さよならが、まだ言えない

 それはまるで煙草みたいな恋だった。

 身体も心も傷ついて、毒にしかならないような恋だった。

 拙くて、歪で、不器用で、みっともなくて。

 そんな運命の――たった一度きりの恋だった。


   ◇


 彼に出会ったのは四月。

 大学に入って仲良くなった友達に「ただ飯が食べれる」と連れて行かれた、よく分からないサークルの新歓。

 生まれて初めて経験する飲み会の空気に揉まれ、あるいは東京という煌びやかな街の煌びやかな夜の熱気にあてられて。うまく馴染めずにオレンジジュースを啜り、冷めたポテトを摘まむ私の目に留まったのが彼だった。

 二つ上の学年の彼は盛り上がる場の雰囲気を寄せ付けない、不思議な人だった。

 長い前髪に左耳のピアス。少し大きめのカーディガンを羽織って、袖から覗く細い指には煙草が一本握られていた。気怠そうな眼差しが、Tシャツの緩い首元から覗く鎖骨が、煙草を摘まんでいる指が、すごく色っぽく見えた。

 まるで彼の周りだけ、時間が緩やかに流れているように見えた。

 もちろん飲み会の空気から浮いているわけではない。話しかけられればごく自然に話を合わせ、ごく自然に笑顔を返す。次々と運ばれてくる料理だってちゃんと楽しんでいたし、誰かに「ペースが遅いぞ」なんてからかわれれば、溜息混じりにグラスのお酒を飲み干した。

 気がつけば彼の挙動を目で追っていた。

 見ているのがバレないように、不自然にきょろきょろしながら、私は常に彼を意識と視界の隅に留めていた。

 たぶん一目惚れ。

 今思えば私はもう、彼のことが好きだった。

 とは言え、その新歓で私と彼が話すことはなかった。離れた席に座る彼に話しかけに行くような勇気は私にはなかったし、何人かいる新入生を満遍なく気に掛けるような素振りは彼になかった。

 だから奢ってもらったお礼を言って、私は友達と真っ直ぐに帰路に着いた。

 結局そのサークルには友達も私も入らなかった。だからたぶん、もう彼に会うことなんてないんだろうと、そう思っていた。



 それからしばらく、そんな新歓のことなんて忘れてしまうくらいの、怒涛の日々が流れていく。

 慣れない大学の授業や課題にアルバイト、おまけに一人暮らしの家事。私は要領がいいほうではなかったし、特に家事に関してはお母さんのありがたみと偉大さを身をもって知ることになった。

 少し油断すれば脱衣所の洗濯物やシンクの洗い物が溜まっていった。大学が休みの日にまとめてやろうとにも、土日は稼ぎ時だ。一日働いて疲れて帰ってきた私は冷たい水で顔を洗い、ほっぺをつねったりしながら食器を洗うなどした。

 忙しかったけれど充実していた。

 大学での勉強は面白かったし、キャンパスで友達と過ごす時間はかけがえのないものだった。アルバイト先の店長は優しかったし、賄いは美味しかった。家事は大変だったけれど、一人暮らしの自由は地元にいては絶対に味わえないものだった。

 東京という街は忙しなくて、だけど煌びやかで、ずっと憧れがあった分、すごく素敵に思えた。それこそ子供のころに集めたガラクタばかりの宝箱みたいだな、なんてポエミーなことを考えたりしながら、私は新しく始まった生活を満喫した。

 彼に再会したのは、もうすっかり東京での学生生活にも慣れたころだった。


「落としましたよ」


 そう声を掛けられて私は振り返る。トートバッグの外ポケットに突っ込んでいたはずのパスケースが確かに地面に落ちていた。

 すぐに彼だと気がついた。だけど話しかけるだけの勇気はなかった。

 だって私と彼はたった一度、新歓で同じ席に座っただけ。交わした言葉は一言だってないのだから、彼が私を憶えているはずがない。むしろ憶えている私のほうがおかしいのだ。

 声を掛けてくれた彼は細い指でパスケースを拾い上げる。だけどすぐに渡してはくれなくて、パスケースをじっと眺めている。


「この映画……」


 パスケースを受け取ろうとした私はそう言われて、この前観た映画の半券が突っ込んだままになっているのに気がつく。ずぼらな性格が災いしただけなのだけど、私はなんだかプライベートをさらけ出してしまったような気がして恥ずかしくなった。


「あ、すいません。これ返します」

「あ、ありがとうございます……」


 彼がパスケースを差し出す。私は映画の半券の恥ずかしさのせいでろくに顔も見られなくて、不自然に顔を逸らしながらパスケースを受け取る。

 そして――。


「あの、違ったら申し訳ないんですけど、前に新歓でお会いしたことありますよね?」


 彼が私にそう言った。

 私は驚いて顔を上げ、思ったより近くにあった彼の顔に驚いてまた顔を背ける。そんな私を彼がどんな顔で見ているのか気になったけれど、怖くてもう一度顔を上げることはできない。


「あ、はい、たぶん、その、新歓で、お会いしたことあります……」


 なんとかそれだけ絞り出した。

 相変わらず顔は見られなかったけれど、彼がふっと頬を緩めるのだけは自然と分かった。


「よかった。違ってたらすげー恥ずかしい奴でしたね、僕」


 僕って言うんだ、なんてそんなことを意外に思ったりして。


「それじゃ」


 もしも運命というのがあるのなら、それはきっとこういう出会いのことを言うのかもしれない。小説や映画にするにはささやかだけど、これを運命の恋だと呼ばずして、一体何をそう呼べばいいのだろうか。来年には二十歳になる私は、そんなメルヘンなお伽話みたいなことを、年甲斐もなく思ったりして。

 だから小さく頭を下げて踵を返す彼を呼び止めるのに、躊躇いはなかった。


   ◇


 簡単に言えば、彼と私は馬が合った。

 お互いの趣味である映画の好みが似ていたし、笑いのつぼも近かった。何より私が一緒にいたいと思ったときに彼は私と一緒にいてくれたし、逆もまた然りだった。

 だから何度か一緒に映画を観に行き、何度かご飯を食べに行ったあと、私たちは自然な成り行きで互いの家に出入りするようになった。

 だけど運命だと思って浮ついていた、そんな綺麗なものではなかった。

 私たちはコンビニで買い込んだ缶チューハイを片手に、出前で頼んだピザを摘まんだ。時折、彼が妙に小洒落たつまみを作ってくれて、それを二人で食べた。それからソファの前に座りながら、寄り添い合って映画を観た。最初は手が触れるだけで困ったようにはにかんでいた私たちはやがて指を絡め、唇を重ね、ベッドの上で身体を重ねた。

 私が見上げる彼の首に手を回しながら「好きだよ」と言えば、彼は必ず二呼吸くらいの間を置いてから「うん」と小さく頷く。それから困ったように眉尻を下げて、私のことを抱き締めた。

 どちらかと言えば、彼が私の家に来ることが多かった。彼はあまり私を家に呼びたがらなかったし、私も無理をしてまで家に上がろうとは思わなかったからどちらでもよかった。



 曖昧な時間が過ぎていった。

 彼はだいたい週二くらいのペースで私の家に遊びに来た。偶然にも二つ隣りの駅で、頑張れば歩いて行き来できる距離だったのものだろう。

「もう半同棲じゃん」なんて冗談を言って、私は洗面所に彼のための歯ブラシを用意した。ベッドにも枕をもう一つ買い足した。彼が来るたびに「おかえり」と言った。彼は「別にいらないのに」とか「何それ」なんて言って、やっぱり困ったように笑っていた。

 たぶん歯ブラシも枕も「おかえり」の言葉も全部、私のために必要なものだった。

 彼の帰ってくる場所はここだと、彼の居場所なのは私なのだと、言い聞かせるためのおまじないだった。

 だんだんと映画を観ることは少なくなって、私たちは動物らしくお互いを求めあうだけになった。彼と重ねるたび、私から何かがこぼれ落ちていくような気がした。このままじゃいけない。この恋は毒にしかならない。頭ではそう分かっていても、感情は止められなかった。それくらい、私は彼を好きだった。

 私は一人で部屋にいるときにふと涙を流したりした。それから決まって彼にLINEをして、彼はなんだかんだ文句を言ったりしつつも私の家に来てくれた。

 彼のことが好きだった。細くて華奢なくせに妙に骨張った手が好きだった。換気扇の下で煙草を吸っている横顔が好きだった。朝起きたとき、「おはよう」と言ってくれる声が好きだった。だけど私は彼のことが好きな私のことは大嫌いだった。

 たぶん本当は気づいていた。彼が私の好きへの答えを誤魔化し続ける意味も。あまり家に呼びたがらない理由も。クリスマスや彼の誕生日には決まって会えないそのワケも。

 それなのに私は気づかない振りをした。居心地のいい彼の隣りを守るため。彼にとって居心地のいい私で居続けるため。

 意味なんてない。時間が経てばその分だけ、傷つくのは自分だと分かっていた。だけど私は彼に縋ることを止められなかった。あわよくば――なんて都合のいい妄想を抱いたりしながら私は彼を抱き締めた。彼も私を抱き締めた。



 だけど一年以上続いた私たちの曖昧な関係は、彼の大学卒業と同時に呆気なく終わった。

 何か特別な出来事があったわけじゃない。就職と同時に彼が大阪に配属になり、自然と一緒にいて流れに身を任せるように抱き合った私たちは自然と離れ離れになった。

 最後の朝を迎えた私たちの間には「さよなら」の言葉すらもなかった。

 もう彼と会わなくなって、連絡すら取り合わなくなって、二年が経つ。彼が私のもとから去っていくきっかけになった卒業というやつを、もうじき私も迎える。

 あれから何人かの人と付き合った。彼とは違って私が「好き」と言えば「好き」と返事をしてくれる人だった。私が行きたいと言えば家にも招いてくれる人だった。大切にされていると、ちゃんと感じさせてくれる人だった。

 だけど不意に泣きたくなったり、運命なんて歯の根が浮くような言葉を思い浮かべるようなことはなかった。


「運命なんて、ね」


 あのときの私は子供だったのだろう。あるいは上京して、少なからず浮かれていたのだろう。きっとそうだ。いや、そうに違いない。

 それなのに、痛くて苦しかったあの恋は、あの胸の高鳴りは、いつになっても消えなくて。

 私の部屋にはまだ換気扇周りにほのかに染みついた煙草の香りと、使われなくなった歯ブラシたちが残っている。

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