#2 過渡 Ⅴ

「ここから移動できるんだって」

 そう言いながらシェリルが指さしたのは、ただの額縁だ。填められた硝子の奥には、焦げ茶色の薔薇を咲かせる銀細工が一輪、括り付けられている。オブジェとしての自然な様相に対し、シェリルの「移動できる」という言葉はまるでそぐわない。シェリルも自分で言っておきながら信じきれないようで、首を傾げながら額縁へと手を伸ばす。

「……硝子の真ん中に触る、だったかな」

 まさか、と否定しそうになるが、僕は疑うのをやめる。この建物へやって来られたのも、空間を捻じ曲げるというロストテクノロジーがあったからだ。

 そろりそろりと手を近づけ、やがてシェリルの指先が指紋一つない表面に触れる。

 硝子の表面に無数の線が模様を描き光る。呼応するように、額縁の中で僕らを静観していた薔薇が花弁を大きく開きながらどぷん、と壁に沈んでいく。続いて額縁も潜っていき、目の前にはただ黒い壁のみが広がる。

「あれ……? シェリル、本当にこれ――」

 不思議に思って壁面に触れようとすると、せっかちだと僕を諫めるように壁が揺らいだ。壁から薔薇の蔦のような銀色の帯が大量に飛び出してきて、互いに絡みつくように長方形をかたどっていく。続いて銀と硝子の板が壁から滲み出して長方形の枠を埋めると、今度は板の上を這うように蔓が伸びていった。それらはすぐに扉を飾る透かし彫りに変わって、硝子の上を飾り立てる。不意に生えてきた蔓の一部が取っ手になった。最後の仕上げに、ドアの真ん中に薔薇の蕾が伸びてきて花開き、溶けて表札に姿を変える。

 表札の上を光が走り抜けた。轍は溝として刻印され、「三号棟二階廊下」という名前を告げた。

 二階の廊下とは怪しい。ドアノブに手をかけ、引いてみる。

「あった」

 その先は廊下だった。踏み出して、見渡してみてもちゃんと廊下だ。振り返って閉じられた扉を観察する。目の前のプレートには「三号棟二階展望部屋」と書かれている。さっきの部屋は海が一望できたので、間違いないだろう。

 僕は扉を押し開ける。

「ロランは何をしているのかな?」

 正面には、平時より二十パーセントほど眉間の皺を深く刻んで仁王立ちするシェリルがいた。

 僕は扉をそっと閉じる。廊下を辿り部屋に戻ると、先程と表情の変わらないシェリルがこちらを凝視していた。

「ちょっと確かめてみたくて。僕の家に面白い本があるんだ。具体的な話は一切載っていないんだけれども、古代魔法についてたくさん書かれていて。例えば空間の歪曲と接続は、今となっては太古の昔に失われた技術だけど、かつては実用段階にあったんだ。座標測位の精度や空間の歪曲状態の安定化の観点から実は大量の魔力を供給した状態で常に同じ座標と接続したまま運用するのが」

「はい、終わり」

「へ、終わり? もう少し――」

「だめ」

 語りたかったのに。この扉がどれだけの価値を持つものなのか知ってほしかったのに。だが、これだけきっぱり断られたのだから、無視して続けるわけにもいかない。

 シェリルは何とか腹の虫を抑え込んだようで、扉へと向き直った。無言で表札に触れ、携帯端末の画面を操作するかのようにそのまま下方向へと指をはらう。すると文字列が光りだして、別の文字列が刻印されていった。光の文字は、数秒の時差を置いてスロットの様に枠の中で変化していく。四号棟、五号棟、六号棟……と、そこで気づいたのか、シェリルは指を上方向へとスライドした。今度は数字が減っていき、ついに目的地を見出す。

「一号棟……一階、ダイニング」

 シェリルが表札の外縁をなぞる。指がプレートから離れたのを合図に、ごう、と扉の奥で暴風が吹き荒れるような音がして、曇り硝子の向こうで靄がうごめいた。

「すご」

 これには不機嫌だったシェリルも驚きを隠せないようで、純粋な感嘆の言葉が漏れた。プレートに文字が焼き付いて、扉の向こうから明かりが射す。

 かくいう僕も、この現象には興奮を抑えきれない。古代魔法がこれほど高度な技術であったなんて、今まで読んだどの本にも書いていなかった。

凄いセ・マニフィーク! 古代技術ランシャン・テクノロージィ!」

「何それ。変なの」

「別に変で構わないよ」

 興奮したんだから仕方がない。感動くらいしっかり味わったっていいだろう。

 シェリルはそんな僕を流してドアノブに手を掛けた。ノックも無しに魔法の扉を開けると、香草のいい香りが流れてくる。

 そこは、よく家にあるようなダイニングというよりは、数十人を収容しうるキャパシティの部屋だった。アルマスさんが個人で使うにはあまりにも広い。キッチンも然りだ。カウンターの向こうに見えるコンロは、業務用と言って然るべき大きさだ。

「――おう、思ったより早いな。積もる話もあっただろうに」

 アルマスさんは、ショッピングモールにいた時よりもラフな格好になって僕らを出迎えた。手にはトングが握られていて、どこか邪悪なドラゴンというにはちぐはぐな印象を受ける。

「昼飯はパスタでいいか?」

「いいよ。お腹すいたから早くして」

「もう出来上がってるよ、女王様。さっさと座れ」

 僕が遅れて席に着くと、それを待っていたらしいアルマスさんがティーカップと皿を持ってくる。彼はシェリルのちょっかいを軽くあしらいながら、ティーポットを丁寧に傾けた。

「ロラン君、嫌いな食べ物はあるか?」

「いえ、大丈夫です。重ね重ね感謝いたします」

 前菜のサラダを並べた彼は、ひらひらと手を振ってはにかむ。

「いや、自分の昼飯のついでだからな。あまり気にするな」

 それよりあいつにナプキンの使い方でも教えておけ、と軽口を叩くと、アルマスさんは再びキッチンへ戻った。

 だが心配には及ばない。彼女はあれでテーブルマナーをきちんと学んでいる。僕にランチやディナーを奢らせるため、という些か不純な動機ではあるが、マナーを知っているのは良いことだ。咎めることはできない。現にシェリルは手早くナプキンを展開して臨戦態勢でいる。

「別に女王様は待ってなくていいんじゃないかな」

「いや、待つよ。ロランと一緒に食べたいもん」

 最近のシェリルは少しおかしい。いつもは判断に無駄がないのに、たまにこうしてよくわからない願望を口にする。しかも、こうなったシェリルは梃子でも動かない。

「そう。その方がいいだろうね」

 僕の言葉に、シェリルは大袈裟に口角を上げた。

「もちろん。だからロランが永遠の愛を誓ってくれるのも待ってるの」

「そう。それは期待しないでね」

 瞬間、脛に鈍痛が走る。

「痛った、やめてよ」

「だっておかしいじゃん。保留っていうのは、正式に宣言するのは改まった場所で、って意味でしょ?」

 シェリルの超理論は絶好調である。彼女が望む結果をつかみ取るには合理的な振る舞いなのだが、この件に限ってはそれがひどく厄介だ。

「違うよ。保留っていうのは、回答期間の延長を図ることのできる言葉だよ」

「ちょっと! うざ! ありえないんだけど!」

「痛いって!」

 シェリルは躊躇いなくぼこぼこと蹴りを繰り出す。僕がドラゴンでなければ、数週間痣だらけの脛で過ごすことになるだろう苛烈さだ。僕としては人様の家で喧嘩をするつもりはない。失礼のないように早々に降参したいくらいだ。

 だがそれは嘘をつくこととほぼ同義だ。僕はシェリルの傍にはいられない。いかなる時も、僕は貫かなければいけない。

「ほれ、お前らいつまでやってんだ。食うぞ」

 ごと、と雑に置かれたパスタから、バジル独特の刺激的かつ爽やかな香りが立ちのぼる。アルマスさんは三人分の配膳を終えると、荒く椅子を引いて着席した。そして遠慮がちにサラダを食べはじめる。表情は硬いが、野菜を咀嚼する様子にはどこか幼さが感じられた。

「んーうま! アルマスの手料理最高!」

「お前が今食っているサラダは、ほとんど冷凍食品だぞ。ソースをかけただけだ」

 シェリルが僕の方をちらちら見ながら当てつけのように言った。しかしアルマスさんは事実でもってばっさり切り捨てる。

「アルマスも料理できないの!? ロランと一緒」

「できないなんて一言も言ってないんだがな」

 僕は逐一シェリルに手料理を振舞っているはずなのだが、何やら勘違いをされているらしい。だが今は否定する時間が惜しい。ちょうどアルマスさんが防波堤になってくれるので、少し遅めの昼食を堪能するとしよう。

 まずはティーカップを持ち上げる。白磁の器に口をつけると、少し甘い茶葉の香りが肺いっぱいに広がっていく。器を傾け鮮やかな紅の液体を吟味すると、そこには爽やかな苦みと上品な甘みが共存していた。それでいて極端な渋さはなく、すんなりと飲むことができる。

 サラダは根菜がベースになったもので、ポテトやニンジン、ビーツが楽しげに舌の上を転がる。それらを纏め上げるピクルスとソースの酸味も憎いくらいに際立っていて、ボリュームはあるもののメインへの期待を高めてくれる。僕は興奮そのままにパスタを巻き取り、口に運んだ。

 ペスト・ジェノベーゼに包まれた柔らかな海老が、口腔でぷつ、と弾ける。途端潮の香りが強まり、甘い出汁が溢れ出した。弾力のある麺がうねり、海老とソースを引き連れて熱とともに胃へと落ちていく。

 僕は無我夢中で、再びパスタを巻き取った。

「美味しい」

 食事とは、脳内に渦巻く考え事を無意識に放棄できる、僕にとって唯一の場である。美味なれば一層、脳の休息にはもってこい。

 至福の時だ。この時間が永遠に続いてくれないだろうか。

「ロランもこんな手料理を御馳走してくれるといいんだけど」

「そうか」

「ロランが料理するとビーカーとか計量器とか持ち出してきて、キッチンが実験室みたいになっちゃうから」

「へぇ」

 ああ、紅茶美味しい。

「ね、ロラン? つい手を出しちゃうんだけど。本当はあたし、ロランの手料理が食べたいんだよね」

「でもそれは、なんというか、ロラン君は本当に料理ができないのか?」

「多分ね。だから、せっかくアルマスがこんなに料理上手いんだし、ロランに教えてくれないかな、って」

 舌が壊れている目分量女のくせしてよく言う。

 フードスケールの代わりに実験用スケールを使っているだけで実験室呼ばわりされてはたまったもんじゃない。そしてビーカーは調理用として販売されているものを購入し使っている。

「なにロラン。なんか文句あるの?」

「ほらほらほらほら、やめろ! はよ食え!」

 アルマスさんが仲裁してくれるので、僕は静かに食事を続ける。

「ねえロラン、ほんとそういうのよくない!」

「だからお前やめろって! 最早相手にされてないぞ!」

「ほんと最悪! ばか! いい加減にしろよ!」

 シェリルはひとしきり唸って、もうどうにもならないと悟ってくれたのかフォークを手に取った。彼女は怒っているさまを存分にアピールしながらサラダとパスタを平らげる。アルマスさんがデザートのマセドワーヌを手にシェリルを宥めて、それでも彼女はむすっとしたままデザートを完食した。今は眉間に皺を寄せながら紅茶を啜っている。

「なあ、お前はこれからどうするんだ?」

 シェリルの鎮静化に奮闘していたアルマスさんは、彼も彼でどうにもならないと悟ったらしく、僕に話を振る。

「どう、とは?」

「また暴走する可能性がある中で、街に戻るのか、という話だ」

 成程、難しい問いだ。

「戻ります。もし仮にまた僕が暴走したとして、対処法がないわけではないんです。父親の伝手を頼りたくはないですが、手段として計上できるとも思うので。アルマスさんに現実的ではないでしょうし」

「まあ、な」

 アルマスさんは肩をすくめる。

「勿論、私的な問題が解決すれば街から出ます」

 お互い無かったことにして、シェリルに降りかかった火の粉を払うことができるまで。恐らく、すべて完了するまでさして時間は掛からない。

「そうか、ま、頑張れよ。あいつにも伝えたが、対処法の一つくらいはやるよ。同じ、堕ちたドラゴンのよしみでな」

 アルマスさんは溜息を混ぜ込んだ声で言う。僕が返事をしたので会話は終わりだと判断したのか、彼は自分の分のデザートを食べ始めた。思いのほか緩い追及に、拍子抜けする。あくまでもアルマスさんは偶然居合わせた他人であるので、私情に口を挟むつもりはないということなのかもしれない。

 依然シェリルは無言で僕を睨みつけてくるが、僕は応じるつもりはない。もう流されるわけにはいかないのだ。それはアルマスさんの言動から、より確かなものになった。

 僕はシェリルの傍にいない方がよいのだ。

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