コラム
『本当の環境保護とは?』
セオドア・J・ドーソン著
地球にとっては人類がいようがいまいがどうでもいい。そういう感情すらないのだから。なのに自然環境保護を叫ぶとき、人間はやたらと地球を擬人化したがる。「地球が悲鳴を上げている」だの「死にかけている」だの。
生物がいないのが悲劇なら、未だ生命を発見できていない地球以外の現在観測できる全ての星を哀れまねばならないではないか。むしろ、惑星に人のような感情があるとして語るなら、唯一生命がいる地球こそみなと違う異常な状態の星になる。
だいたい人間が介入するまでもなく、地球は過去六度も自然に大絶滅を引き起こしているのだ。有名な恐竜の絶滅もその一つ。人も自然が生んだ動物に過ぎないなら、それによる大絶滅もまた自然の仕業に過ぎないだろう。往事の大絶滅には現代の比ではない規模のものもあったが、それでも次の種が栄えただけだった。
生命誕生以来、それが完全に費えたことはない。おのおのの大絶滅によってそのとき支配的な地位だった生き物が死滅しても、次の新たな環境で生きやすい種が栄えて取って代わったてきただけだ。以前の種の絶滅がなければ、今人類は繁栄していまい。人類が死に絶える環境になったところで、そこで生きやすい別な生物が覇権を握るだけだろう。
我々以前に繁栄していたのに滅びた種からすれば、人類にとって生きやすい現在の環境を保護されることこそ環境破壊といえよう。それは、我々が滅びたあとに栄える種にしても同一だ。
例え全ての生き物が絶滅しても他の惑星と同じ状態になるだけ。〝それは困る〟という知性を持つ者以外誰も困りはしない。
環境保護の本質は、こうした地球四六億年の歴史で、ホモ・サピエンスが栄えているたかが数万年でしかない刹那的な今の環境が、人にとって都合がいいので保持しようというものでしかなく、本質的に人のためでしかない。
にもかかわらず偽善者である人類は、それを地球のためということにしたくて仕方がない。そうしたエセ環境保護者が、むしろ非効率的な環境保護やエコテロリストのような歪みを生み出しているのではないだろうか。
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