#1 障壁 Ⅴ

 カレリアパイカルヤラン・ピーラッカに包んであるのは、何もミルクがゆだけとは限らない。


 見本市を見て回ったうえにアルマスに会って泣きじゃくったのだ。疲れ果ててしまうのもおかしなことではない。リリャは椅子の上でうたた寝をはじめた。都合もいいので、早めに子ども部屋へ行かせてしまうことにする。

 リリャはフィーリクスの帰りを待っていたいようだったけれど、どうすればいいのかは――何年も彼女のことを見てきた私には分かる。パイづくりを手伝わせればそれで充分だ。ライ麦粉をこねて麺棒で伸ばすのは、七歳の女の子にとっては重労働になる。もう騒ぐ余力などないだろう。

 アルマスから引き剥がしたのが相当に気に入らなかったのか、家に帰ってからずっとリリャは不機嫌だった。眠気も相まってか、何を言っても「いやだ」の一点張りだ。

 しかし子どもというのは気まぐれで助かる。

 頬に涙のあとをつけて教科書を読んでいたリリャは、「今日はカレリアパイの日」と呼びかけると急に元気になった。大好物であり得意料理であるカレリアパイは、いつだってリリャの機嫌を良くしてくれる。生地作りもお任せあれといった様子のリリャに全部委ねれば、夕食はあっという間に完成した。

 薄いライ麦の生地にたっぷり詰まったミルク粥は、丁寧なひだで覆われている。オーブンに入れてリリャの勉強を見ている間に、仄かに甘く香ばしい匂いがしてきた。ヴァルコイネンの家に伝わる、どこよりもおいしいカレリアパイだ。

 焼きあがったパイにゆで卵を乗せてからリリャを起こす。彼女は文法の問題を解きながらすでに夢の世界へ行ってしまいそうだったけれど、目を擦りながら何とか食卓までやって来た。

「リリャ、お父さんのこと待っていられそう? それとも先に食べている?」

「待ちたい……けれど先にたべる。だっておとうさん、今日はいそがしいんでしょ?」

「そうね。みんなでお夕飯を食べるには少し遅いかも」

 独りで立派に食前の祈りを捧げ終えると、一転してリリャは意地悪く笑う。できたばかりのパイを頬張りながら、「焼きたてを食べられないおとうさんかわいそう」と呟いた。寝る支度をしてベッドに入るまで、ずっと「おとうさんかわいそう」と漏らしているあたり、寂しいのを我慢して良い子にしていたのだろう。


「――お父さん、かわいそうね」

 フィーリクスはぐっすり眠ったリリャの頭を撫でると、ダイニングへやってくる。

「どうしたんだいきなり」

「焼きたてのカレリアパイを食べられないなんて、って。シェフが言っていたわ」

「そういうことか」

 短く返すと、フィーリクスは日課のようにキスをしてくる。サクサの人はこのカレヴァの人よりも情熱的で、未だにくすぐったく感じる。しかし今日ばかりは惚気ていられない。

「それはキエロも一緒だろう? 待っていてくれてありがとう」

「私たちの故郷のために頑張ってくれているフィーリクスのことを、無碍むげになんてできないわ」

「そりゃ努力もするさ。水力発電所が電力と魔力の両方を安定供給できるようになるというんだ。暮らしは今よりずっと良くなる」

 自分のためでもあるしな、と付け加えたフィーリクスは、出窓に置いたラジオに手をかける。フィーリクスがどこからか部品を拾ってきて、趣味で組んだものだ。電源を入れるものの、この様子だと音が鳴りはじめるまでしばらくかかる。

「少しじれったいわね。とても素晴らしい一瞬を聞き逃している気になる」

「真空管は温まって動き出すのに時間がかかるからな。仕方がない。その後悔も含めて、選んだ人生の一部さ」

 椅子に座ってコップの水をあおるフィーリクスは、無邪気に微笑みかけてくる。

「珍しくきざったらしいことを言うじゃない」

「そうか? キエロの前だからかな。俺はリリャの寝顔を見られたから、ラジオを少し聞き逃したくらいどうってことない」

 そこまでを少しつかえながら言い切ったフィーリクスははにかむ。格好つけたくてそんな言葉選びになったのだろう。それがおかしくて愛おしい。

 温めなおしたカレリアパイを前に、フィーリクスは催促するように手を組んだ。主に、糧に、そしてフィーリクスと共にこうして温かく語らえる喜びに感謝して、祈りをささげる。

 ちょうど祈り終える頃にラジオは鳴りだした。艶やかな女性の声が流行りのラブソングで空間を彩る。それを合図に、待っていたとばかりにフィーリクスがカレリアパイを手に取った。普段はずっと聡明で物静かなのに、彼は私とリリャの前でだけ子どもっぽい。

 温めなおしてもカレリアパイはきれいな黄金色のままだ。多少水気を吸ってしなびていても、十分に美味しい。

「リリャは生地を作るのがうまいな。ひだも小さくて、白樺の葉のように可愛らしい」

 リリャのこととなると何でもかんでも喜んでみせるので、私もつられて嬉しくなる。フィーリクスは気分が良くなったついでに、大好きな真空管の話をしだした。

「真空管は素晴らしい。複雑な術式がなくとも、遠くの音楽を届けてくれる」

 彼は少年の様な瞳でスピーカーから流れる音に耳を傾ける。しばらくそうしていたが、思い立ったように目を見開くと、「だが」と強くスプーンを握りしめた。

「真空管は熱が出るのですぐ壊れるし、あまり小さくできない。やがて新しい何かが出てくるだろう。いや、もう大国では出来上がっているんじゃないか?」

「本当に、どんどん便利になっていくのね」

「アブソーバグラスも、想定通りの効率で魔素の吸収ができている。水力発電と同時に、水から安定的に魔素を取り出せそうだ」

 魔法は個人の能力次第で使うことのできる『道具』だった。それが覆る。生まれるときに与えられた適正に関わらず、仕組みを理解さえすれば魔法が使えるようになるのだ。

 自分の関わった計画が成就しつつあるからか、フィーリクスは浮かれ気味で可愛らしい。今は常人を遥かに凌ぐほど魔法を使いこなすフィーリクスだけれど、魔法がまるで使えない時期もあった。その辛さを知っているからこそ、喜びもひとしおだろう。

 ビールを開けて、グラスと瓶を軽く触れる。

「ルミサタマのはカレヴァの中でもマシな方だな」

「そう? どれも美味しいと思うけれど」

「戦中にケミで飲んだエールは……申し訳ないが俺の好みではなかった。今は味が良くなっているかもしれないが、やはり勇気が要る」

 彼がサクサの軍人としてこの地に来て、初めてまともに覚えた言葉が「ビール」だ。

「フィーリクスが言うくらいだから、サクサのビールは相当美味しいのね。一度行ってみたいわ」

「叶うなら俺もキエロとリリャを連れて行きたい。まあ、今のベルリン――特に地元はそう簡単に立ち入れる場所じゃないが」

 面倒ごとは御免だと、彼は顔をしかめる。

「母のことも心配だ。手をこまねいているだけというのはもどかしい。が、しょせん争い事なんて、外側にいる人間からしたらそんなものだ。時間が解決してくれるのを待つしかない」

「時間、ね」

 アルマスのことも、時間が解決してくれたらいいのに。そう考えてしまうのはひどく怠惰だとわかってはいる。だから口には出せない。けれど私の中には、アルマスが街から離れてくれさえすれば、すべて円満に解決するという漫然とした確信もある。

 アルマスが支度をして、この街を出ていくまで。

 私にできるのはリリャに悲しい思いをさせないことだ。それ以外は時間が上手く収めてくれる。そう思いたい。

「ねえフィーリクス、アルマスのカレリアパイと比べてお味はどう?」

「そうだな。キエロの作るミルク粥の方が、塩味が効いていて好き――」

 そこでフィーリクスは言葉を止める。女心には少し疎いが、彼も馬鹿ではない。何か探るように私の顔を見て、一瞬リリャのいる部屋の方を伺った。

「……キエロ、前にアルマスのカレリアパイの話をしたことはあったか」

「ないわ」

「そうか」

 いつも通り私を褒めそやしたかったのだろう。今回ばかりは、それをするには時機が悪かった。

「じゃあ何故カレリアパイについて?」

 フィーリクスは、まだ口を滑らせたと認めたくないらしい。私が当てずっぽうで鎌をかけたとでも言いたげだ。

「弟の料理のレパートリーなんて、大して多くないもの」

「そうか」

 彼はカレリアパイの最後の一口を頬張って嚥下する。カトラリーを静かに皿に置くと、ゆっくりと口を開いた。

「つまり、俺がキエロに内緒でアルマスに会っていると言いたいんだな。そしてそれをするなと」

「ええ、そうよ。弟に会ったその時に魔力暴走を起こしたらどうするの?」

 フィーリクスは頭を振って煩わしそうにしている。聞き飽きるくらい繰り返し警告しているのにこの様子だ。何も響いていないのだろう。

「だが、いずれアルマスは出ていく。彼も自分の状態は把握できているようだった。それまでは問題ないんじゃないか?」

「私も今日アルマスの口から聞いたわ。けれど、その予感が正しいなんて誰も証明できないでしょう?」

 とんだ水掛け論だ。譲ってしまったら私は弟のこともリリャのことも守れない。フィーリクスだって危険に晒す。だというのに、当の本人は私の言葉の意味に気づいてくれない。

「暴れたら俺がその場で止めればいい」

「フィーリクスはそう言うけれど、四六時中街にいるわけじゃないわよね? 仕事中はどうしても街から離れるじゃない」

「なら電話を寄こしてくれればいい。すぐに駆け付ける。何なら、キエロの知っている呪いとやらで、アルマスが魔法を使えないようにしてしまってもいい」

 暢気が過ぎる。フィーリクスは確かに強いけれど、どこか自分を過信している節さえある。普段はそれでもいいけれど、相手はアルマス。戦時中、フィーリクスが基地を守るので手いっぱいだった敵を、いとも簡単に破ったドラゴンなのだ。

「呪いはそんなに万能なものじゃないわ。扱いも難しいの。そもそもあらゆる対策が機能したとしても、アルマスを退けられると思うの?」

「ドラゴンが堕ちるときは戦略も何もない。獣を相手にするようなものだ。たとえアルマスが相手でも負けることはないと思っている」

「わかった、わかったわ。勝てると思うならもうそのままでいい」

 私が諦めたと思ったのか、フィーリクスはビールを手に取る。それを許してやる謂れもないので、無理やりにグラスの口を塞いでおろさせた。彼はむっとした表情になって座りなおす。

「アルマスだって用心している。それで十分じゃないか」

「あなたは勝ち負けばかり気にしているけれど、それとは別の問題だってある」

「被害さえ出なければそれでいいだろう。俺が命を懸ければ済む話だ」

「リリャの気持ちはどうするの? 目の前でアルマスが堕ちたら、あの子の悲しみは計り知れない。大好きなおじが目の前で暴れだすなんて、あんまりにもかわいそうよ」

「それは……」

 フィーリクスは黙り込んだ。

 私と同じで、フィーリクスもリリャにつらい思いはさせたくないのだった。

 彼にとってリリャは何よりも大切な存在だ。そうでなければ、廃墟になったベルリンに知人も家族も残してはこない。故郷が真っ二つになっているにもかかわらず、異国の基地で知り合った私を選ぶのだ。薄情に感じるほどだが、翻せば、私たちを優先するという証拠にもなる。

 フィーリクスは長い嘆息を漏らした。

「わかった、アルマスとリリャはもう二度と会わせない。これでいいか?」

「信用できないけれど、ぜひそうして」

 グラスの中で泡が昇っていくのをしばらく見送って、フィーリクスは深く息を吸い込む。

「――なあ、俺たちの関係は温めなおせそうか?」

 ラジオの歌声と重ねた食器の音に紛れて、どこか所在なさげに声が震える。

 仕方のない人だ。けれど嫌いではない。

「カレリアパイほど簡単にはいかないわよ」

「ありがとう」



  



 ***

 それは、何でもない平日の昼下がりのことだった。

「ヴァルコイネンさん、あっちの通りで弟さんが!」

 声の主は遅めに出勤した年上の同僚だ。彼女はパイを咥えて事務所に踊り込む。緊迫した語気に心臓が跳ねた。

「ハーパネンさん、私ちょっと弟の様子を見てきます!」

 所長の返事を待たず向かった先には、不審な人だかりと警官の車が群れる。


 その中心にいたのは、アルマス・ヴァルコイネン――いまだ十九の時の姿の弟だ。

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