隋唐前夜

【魏晋南北昏君列伝】夜明け前、甚だ暗く

 最も暗いのが夜明け前である、と語ったのは誰であっただろうか。いま、この筆を取り、わたしはその暗きに怯えている。


 大いなるかん帝国の威光は遥かな昔。曹丕そうひが簒奪を為してを興してより、曹叡そうえいは宮殿造営に暇なく、曹芳そうほうは治国の君の才無しと退けられ、続く曹髦そうぼうは魏を圧するしん司馬しば氏に逆らい、殺された。魏に取って代わった晋も、対するはと、しょく。片や自ら打ち立てた国の後継者選びにしくじった孫権そんけんにより引き起こされた混乱のすえ孫皓そんこうなる奸物に踏み荒らされた亡国、片や暗愚の劉禅りゅうぜんが佞臣の跳梁跋扈を許した挙げ句国体を護持することもままならなくなった鄙地ひなちである。どちらの滅亡も、いわば自壊であり、司馬氏の徳望のゆえであったとは到底言えるまい。

 その証拠に、司馬炎しばえんは泡沫の天下の前に荒淫にふけり、国防をないがせとし、無能者を後継とした。司馬衷しばちゅうは稀に見る愚君と呼ばれ、あるいはその通りなのやも知れぬが、先帝の不明なくして、どうして愚君が立とうか。黄巾こうきんの乱以上に世を混乱に陥れた八王はちおうの乱、永嘉えいかの乱は、司馬炎が手繰り寄せたようなものである。

 永嘉の乱により、中原には胡族の跋扈を招いた。まずは匈奴きょうど劉淵りゅうえんの率いる前趙ぜんちょう。かの者自身は高度な漢人教育を施された教養人でこそあったものの、一皮剥けば所詮は蛮族であった。劉淵の死後、後継者劉和りゅうわは弟の劉聡りゅうそうに殺される。その劉聡が死ねば、後継者劉粲りゅうさんは配下の靳準きんじゅんに、靳準は皇族の劉曜りゅうように。血で血を洗う、と呼ぶしかあるまい。

 繰り返される簒奪劇の末、劉曜は酒に狂った。酔いにあかせての支離滅裂な施策の数々、放蕩の日々。やがて台頭してきたけつ石勒せきろくの率いる後趙こうちょうに攻め滅ぼされたのもむべなることである。その石勒も破壊、焼き討ち、穴埋め、騙し討ち。人道にもとる悪行の数々を働いている。後継者の石弘せきこうはいとこの石虎せきこに殺された。因果は巡るものである。虐殺、臣下の妻を奪う、享楽殺人。石虎に支配された中原にはやはり、血の雨が降った。死後には後継者たちの同士討ちが起こり、石閔せきびんという男が勝ち抜いた。ただしこの男は石虎の養子の息子である。つまり、血縁ではない。更に言えば羯族ですらない。漢人であった。

 漢人が玉座を射止めた、と言ってみれば、少しはマシに聞こえるかもしれぬ。だが同士討ちの末、後趙はもはや天下に覇を唱えるだけの威光を失っていた。加えて石閔、即位後本来の姓に戻して冉閔ぜんびんは、羯族、及び少しでも羯族をかばい立てしようとするあらゆる者たちを虐殺。人心を大いに沮喪した。配下であったてい族の苻洪ふこうきょう族の姚弋仲ようよくちゅうには逃げられ、挙げ句の果てに鮮卑せんぴ慕容皝ぼようこうが率いる前燕ぜんえんに攻め滅ぼされる有様。むしろ、中原にさらなる混迷を招いた、と言ってよい。

 苻洪、姚弋仲はそれぞれ群雄化し、中原を追われ長江ちょぷこうの南に逃れた亡命政権、東晋とうしんと組んだり、戦ったりを繰り返した。一方の前燕は急速に勢力を拡大こそしたものの、結局は連携の取れぬ蛮族の寄り合い世帯であった。慕容皝の弟の慕容評ぼようひょう、息子の慕容垂ぼようすいが対立し、国防のままならなくなったところで東晋、そして苻洪の孫である苻堅ふけん率いる前秦ぜんしんに付け込まれ、滅亡。その苻堅とて、淝水ひすいの一戦にて崩壊し、姚弋仲の息子である姚萇ようちょう率いる後秦こうしんに攻め滅ぼされた。ひとときの強勢を得たものが、すぐさま滅びゆく。その度に、いかほどの血が流れたことであろう。

 これほどの動揺に晒された中原を、しかし東晋の者たちは奪還が叶わなかった。何度かの北伐こそ志したものの、その殆どは国内の体勢不一致のため頓挫、失敗。その最終局面に現れた劉裕りゅうゆう洛陽らくよう長安ちょうあんの奪回という武勲こそ立てたが、それらも所詮は劉裕による簒奪の根拠付け程度のものでしかなかった。劉裕は名族らの後押しを受け司馬氏を粛清、遂には劉宋りゅうそうの皇帝として即位した。いわゆる、南朝の興りである。

 一方で、真に中原を支配したものが誰であったか。慕容垂の親族、鮮卑の拓跋珪たくばつけい率いる、北魏ほくぎである。中原の遙か北に本拠を構え、前秦崩壊後の群雄割拠を踏み潰す。その中には親族であったはずの慕容垂率いる後燕こうえんも含まれていた。ただし拓跋珪は、王としてのし上がるまでに多くの親族、姻戚を滅ぼさねばならなかった。逃避のためか、晩年には酒に狂っていた。そして酔うと見境なく暴虐を振るうようになっており、その凶態を危ぶんだ息子、拓跋紹たくばつしょうに殺害されている。拓跋紹はさらに兄の拓跋嗣たくばつしに殺された。とは言え北魏は拓跋嗣のもとで体勢を整え、息子の拓跋燾たくばつとうの代で中原を支配し得たのだが。なお、ここから北魏は北朝と呼ばれる。


 南朝と、北朝。すなわち大国同士の軋轢である。その支配者たる皇帝には多くの欲望、怨嗟、怨念が集うこととなる。

 例えば、南朝。劉裕死亡後に立った劉義符りゅうぎふは皇帝の資格なしと配下に殺された。その配下たちは次に立った劉義符の弟、劉義隆りゅうぎりゅうにより滅ぼされる。その劉義隆も息子の劉劭りゅうしょうに殺され、劉劭はさらに弟の劉駿りゅうしゅんに。ここで劉駿は自らの息子の皇位を脅かしかねない親族を葬り去ったが、あとを継いだ劉子業りゅうしぎょうは劉駿の弟、つまり叔父の劉彧りゅういくに殺された。その劉彧が皇位を簒奪すると、今度は劉駿の血統を殺し尽くす。そうして血の池の中より即位した、劉昱りゅういく。史書には「生来殺人を好んだ」と載っている。もっとも、その記述は劉宋より簒奪をなした南斉なんせいの筆によるものであるから、幾分は割り引いて見るべきものでもあろうが。

 皇族が皇位をめぐり争えば、その求心力は否応なしに低下しよう。ならば臣下は、別なる神輿を求めよう。それが蕭道成しょうどうせいであった。宮廷内の駆け引きに勝利し、第一人者となったかれもまた簒奪をなし、南斉の皇帝となった。そして在りし日の劉裕と同じよう、劉氏の粛清をなす。その苛烈なる因果応報劇は、劉氏皇族の言葉として残る「願後身世世勿復生天王家」が全てであろう。生まれ変わっても皇族にはなりたくない、と語ったのである。

 無論、この国の生まれが生まれであるから、やはり血の因果よりは逃れきれずにあった。蕭道成の甥、蕭鸞しょうらん。皇帝に即位した従兄弟たちを補佐したが、その中で実権を伸ばし、遂には皇位を簒奪、いとこの血統を殺し尽くす。その蕭鸞のあとを継いだ蕭宝巻しょうほうかんの伝記がさながら生まれ変わった劉昱のごときであるのは、決して偶然とも言い切れまい。そんな「無道であった」蕭宝巻が別なる皇統に取って代わられるのは、もはや火を見るより明らかであったろう。南斉の命運が尽きたのは、蕭道成の戴冠より約三十年後。劉宋の命運は約五十年であったから、いかにその体制が脆弱であったか、いかにその崩壊が迅速であったかがよくわかる。

 南斉にとどめを刺したのが、蕭衍しょうえん。姓からもわかるとおり蕭道成の親族だが、その血塗られた轍から逃れたい、と考えたのであろう。国号をりょうと改めた。

 梁の時代は、南朝の最盛期と呼ばれている。だがそれも、結局は蕭衍と言う個人あってのものでしかなかった。長らくの治世の末、徐々に蕭衍の判断力も低下。元々仏教に傾倒していたかれはその度合いを激しくしてゆき、遂にはその信仰で国庫すら傾けるに至る。陰りの見えた梁に、北地より、人の形をした災厄が訪れる。後の宇宙大将軍うちゅうだいしょうぐん侯景こうけいである。侯景によって蕭衍が殺され、傀儡の後継者が立てられた。実質上、南朝はここに滅んだといって良いだろう。


 皇帝に集う腐臭は、北朝でも似たようなものであった。中原を統一した拓跋燾は後継者候補を宦官の宗愛そうあいに殺され、挙句報復を恐れた宗愛に自身も殺されている。その宗愛は間もなく拓跋濬たくばつしゅんに討滅された。拓跋濬の死後馮太后ふうたいごうの執政を経て拓跋宏たくばつこうの治世となるのだが、この拓跋宏が北魏に修復不能な傷をもたらした、と言える。世に漢化政策と呼ばれ、偉業として語られている。しかし蓋を開けてみれば鮮卑としての起源をないがしろとし、中途半端に漢族文化にすり寄ったがため、もともと北魏を支えてきた武将たちよりの不信や反感、端的に言えば憎悪を招き寄せた。

 そして、ただでさえ怨嗟の的となっていた北魏朝廷をこの頃支配していたのが、霊太后れいたいごう氏。皇帝の母と言う立場を濫用し、自らの思うがままに皇帝の首を次々と挿げ替える暴挙に出る。これで北魏朝廷の威信は甚だしく低下。ついには柔然じゅうぜん突厥とっけつと言った北方騎馬民族から国を守る立場にあった前線基地、いわゆる六鎮りくちんを起点とした、大規模な乱を招くに至った。すなわち、六鎮の乱である。

 衰微する勢力があれば、台頭する勢力もある。六鎮の乱討伐で、一人の男が名を上げる。爾朱栄じしゅえいと言う。北魏軍の将軍として著しい活躍を見せ、遂には国の第一人者の立場にまで上り詰める。そしてこの大乱のさなかにあっても未だ利己的に振る舞う胡氏らを憎み、胡氏をはじめとした北魏の皇族を河陰かいんで虐殺した。ここで北魏も事実上滅亡したといってよい。

 その後爾朱栄は生き延びた北魏皇族によって殺されるのだが、かれによって蒔かれた種はもはや摘み取り切れるものではなかった。配下にいた人物の名を挙げよう。高歓こうかん宇文泰うぶんたい、そして侯景。即ち北魏分裂、梁滅亡の立役者たちだ。爾朱栄の残存勢力を高歓が吸収、反爾朱栄勢力を宇文泰が糾合。それぞれが北魏の皇族を推戴し、我こそが北魏の後継である、と名乗るも、高歓、宇文泰が死亡したのちには北魏皇族を排除。高歓の息子高洋こうよう北斉ほくせい皇帝と、宇文泰の息子宇文覚うぶんかく北周ほくしゅう皇帝となった。侯景は両者の間を渡り歩いた末、梁に亡命。

 北斉を建てた高洋は非常に有能であり、かつ、非常に残虐であった。元々将軍として多くの武勲を打ち立ててはいたが、その時の破壊衝動が治まり切れなかったか、即位後も多くの無辜の人間を手にかける。そして浴びるように酒を飲み、四十にもならずして死亡。後を継いだ息子の高殷こういんは叔父の高演こうえんに殺された。その高演も間もなく謎の急死を遂げ、更にその弟の高湛こうたんが起つ。その高湛は放埓な振る舞いの末、わずか十歳の息子に譲位した。この状態では皇帝の威厳も何もあったものではない。元々優勢であったはずの北周に国力を逆転され、そして攻め滅ぼされた。

 北周。大いなるずい帝国を打ち立てられた太上皇たいじょうこうの出身国であるが、この国も平穏とは程遠い歩みであったといえる。国を建てたのは宇文覚であったとはいえ、実権は叔父である宇文護うぶんごの元にあった。あくまで傀儡でしかなかった宇文覚はその立場を嫌い、宇文護を滅ぼそうとするも、先手を打たれて殺されてしまう。宇文護は次いで宇文覚の兄、宇文毓うぶんいくを皇帝とし、殺した。そして更に宇文覚の弟、宇文邕うぶんようを。しかし宇文邕は大人しく殺されず、むしろ宇文護の討伐に成功した。更には国の体制を整え、遂には長らくの仇敵であった北斉を制圧さえする。しかしながら、その心労のゆえであろうか。間もなく死亡。これで後を継いだ宇文贇うぶんひんが賢明であればよかったのだが、歴史とは残酷なものである。贅沢三昧の生活の末、太上皇に政務を一任。更にはわずか七歳の息子宇文闡うぶんせんに皇位を譲り、自らは天元皇帝てんげんこうていと自称した。これら好き放題の振る舞いをすれば、民心は皇室より離れゆこう。太上皇が禅譲を受けるに至ったのも、当然至極の流れであったといえる。


 周室を承け、隋を興された太上皇。崩ぜられたのち、文皇帝ぶんこうていと諡されたのは記憶に新しきところである。

 この頃梁は侯景により破壊され、侯景を討った二人の武将、王僧弁おうそうべん陳覇先ちんはせんとが覇を競っていた。勝利したのは陳覇先。敢えて自らの姓と同じ字の地、即ち陳国の封爵を受け、更にそこで王位に就いた。この手続きを経て名目だけ続いていた梁帝より正式に簒奪、陳を興す。だが間もなく死亡。後を継いだ者たちも北朝に、隋に抗いはしたが、遂には後主陳叔宝ちんしゅくほうの代に至り、滅亡。

 迫る隋軍を前に、陳叔宝は妾二人と井戸に隠れる有様であった。一方で息子の陳深ちんしんが堂々たる態度で隋軍の来訪を労ったという。これではどちらが国の主か分かったものではない、と笑いものになった、と聞いている。

 かくて晋のかりそめの天下一統より下ること、実に三百年。国と国とが相争う悲劇は終焉を迎えた、かに見えた。しかしながら今上きんじょうは、果たしていかほど先帝の業を受け切れておれようか。永らく国土の東北部を擾乱してきた高句麗こうくりは、確かに討ち果たすべき姦賊である。ならばこそ、いたずらに宮城を造営させ、民を疲弊させたうえでなす遠征ではあるまい。

 今上の振る舞いには、どうしても虚栄の影が見え隠れする。漢が滅びてより、我らが味わった艱難の数々を顧みるに、それらは最も忌むべき振る舞いのはずである。どのような結果が引き起こされるかなど、ここまで費やしてきた文字を振り返れば、自明である、と言わざるを得ない。


 夜は、未だ明けていない。

 人々は疲労の極みにある。

 今こそ、朝日が昇るべき時である。



 大業九(613)年。琢郡たくぐんにて、李世民りせいみん記す。




解説

https://kakuyomu.jp/works/1177354054893915600/episodes/1177354054893916006

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