第1章 千三百三回目の春

濃紫編

#1 方略 Ⅰ

 私――イーリス・ポルクネンは、かの悪しきドラゴンの腹心のもとを訪れた。

 ……というくだりも実のところ使い古されているのだが、今回は一味違う。今日は直接あの爺さんの家――ハーグナウアー邸にお邪魔することになったのだ。

「イーリスさん、僕の書斎はこちらです」

 品よく磨き込まれた革靴を優雅に繰り出して、赤髪の青年は私を先導する。見た目には私と同じくらいの年だろうか。高校生と押し通しても支障はない。

 だが見た目で騙されてはいけない。彼はあれで齢七百を超える爺さんだ。

 付け加えると、相応に偏屈である。

 彼の名はローレント・D・ハーグナウアー。黒い邪悪なドラゴン、アルマス・ヴァルコイネンを長いこと補佐してきた人だ。

 私はそんな彼の屋敷に招待された。彼が律義に私の質問を覚えていてくれたからだ。

「結構歩いている気がするんですけど、まだですか?」

 迷宮じみた白い屋敷の中を私たちは歩く。

 庭にはでかい池。ほとりには紫を基調とした構成でスイセンやチューリップ、アネモネが咲き乱れる。白い石畳を辿れば見えるのは、幾何学的に繰り返される窓がびっしり並ぶ円形の屋敷。中に入れば見渡す限り大理石の広い廊下。私たちが歩くチェスボードのような通路はゆうに普通車両一台が走れる。踵が床に触れるたび靴音が幾重にも反響した。

 まるで城だ。個人が占有していいものじゃない。

 門をくぐってから建物に辿り着くまで少なくとも七、八分は掛かっているし、屋敷に上げてもらってからもかなり経つ。あっちへ曲がり階段を降り、また曲がり――なんて具合だ。ずっと同じ柄を繰り返す大理石の廊下を移動するので、地図がなければ引き返せない。

「書斎は地下にあるんですよ。貴重な資料も多いので向かうには少々コツが要ります」

「隠し方が大掛かりだなぁ」

 解説する間にも彼は歩調を緩めず進み続ける。家の中を何分もかけて移動するなんて信じがたいが、まだ書斎には着かないらしい。黙々と足を動かすと玄関をくぐってから五分経った頃にドアに行き当たった。

「――お待ちかねの書斎ですよ」

「疲れたぁ……。階段だらけじゃないですか。エレベーターつけてください」

「不可能です。工事できる状態じゃないので」

 ひんやりと冷たい地下の空気をシャツの中に取り込んで私は火照りを追い出す。横目に見ると、目の前のハーグナウアーさんは汗一つかかず完璧な立ち姿でいた。あまりにも余裕をかましているのでなんだかむかつく。

 そんな私を見て彼は一瞬眉を寄せた。例にもよってまた心でも読んでいるのだろうか、瞳が青紫色に光っている。しかし彼はすぐ胡散臭い微笑に戻ってドアを押し開けた。

 ――目の前に広がる空間は、書斎と呼ぶには大きすぎる。

 デスクは私たちのいるドア付近から遥か遠くにあった。その距離五十メートルは下らない。私はハーグナウアーさんの後ろについて部屋の絨毯を踏んだ。ラズベリーのような深い赤がローファーを柔らかく包み込む。

 真円の空間の中央で、少し高くなったところにデスクが鎮座している。その周りを白い巨大な螺旋階段とヴィンテージウッドの書架が渦を巻くように埋め尽くす。ドーナツみたいな中抜けのフロアは、上に行くほど大きくなって積み重なっていた。そのまま視線を頭上に向ければ天井が目に入る。

 水だ。

 私たちの足元にゆらゆらとモザイクを投影するのは、ついさっき庭で見た池だろう。太陽の光を透かして空間全体を淡い青に染める。水底は渦潮うずしおの形をとり、その先端に透明な輝きのシャンデリアを吊り下げていた。

 私たちは書架の間隙を縫う。たちまちバニラのような本の香りと、魔力の放つ爽やかで甘い香りが肺いっぱいに広がった。中央へ向けてなだらかな丘を登っていけば帯状の灯りを一身に受ける大きなデスクとソファセットに至る。ニスで美しく黒光りするデスクの上には余計なものがない。

「どうぞ、掛けてください」

 ハーグナウアーさんはなめらかな曲線を描くソファを示した。私は精緻な植物の刺繍で飾られた座面に、恐る恐る腰を下ろす。体重をかけると体がふわりと浮いた。この優しく抱かれるような感触は生半可な椅子ではありえない。

「すごい場所ですね……。掃除が大変そう」

「いえ、掃除をしなくても清浄に保たれるようになっているので」

 全く、どこまでも手が込んでいる。

 ハーグナウアーさんは虚空から茶菓子とコーヒーを出してきて並べる。猫足のテーブルに宝石みたいなチョコレートやケーキが山のように配置されるもんだから、どこぞの貴族のお茶会にしか思えない。

 彼は泡立てたミルクを注いでコーヒーの水面に白鳥を描き出す。私にコーヒーを差し出して、彼は私の前のソファに座った。眼前に置かれたカップから香ばしく甘い湯気が立つ。

「ハーグナウアーさんは器用なんですね」

「そうでしょうか。慣れだと思いますが。何せ七百年間、この家の料理番をしていますから」

 彼はしれっと言ってのける。彼はこの家の当主だったと記憶しているのだが、料理なんてする立場なのだろうか。

「ええ、手間だからやってほしいとのことで。それに当主といってもずっと子孫を近くに置いているだけの爺さんですから。さほど偉くはありません」

 いよいよ彼の立場が謎だ。

「そんなに難しく考えなくていいんですよ。ただ長生きしているだけの爺さんに過ぎませんから」

「その発言が事態をややこしくしていることを自覚してください」

 私がそう言い切ると少し驚きを見せる。そして苦笑を滲ませながら咳払いした。

「わかりました。ではややこしくなくなるように、約束通り語って差し上げましょう」

 彼はテーブルに手を置く。そのまま手を横に流せば三冊の手帳が現れた。一冊はこの間ドッキリを仕掛けるときに使われた彼の手帳と似ていて、黒い革のカバーがかけられている。しかしもう二冊は見覚えがない。片方は雪柄の表紙が可愛らしいリングノート。もう片方はマットブラックの硬い表紙にプリント基板のような柄の輝きが奔る。

「まずは、僕がアルマス・ヴァルコイネンに出会った頃の話から」

 彼はストレートのエスプレッソコーヒーで口を潤す。カップを下ろし、黒い革の手帳を開いた。紙面を眺める瞳には仄かに哀愁が揺れる。

「――あの出会いは最悪でした。何せ、こてんぱんにやられるところから始まったんですから」

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