甘くて、ほろ苦くて、どうしようもなく涙が出る(前篇)

 二月。男子も女子もほんの少しだけそわそわして、お互いを意識してみたり、みなかったりする季節。


「バレンタインなんてチョコレート会社の策略」

「用意するのめんどくさくない?」

「お返しとか怠いからいらねえし」

「甘いもの苦手なんだよねー」


 みんな口ではそう言ってみたって、年に一度のこのイベントに、あるいはこの日が連れてくる浮ついた空気に、少なからずわくわくしたりする。

 かくいう私もその一人。

 イベントはイベント。家で大量に生産したチョコレートを持ち寄って、友達と先生と、クラスメイトたちに振る舞う。もちろん友達も作ってくるから、それを貰ってチョコレートパーティをする。

 セントバレンタインが何某かは知らないし、何でチョコレートなのかも分からない。だけど私たちは年に一度、この日だけは日頃気にするカロリーとは無縁に、チョコレートの甘さを堪能する。体育祭とか文化祭とか、友達の誕生日とか。そういう数あるイベントのうちの一つ。楽しければそれでよし。恋とは愛とかとは無縁の、私のバレンタイン。


「ねえ、美郷みさとはさ、誰かにあげないの?」

「へ?」


 昼休み。いつものように机を寄せ合ってお弁当を囲んでいた私は、明音あかねが唐突に向けた質問に間の抜けた声を出す。


「だから、バレンタイン」

「ああ、うん。今年も作るよ、みんなに」


 私がそう答えると、明音が溜息を吐く。どうやら私の解答が気に食わなかったらしい。


「違うって。配布用ぎりはいいんだよ。そうじゃなくて、本命の話」


 明音が私の腕を肘で小突く。わざとらしく声を潜めたりするもんだから、答えづらくてしょうがない。もちろん、誰かにそんな気持ちのチョコレートを渡す予定はない。

 私が言い淀んでいると、明音はからかうようにもう一段声を潜める。


佐羽さわは一組の寺尾に上げるんだって」

「ちょっと明音、やめてよー」


 話題に上った佐羽は恥ずかしそうに頬を赤らめている。からかわれるのもまんざらではなさそうな佐羽を見て、私は女の子だななんて当たり前のことをぼんやりと思う。

 カーディガンから覗く細い指を飾る薄ピンク色の可愛らしいネイル。流行りのシースルーバングに、動きに合わせて揺れる緩く巻いた栗色の髪。

 こんな風に女の子でいられたら、きっとバレンタインだってもっと甘かったり、ほろ苦かったり、甘酸っぱかったりするのかもしれない。


「……私は、とくに考えてないかな」


 少し考える間を置いてから言った私に、明音は「えー、つまんなーい」と冗談を飛ばす。ならお前はどうなんだとつい聞きそうになるけれど、明音はどうせ彼氏に上げるだろうから聞くだけ無駄だった。


「にしてもさ、美郷ってほんとそういう浮ついた話ないよね。男子と喋ってるところすらあまり見たことない」

「たしかに。まともに話すの光井みついくらいだよね」

「まあ、勇人ゆうとは何ていうか、幼馴染だし。あんま男子って感じじゃあね」

「え、なになに? 俺の話? 今俺の話してた?」


 私の頭上を飛び越えてくる声に、思わず眉を顰める。振り返れば、購買のパンを抱えた光井勇人みついゆうとが立っていて、何やら楽しそうに私たちの話へと割り込んでくる。私たちは、少なくとも私は全然楽しくなんかない。


「今俺の話してたよね? 何の話?」

「あーうん、してたしてた。馬鹿だよねって話」

「えー、何それー、美郷ひでぇー」

「はいはい。早く席戻んなって。ほら、行った行った」


 私は勇人をしっしっと追い払う。やっぱり勇人は何故か楽しそうに、「へいへーい」とかなんとか言いながら友達たちの輪へと戻っていく。何だあいつ。ダル絡みすんな小学生か。


「光井相手だと普通なのにね」

「普通っていうか俄然強気だよね」

「美郷。こうなったら光井に本命チョコ上げたら?」

「ね。それいいかも。幼馴染だしアリじゃん」

「いやいやなにがどうなったの。どう考えてもなしじゃん。どんな罰ゲームで私が勇人に本命チョコあげるのさ」


 二人の冗談を私は完全否定。言い回しがおかしかったのか明音と佐羽がけたけたと笑う。私はお弁当の卵焼きを頬張って、好き放題話している二人を眺める。


「罰ゲームって。言い方」

「光井も報われないねぇ」

「美郷から貰えなかったら一個も貰えなさそう」

「えー、でもサッカー部とかってマネの子が配るんじゃない?」

「それほぼお母さんとかお姉ちゃん枠でしょ」

「あ、サッカー部と言えばさ、清水くんってどんくらい貰うんだろ」

「あー清水ね。去年は二六個って聞いた」

「まじ? やば」


 思わぬ会話の飛び火に、私は口に詰め込んでいた卵焼きを喉に詰まらせる。咽る私のせいで会話が中断し、明音と佐羽が私の肩を擦ったりお茶を渡したりしてくれる。

 別に動揺したわけじゃない。ただほんのちょっと、不意を突かれて驚いただけ。

 たぶん二人の言う通り、私には男っ気がない。男子とうまく話せないなんて初心な気持ちはないけれど、勇人以外によく話す男子は思いつかないし、必要がなければ話そうとも思わない。

 だけど恋愛と無縁かと言われると、そうでもない。二人にも話していないけれど、私にはちゃんと好きな人がいる。

 二組の清水くん。一年生のときからサッカー部のエースで、成績もトップクラス。街を歩けば雑誌のスナップ撮影を頼まれるような高身長のイケメンだけど、能力や容姿を鼻にかけるようなことはなく、誰にでも平等に優しさをもって接する。先輩後輩はもちろんのこと生徒から先生からも信頼に篤く、男女問わず好かれているそんなスーパーマン。

 そんな清水くんの評価を頭のなかで思い浮かべて、その高嶺の花具合に私はげんなりする。

 別に彼とどうにかなりたいわけじゃない。私じゃ釣り合わないことなんて知っている。何かを望んでしまえば、その分だけ自分が傷つくのだと分かっている。

 それでも抱いてしまった恋心だ。叶わないからと言って消してしまうことなんてできない。

 だからこの気持ちは私だけの秘密。

 見ているだけで十分。思っているだけで十分。

 バレンタインに本命チョコを渡すなんて以ての外。

 そうやって、私は今日も自分に甘くて苦い嘘を吐く。


   ◇


 清水くんを好きになったきっかけは去年の体育祭。

 私の学校は伝統として、体育祭のフィナーレにクラス対抗リレーなるものを走らされる。

 一つのクラスから男女五人ずつが選抜されて計一〇人。行事に全力で取り組むクラスの方針で、たまたま体育で頑張ってしまった私は女子の五人目に選ばれてしまっていた。

 当然憂鬱だった。私は注目を浴びるのが苦手だし、そもそも走るのだってそんなに早くない。一年生は全部で四クラス。たぶんリレーの代表選手四〇人のなかで私が一番遅いだろう。

 そんな実力を考慮してか、私の出走順はアンカーの一個手前。前半で大差をつけて貯金をつくりそのまま逃げ切る作戦らしい。

 アンカーは清水くん。もちろん彼が遅かったわけではなく(むしろクラスで一番速い)、単に責任重大なアンカーを誰もやりたがらなかったことが原因だった。

 仮に私が皆に抜かされても、清水くんならなんとかしてくれるだろう。清水くんを見ていると、なんだかそんな気分になって少しだけ気持ちが楽になった。

 果たして、クラス対抗リレーは私たちの立てた前半逃げ切り作戦通りに推移していく。

 私の前の走者の時点でトップ。だけど二番目のクラスがじりじりと追い上げてきている、緊迫感のある展開だった。

 大丈夫。私が二番目に落ちても清水くんが何とかしてくれる。

 私はそう言い聞かせてレーンに立つ。応援団の太鼓の音が響き、割れんばかりの声援がグラウンドを包む。私は小刻みに震える手をぎゅっと握って浅い呼吸を繰り返す。


「須藤さん!」


 五感を全部覆うような喧騒のなかでも、その声だけははっきりと聞こえた。声のほうを見れば、アンカーはちまきを頭に撒いた清水くんが私に向かって手を振っていた。


「須藤さん、大丈夫だから」


 きっと私に声を掛けたのは、クラスの勝利のため。あるいはたかだか体育祭の一種目で世界の終わりみたいな顔をしている私を可哀そうに思っただけ。

 だけど清水くんが出走直前のわたしに投げ掛けてくれた言葉は、私の震えをぴたりと止めた。

 私は前の走者からバトンを受け取って走り出す。すぐ後ろに、追ってくる誰かの足音が聞こえる。私は無我夢中に腕を振った。清水くんがくれた大丈夫という言葉を信じて、私は懸命にコーナーを抜ける。

 バックストレートに入ってすぐ、一人に抜かれた。バスケ部の女の子。スポーツ万能で知られている子だ。懸命に追い駆けたけれど、その背中はみるみるうちに遠くなっていく。

 二度目のカーブも真ん中に差し掛かったところで、私は三番目だったクラスに並ばれた。私の身体は凍りついたように動かなくなった。

 そんなはずがない。だって三番目とはまだまだ差があったはずだ。

 そう思ったら視界が急に狭くなって、息ができなくなった。背中を押してくれていた声援は遥かまで遠退き、代わりに手足にまとわりつくような落胆の声が聞こえてくる気がした。私の身体はますます動かなくなって、とうとう足がもつれてしまう。

 気がつくと悲鳴が響いていた。美郷、美郷と私を呼ぶ友達の声が聞こえた。

 私は遅れて、自分が転んだことを理解する。擦りむいた腕や膝がじんじんと痛む。三番目はもちろん、四番目だったクラスにも私は抜かれている。

 どうしよう。目の前が真っ暗になる。手足はもはや痛みすらちゃんと感じられなくて、情けなく震えていた。


「須藤さんっ!」


 喧騒を切り裂く声が聞こえた。ただ一人、バトンゾーンに立っている清水くんが、さっきと変わらぬ笑顔と声で私に手を振っていた。


「ラスト! 大丈夫だから!」


 私はバトンを握り直し、立ち上がる。清水くんが待つバトンゾーンまで必死で駆け出す。一秒でも早く、一センチでも遠く。私の伸ばした手から清水くんへ、バトンが渡る。


「ごめんなさい」

「大丈夫! 後は任せて」


 清水くんは笑顔でバトンを受け取ると、あっという間に加速していき前のクラスを抜き去っていく。清水くんの後ろ姿はすぐにカーブを曲がって傾いていく。

 まるで一人だけ時間の流れが違うみたいだった。笑顔から一転、真剣そのものの表情で走っていく。二番目のクラスを抜いた。先頭のクラスの横に並ぶ。だけど向こうにも意地がある。二人は一歩も譲らずに競り合った。もう少し。もう少し! がんばって! 

 気がつけば私は叫んでいた。

 ゴールの手前、相手が清水くんの前に出る。身体半分だけ前に出た相手の胸が、清水くんよりもほんの少しだけ先にゴールテープを切った。

 歓声が沸いた。ゴールするや清水くんはクラスの皆に囲まれる。かっこよかった。お前めちゃくちゃかっこいいよ。まるで私が転んだことなんて忘れたみたいに、口々に放たれる称賛と悔恨が清水くんを出迎える。

 だけど清水くんはクラスメイトたちを掻き分けて、私のもとへとやってくる。

 お前が転ばなけりゃ一位だった。そう言われても仕方ないと思い、私はぎゅっと目をつぶる。


「はい」


 だからそんな意味の分からない言葉を掛けられて、私は思わず目を開けた。グラウンドに座り込んでいる私に背を向けて、清水くんがしゃがんでいた。


「保健室行こう」

「……歩けるよ」

「いいから早く」


 清水くんは半ば強引に私を背負い、正規の退場も待たずにグラウンドを後にする。盛り上がるグラウンドのクラスメイトたちは何が起きたのか分からず、ほんの一瞬だけ静まり返っていた。


「ごめんなさい……」


 誰もいない昇降口。清水くんの背中に掴まりながら、私はまだ少し息の荒い清水くんに言う。

 グラウンドでは二年生のクラス対抗リレーが始まっているらしかった。だけど盛り上がる熱気は、どこか別の世界のことのみたいに遠く感じられた。


「痛いよね。グラウンドで転ぶと。俺、サッカー部だからよく分かる。すぐ洗って消毒しないとさ。グラウンドって意外とばい菌だらけなんだってさ」

「……ごめんなさい」

「転んだこと? 全然。それならむしろ俺のほうが、謝らないと。後は任せてーとかカッコつけたのに二番だったし」


 清水くんが冗談めかして「はは」と笑う。私は清水くんの肩をぎゅっと掴む。


「いいじゃん、二番。気にするなよ。どうせみんな体育祭の出来事なんて、明日になれば楽しかったーくらいにしか覚えてないんだしさ。俺も須藤さんもみんなも一生懸命走った。それだけで、めちゃくちゃいい思い出だろ?」


 私の目から堪えていた涙が溢れ出す。声は出すまいと抑え込んだせいで、しゃくり上げたみたいな不恰好な泣き声が漏れる。

 清水くんはそれ以上何も言わなかった。私が泣き止むまで、ただ黙って大きな背中を貸してくれていた。


   ◇


 どうやら眠っていたらしい。

 部活をしていない私はバイトのシフトが休みだと、こうやってうたた寝するくらいには時間を持て余す。普段なら明音や佐羽と一緒にカラオケに行ったり、ファミレスで駄弁ったりするのだが、生憎この日は二人とも別の予定があって、私はフリーだった。

 家のなかは静かだ。一七時半。まだ両親は仕事から帰ってきていないし、中学生の妹もまだ部活の最中だろう。

 小腹が空いた私は冷蔵庫を検めて何もないことを確認し、最寄りのコンビニに出掛けることにした。

 だいぶ延びたとは言えまだ二月。一八時前ともなれば空はもうそれなりに暗いし、空気はよりいっそう冷たくなっている。私はダッフルコートを着こみ、大きなポケットに財布とスマホを突っ込んで自転車を走らせる。

 自転車に乗ればコンビニまではあっという間。緩やかな坂道を下って住宅街を走ればすぐに煌々と光るコンビニの看板が見えてくる。

 入り口の上にはピンクと茶色の幕が下がっている。〝バレンタインフェア〟という躍り出しそうなほど楽しげなフォントとともに人気のアイドルが笑顔で私を見下ろしていた。

 いつもなら気に留めることもないポップのはずなのに。

 今日のお昼にあんな話をしたせいで変に意識しているな、と私は自戒も込めて溜息を吐く。

 とは言え、そろそろ配布用のチョコの材料をスーパーで見繕ってこなければいけないことも確か。私はスマホで手作りチョコのレシピを調べたりしながら、コンビニでスナック菓子と紅茶を買った。


「お、美郷じゃん」


 そう声を掛けられたのはコンビニから出た瞬間のこと。

 見れば白い息を吐きながら自転車を押している勇人が立っていた。


「なに? チョコの買い出し?」

「残念でした。ポテチですー」

「夕飯前にこんなの食ったら太るぞ」

「はい、余計なお世話」


 私はチャリの籠にポテチと紅茶を突っ込み、勇人に並んで自転車を押す。このまま自転車に乗って颯爽と帰っても良かったのだけど、そうしなかったのは、まあそれはあんまりだろうというという私のなけなしの優しさだ。


「部活?」

「そ。今日は軽めだったから早く終わった」

「毎日大変だねー。こんな寒いのに」

「まあなー。今年惜しいところで負けちゃったから、皆来年こそはって気持ちが強えんだよ。清水もいるし」

「清水くん上手だもんね。勇人と違って」

「俺と清水はポジションが違えの! あいつはトップ下で俺はサイドバックなの! 失敬なやつだな」

「ふーん」


 私は努めて生返事をする。

 もちろんこれは勇人の見栄だろう。点を取るとか取らないに関わらず、ただドリブルしているのを見ていたって、清水くんがずば抜けて上手いことは素人目にも分かる。

 しばらく私たちは沈黙し、自転車のペダルがからからと回る音だけが響いてた。


「なあ、美郷」


 やがて勇人が溢すように言う。いつもあれだけ騒音同然の声で喋っているくせに、今だけは風に紛れて消えてしまいそうな声だった。


「なに?」

「お前もさ、清水にチョコあげたりすんの?」

「は? な、何で私がそんなことすんのよ」


 咄嗟の否定だった。あまりに咄嗟で断定的で、逆に怪しいかもしれない。もしあげるとしてもあんたには言わないしあげない。そう付け足そうと思って私は口を開きかけ、だけど勇人の寂しそうな顔を見て口を噤む。

 勇人は私に向けられた視線に恥ずかしそうに笑って、手袋を嵌めた手で頬をかく。それからいつも通りの馬鹿っぽい笑顔で口角を吊り上げる。


「なーんだ。よかったぜ。いやさ、部のみんなでチョコの数勝負してんだよ。去年は清水の一人勝ちだったからな。幼馴染のお前まであいつにやるってなったらピンチだなーと思ってよ」

「何がピンチだなーよ。そもそもあんたになんかあげないし」

「え、何でだよ。小学校のときとかくれたじゃん!」

「いつの話してんの……。てか、私があげてもあげなくても、あんたが清水くんに勝てるわけないでしょうに」

「いや、諦めたらそこで試合終了なんだぜ?」

「それバスケだから」


 私が吐いた溜息に、勇人がからっとした声を上げて笑う。

 溜息の意味も知らないくせに。

 私は不意に頭のなかに浮かんでしまう清水くんの後ろ姿を掻き消すように、乱暴に目を擦る。


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