にならねばならん。ならばそれが田村と騒速の役目だ」

 蜂屋は右手を軽く振る。シャキンと手甲てっこうに隠していた刃物が飛び出した。

「話は以上。覚悟はよいか」

「ふむ…… ではひと思いにやってくれい」

 芭蕉は左手を胸の前に上げて目を閉じた。手にはいつから握っていたのか、古い数珠がある。

「恨んでくれて構わん」

 蜂屋は刃物を出していない左手で軽く芭蕉に拝む。そして勢いよく右腕を振りかぶった。

 最後にゴンと芭蕉が杖で地を突く。同時に蜂屋の刃が芭蕉の首筋に食い込む。

 腕はそのまま振り抜かれ、切り離された芭蕉の首は宙を舞った。

 

 鋭い刃が蜂を真っ二つに斬り裂く。

 足元には100を超える蜂の死骸が転がっていた。しかし取り囲む蜂の数は一向に減らない。

 曾良は肩で息をしていた。

 腕の筋肉は張り詰め、つかを持つ手も甘くなる。

 手ごろな匕首あいくちも懐に隠しておくべきだったと後悔した。

 強度があれば重量もある。刀を折るために硬く作った虎徹が仇となった。

 短時間で振り回す分にはその重さも気にはならない。そうなるように鍛錬は積んでいた。

 しかし無数の蜂を相手に長時間振るうことは想定すらしていなかった。

 この蜂はひと刺しで熊も殺す。あれは嘘ではあるまい。

 もはやこれまで──。

 そう思った矢先、視界の端に人影が映る。

 歳は15かそこらの、日傘を差すうら若き乙女だった。

「大変そうだね。旅の人」

 女はぼんやりと曾良を眺め、声をかけてきた。

「寄るな…… 逃げろ小娘!」

 気息奄々きそくえんえん、それでも危険を知らせるために曾良は声を張り上げた。

 この数ならただの蜂でも己が身まで危ういのはわかるはず。なんと呑気な女なのか。

「なるほど、あんた弟子の方か」

 女は袖の下から何かを取り出す。

「これじゃない…… これだ」

 手にしていたのは団子のような丸薬である。

「これは人にも多少毒になる。息を止めていろよ曾良殿」

「なぜ拙者の名を──」

 言い終わる間も無く、破裂音が曾良の声をかき消す。女は丸薬を曾良の足元に放り投げていた。

 丸薬の正体は衝撃で弾ける火薬玉。

 玉からは火ではなく白煙が噴き出す。一瞬でむせるほどの煙幕が曾良の周囲に広がった。

 煙に触れた蜂は次々と力を失い地に落ちる。しばらく地面で足掻いたがすぐに動かなくなった。

 煙が晴れると、曾良を囲んでいた無数の蜂は、すべてこと切れていた。

 女は傘を閉じ、蜂の針を踏まぬようにゆっくり傘で死骸を払いながら曾良に近寄る。

「なに…… ものだ…… 小娘……」

 吸うなと言われても、息も絶え絶えの曾良はそうもいかない。相当に煙を吸い込んでしまっていた。

 よろめいて、蜂の死骸の上に倒れ込む寸前の曾良の肩を女は掴んだ。

「敵じゃないのはわかるよな」

 声の出せない曾良はうなずいて答える。

「それと小娘はやめろよ。命の恩人に失礼じゃないか?」

 女は咳き込む曾良に肩を貸し、背中をさすってやった。

「あたいは望月もちづき。火薬玉の望月さ」

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