四角くて、痛い(前篇)

 俺は、最低だ。

 薄暗い部屋のなかで目を閉じる。

 時計の針が規則正しく進む音。窓越しに聞こえてくる、苦しいくらいに必死な雨の音。

 不意に煙草の甘い匂いが広がって、俺は目を開ける。ぼんやりと灯るキッチンの明かりの下でミサキが下着姿のまま、煙草を吸っていた。

 手櫛で整えただけのボブ。汗をかいて少し乱れた化粧。白い肌によく馴染む、薄ピンク色のブラジャーとショーツ。気だるげで、だけど今にも壊れてしまいそうなほどに繊細な表情で、ミサキは煙を吐き出している。


「どうしたの?」


 切れ長の、大きな瞳が僕へと向けられる。俺は首を横に振り、小さく肩を上下させる。


「別に何も。強いて言うなら、絵になるなと」

「褒めてるの、それ」

「まあ一応」

「それじゃ、ありがとうって言っとくわ」

「どういたしまして」


 沈黙が降りた。俺も、ミサキも、無理して沈黙の間をつなぐほど喋りたい気分ではなかった。

 手持無沙汰になった俺はとりあえず脱ぎ捨てていたジーンズを拾って履いた。ベッドの周りのどこかにあるだろうベルトとシャツを探していると、ミサキが煙草を揉み消しながら訊いてくる。


「帰るの?」

「ああ、うん、まあ。明日は朝からバイトだし」

「そう。真面目ね」


 ミサキが特に意味もなく発した言葉は、今の俺には深く突き刺さった。


「……夏だからな。稼ぎ時なんだよ」

「何のバイトだっけ?」

「塾講」

「あぁ、夏期講習。確かにそれは稼ぎ時ね」


 俺は見つけたベルトを通し、シャツを羽織る。すぐそばには、ミサキが脱いだ浴衣がまるで抜け殻みたいに脱ぎ捨てられていた。


「んじゃ、終電もそろそろだし、俺行くわ」

「ん。気を付けて」

「ああ、また学校でな」


 俺はウエストバッグを肩にかけ、玄関へと向かう。足取りは重かった。一歩踏み出すごとに、フローリングの床に足が沈んでいくようだった。


「ねえ」


 玄関でスニーカーを履いていると、ミサキの声が聞こえた。キッチンで二本目の煙草を吸っているのだろう。玄関からミサキの姿は見えなかった。


「……聞かないのね」


 掻き消えそうな小さな声で絞り出されたそれは、たぶん僕に向けた言葉だったのだろう。

 僕は何も答えなかった。靴紐をいつもよりきつく結んで、逃げるようにミサキの家を後にした。



 雨だというのに差す傘はなかった。僕は小走りで、人通りもない駅までの道を進む。煙った雨のせいで街灯は朧げだった。咽るほどに湿った空気が肌にまとわりついた。

 息が切れて、立ち止まる。運動とは程遠い生活を送ってきた二一年は、駅までのたった数分の道のりさえ、完走することを許さないらしい。

 俺はよれよれになって歩きながら、濡れた掌に視線を落とす。掌にはまだ、ミサキの華奢だけど柔らかい身体の感触が残っている。

 感情の抜け落ちた顔で、頬を濡らすミサキの横顔が脳裏を過ぎる。

 どうすればよかったのだろうか。

 どうすればミサキにあんな顔をさせずに済んだのだろうか。

 もうどんな後悔も、無意味だった。

 顔の水滴を乱暴に拭う。頬を濡らすそれが雨なのか、涙なのかは分からなかった。

 見上げた空は延々と雨を降らし、果てしない黒を広げている。

 俺は最低だ。

 たぶん、きっとミサキも。

 誰も彼も、最低で。そして未熟で。どうしたらよかったのかなんて分からなくて。

 だけど俺たちの最低さを咎められるものは、この世界のどこにもありはしなかった。


   †


 俺がミサキと初めて会ったのは、大学一年の四月。新入生にタダ飯を食べさせてくれるサークルの新歓に参加した夜のこと。

 てきとうに飲んで食べて、名前も知らない誰かと騒ぎ、まあ大学なんてこんなもんかと、塩気の薄いポテトを摘まみながら考える俺の目に、退屈そうに煙草を吸っているミサキが止まった。

 黒髪のボブに真っ赤なリップ。華奢なラインに沿った薄手のハイネックニットにスキニーパンツとヒールブーツ。研ぎ澄まされた日本刀みたいな雰囲気は、浮ついた飲み会の雰囲気のなかでは明らかに違っていて。

 俺はただ、綺麗な人もいるもんだなと思った。

 歓迎会は早々にお開きになり、先輩たちと意気投合した新入生は二次会へ。空気に乗り損ねて浮いている俺は当然帰ることを選んだ。

 ぼんやりと電車を待っていた駅のホームで、俺はミサキと再会する。


「君、さっきの新歓いたよね?」

「あ、はい……」


 苦笑して会話が終わった。まさかこんなところで遭遇するとは思わなかったし、そもそもほんの数カ月前まで男子校で過ごしていた俺に、突然の女子との会話イベントをやり過ごすだけの会話スキルは存在しなかった。


「二次会行かなくてよかったの?」

「ああ、あんまああいう雰囲気好きじゃないっつうか。あと金もないですし」

「そうなんだ。楽しんでる風に見えたのに」

「なんか、空気に身を任せたっていうか。あと歓迎会ですし、楽しんどかないと申し訳ないっていうか何というか」


 言ってから少し後悔した。感じの悪い発言に聞こえてはいないだろうか。俺は口元を引き攣らせながら、彼女の反応を伺う。


「真面目」


 そんな俺の不安をよそに、彼女はそう言って笑っていた。

 俺たちは同じ方向の電車に乗る。どうやら彼女は俺の最寄り駅の二つ手前で一人暮らしをしているらしかった。

 他愛のない話をする。俺が会話下手なせいか、所々で途切れ、いまいち噛み合わずに盛り上がらない。でもミサキは会話が途切れるたび、何かを喋って次の話を振ってくれた。


「そう言えばさ、どうして敬語なの?」

「そりゃ先輩には敬語使うもんですし」


 俺が答えると、ミサキは頬を膨らめた。そういう表情もするのか、と俺は内心で驚いたりする。


「……そんな年上に見える?」

「違うんですか?」

「たぶん年は一個上だけど、わたしだって新入生よ」

「あ…………」


 完全な失態だった。だってあまりにも垢抜けた雰囲気だったからなんて、俺の苦しい言い訳を聞いてミサキは冗談っぽく眉を顰めた。

 間もなくミサキの最寄り駅に到着する。緩やかに速度を落とす電車のなかで、俺はふと歓迎会で見かけたミサキの姿を思い出す。


「ん? だって煙草吸ってません……吸ってなかったっけ」

「真面目」


 言われた通り、わざわざ敬語から言い直したことか。それとも煙草は二十歳になってから、なんてカビの生えた道徳を持ち出したことか。あるいはそのどちらもか。

 ミサキは僕に笑顔を向け、軽やかなステップで電車から降りていった。



 翌日、一限を寝過ごし、二限から現れた俺を高校からの悪友であるイシダの爽やかな笑顔が出迎える。


「よお、寝坊か」

「うるせえな。昨日の新歓、ドタキャンしやがって」

「仕方ねえだろ。急なバイトだよ。人気者は大変なんだ」


 俺はイシダの隣りに座って、鞄から分厚いテキストを引っ張り出す。授業資料はオンラインでPDF配布するのが主流なのに、何が楽しくて辞書みたいなテキストを持ち歩かなきゃならないのだろう。俺たちは二回目の授業にして、履修したことを後悔している。


「あれ、イシダ、テキストは?」

「お前が買うって言ってたから買うの止めた」

「最低だろ、お前」

「真面目だよな。いいと思うぜ」


 イシダが言う。俺の脳裏には昨日の帰りの電車での出来事がフラッシュバックする。


「そういや、どうだったんだよ。新歓は。いい出会いでもあったか?」


 イシダに言われて俺は息を呑んだ。今ちょっと頭の隅で考えたことが口から漏れていたのだろうかと不安になり、それから顔が急に熱くなるのを感じた。


「お、一年? それとも先輩?」

「うるせえな。俺は勉強しに大学きてんの」

「はい、出たぁ~、真面目ぶりっ子。いいか? 大学生といやぁよ、勉強に恋にバイトに大忙しなんだぜ?」

「はいはい。次回からテキスト買えよな」

「――ミヤモトくん?」


 ついさっき、イシダの〝真面目〟を昨日の出来事に重ねていたからだろうか。妙に聞き覚えのある声に名前を呼ばれ、俺はまた息を呑む。


「あ、どうも……」

「君もこの授業取ってたんだ。隣りいいかな?」

「どうぞ」


 ミサキが僕の隣りに座り、反対側からイシダに肘で小突かれる。一体どこの美女だよとイシダの顔は語っていた。

 よく分からないがこういう場合、僕が二人の間を取り持って紹介すべきなのだろう。僕はイシダをちらと見やり、深く溜息を吐いてからそうすることにした。


「えーっと、こちら昨日の新歓で知り合ったミサキさん。んでこっちが友達(仮)のイシダ」

「おいおい(仮)って何だよ、マブじゃねえかよ俺ら」


 俺をやはり肘で小突きながら、イシダの顔はあったじゃねえかいい出会いとほくそ笑む。内容は分からないまでも、そんな俺たちのやり取りを見て、ミサキが小さく笑う。イシダは面倒だが、彼女が笑ってくれたなら、それもまあ悪くないかなと思った。


「よろしくね、イシダくん」

「あ、はい。よろしくです、ミサキさん」


   †


 それから俺たち三人は学内でも学外でも、よくつるむようになった。

 他の大学生がするように、授業をサボってカラオケやダーツで遊んだり(主にイシダ発案)、休みの日には取り立ての免許で運転を交代しながら郊外のアウトレットに遊びに行ったり、テスト前には俺が取っていたノートを使って勉強したりした。

 最初のうちは女子が一人はいかがなものかと思っていた俺だったが、ミサキには男子校独特のノリや掛け合いが新鮮で楽しいらしく、ミサキが楽しいならと俺は気にするのを止めた。

 特に何かをするわけでもない毎日。それでもなんとなく漠然と、楽しいと感じられる時間。

 俺にとっての大学生活は、それだけで十分に満たされていた。


「――はぁっ? ノート失くしたってマジかよ」


 白い息を吐きながら、イシダが天を仰ぐ。ミサキが楽しそうに笑いながら、まあまあと宥める。僕はなんだかムッとして、イシダに反論してみる。


「お前に非難されるいわれはねえよ。そもそも楽単だって自信ありげに言って、俺らを騙したのイシダじゃんか」

「あれはサークルの先輩にハメられたんだよ。仕方ねえだろ」

「でもどうするの? テスト取れないとけっこうまずいわよ?」


 ミサキが紫煙を吐きながら言う。イシダは唸りながら考え込む。

 一年の冬。俺たちはすっかり喫煙所の常連になっていた。ミサキの影響か、イシダが煙草を吸い始めたからだ。俺は断固として拒否したので、二人からまた真面目だと笑われたが、嫌煙家というわけではないのでよく三人で喫煙所に出入りしている。


「とりあえずもう一回、バイト先で探してみる。落としたとしたら学内かそこだと思うから」

「いや、時間ねえよ。テスト明後日だぜ? 勉強して間に合いませんでしたなんて、俺は勘弁だ」

「一応、わたしがちまちま取ってたノートもあるけど、たぶん半分くらいしか情報量はないわね」


 ミサキも大概不真面目だったが、イシダほどではない。俺のノートを一方的に見続けるのが申し訳ないらしく、最近は気が向いたときに自分でも講義ノートを取るようにしているみたいだった。俺は別に二人のためにノートを取っているわけではないのでどちらでもよかったが、ミサキのそういう義理堅い性分は好ましく思えた。

 やがてイシダが手を叩く。煙草の灰がアスファルトに落ちて砕ける。


「仕方ねえ。あいつに頼ってみよう」

「あいつ?」

「あいつだよ。あの、いつも教授に質問するあいつ。絶対ノート取ってるだろ」


 イシダが得意気にサムズアップ。こいつの面の皮の厚さには、呆れを通り越して感動さえ覚えそうになる。


「ほんとに最低だな」

「うん、最低ね」


 俺たちは顔を見合わせて笑った。



「……え、嫌です」


 イシダが思いついた妙案のあいつ――アユカワさんは頼まれるやそう言った。

 当然だろう。ろくに話したこともないやつに、自分が時間と労力をかけて取ったノートを見せてやる義理はない。

 それにアユカワさんは何というか――俺が言うのも申し訳ないのだが――怠惰な他人に手を差し伸べてくれるようなタイプではなさそうだった。

 真面目を絵に描いたような銀縁の眼鏡に三つ編みのお下げ。本などがたくさん入ることを重視した大きなカバン。俺はファッションに疎いのでよく分からないが、彼女が洋服に興味を持っていないことは何となく分かる。たぶん、生真面目でお堅い女子と言われて十人中八人くらいが思い浮かべるのがアユカワみたいな女子だろうと、俺は思った。

 暖簾に腕押し。それでもイシダは諦めなかった。本当に面の皮が厚い。


「そこを何とか頼みます! あの後ろの馬鹿がノート失くしちゃって困ってるんだ。このままだと三人そろって留年しちまうよ……」

「でも……」

「分かった。タダでとは言わない。飯を奢ろう。学食の幻のエクストラプリンパフェ!」


 留年という大学生の恐怖ワード上位に食い込む単語に揺らぐアユカワさんに、ここぞとばかりにイシダが畳みかける。


「そんなメニューあったっけ?」

「さあ、どうだったかしら」


 俺とミサキは顔を見合わせそんな話をする。


「そもそも、パフェってご飯なのかしら」

「いや違うだろ」


 そんな話をしているうちに、イシダが盛大にガッツポーズを決めた。


「ありがとう! アユカワさん! すぐコピってくる!」


 イシダはそのまま学内の無料コピーのコーナーへ走っていった。

 凄まじい執念だ。普段からもう少しだけ真面目にやっていれば、こんなことに執念を燃やす必要はないのだが。

 人数分コピーされたアユカワさんのノートを受け取り、俺とミサキも彼女にお礼を言った。彼女の曖昧な笑顔は照れ隠しなのか苦笑いなのか、いまいち分からなかった。

 アユカワノートは講義の詳細が要点を捉えてまとめられていた。おかげで、説明が必要なくらいに分かりづらいノートをイシダたちに貸していた俺は、散々いじられる羽目になった。

 テストの結果は言わずもがな。アユカワノートの甲斐あって、俺たち三人は無事に単位を取得して一年次の秋学期を締めくくった。

 特に何かをするわけでもない毎日。それでもなんとなく漠然と、楽しいと感じられる時間。

 いくつかの取るに足らないアクシデントを経たりしながら、それでも平穏に流れていく学生生活。

 俺はこの曖昧な時間がずっと続くと思っていた。

 まだこのときは、こんなにも痛くて苦しい気持ちを、俺たち三人は知らずにいられたから。

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