夏、ヒーロー、パンツ(前篇)

 蝉の声が遠くなる。日差しは刺さるように降り注ぎ、照り返す水面が揺らめいている。感覚は曖昧で、立っているのか横になっているのかさえもよく分からない。

 ああ、もう何も感じられなくなったらいいのに――。

 そう思った矢先、思い切りワイシャツの襟首を掴まれて僕はよろめく。


「おい、聞いてんのか? せっかくいつも昼飯買ってきてくれるお前に、感謝の気持ちを込めてプレゼントしてやろうって言ってんだよ」

「暑いもんなぁ、今日。飛び込んだら気持ちがいいんじゃない」


 朝のプールサイド。うだるような熱気。僕を取り囲む悪意の目。


「ぼ、僕、お、泳げないからっ」

「大丈夫、大丈夫。

「さっさと飛び込めよ。あ、ちゃんとお礼言えよ?」

「とーびこめっ、とーびこめっ」


 手拍子が鳴る。まるで悪意が伝染していくように、手拍子が連なり、声が重なる。僕は飛び込み台の上で腰を引きながら、まるで生まれたての小鹿みたいに情けなく足踏みをする。


「あ、あ、ぅ、……」

「早くいけよ」

「あうあっ!」


 どん、と蹴り上げた脚が僕の尻を突き飛ばす。痩せぎすの身体で踏ん張れるわけもなく、僕は静かに揺れる水面に顔面から落ちた。

 音が消える。冷たい水が僕の穴という穴から流れ込んできて、呼吸も自由も全てを水に奪われていく。

 大量の水を飲みながら、僕はもがきにもがいてなんとか上昇。水のなかで懸命に爪先を伸ばし、どこかにある床を探る。けれども僕の指先はいつまで経っても床を捉えることはなくて。


「ぎゃはははははっ!」

「まじで溺れてやがるぜ!」

「中三にもなってだっせえのっ!」


 笑い声が聞こえる。

 彼らのテンションが上がるたび、僕の身体からは力が抜け、水の底へと引き摺りこまれていく。

 ああ、僕は何でこんなにもがいているんだろう。

 このまま僕を呑み込む水に全てを委ねれば、きっと自由になれる。解放される。もう何も、感じなくて済むじゃないか。

 そう思ったら、苦しさが消えた。同時に身体から力も抜け、僕はそうあることが自然であるかのように、ゆっくりと水のなかへ沈んでいく。


「――いいね、水遊び! 楽しそうだねぃっ!」


 聞いたことのない声がした。凛と澄んだ、いつだったかおばあちゃんの家で聞いた風鈴の音のような。

 僕も、プールサイドで笑っていた彼らも、思わず声の方向を見る。聞く者を引き付けずにはいられないような、不思議な声だった。

 少女がいた。よくは見えなかったけれど、髪が長かったからたぶん少女だ。

 彼女はプールを仕切るフェンスに足を掛けて、大きな口からにっと白い歯を見せて笑っていた。


「わたしもいくぞーっ! ――とりゃぁっ!」


 少女が飛んだ。

 セーラー服をはためかせ、髪を靡かせる少女が頭上の太陽と重なった。

 僕はいったいどうやってフェンスを越えてきたんだろうと、どうでもいいことを考えて彼女を見上げた。


「いやっほぅぅ!」


 僕のすぐそばに着水。僕のときよりも高々と、気前のいい水柱が上がる。押し寄せた波が僕に覆いかぶさり、僕はまた大量の水を飲んだ。


「うっわー、きっもちいねぇっ!」


 水面に上がってきた少女が水を跳ね飛ばしながら声を上げる。

 やっぱり女の子だ。伸びっぱなしの黒髪に、頬に浮いたそばかす。丸くて大きな瞳は日本人じゃないみたいな空の色で、にっと笑った顔は太陽よりも眩しい。


「ほれ、掴まってごらんよ」


 少女はあっぷあっぷと溺れかけている僕に手を差し伸べる。その小さな手を取れば、これまでの不安定さが嘘のように、僕は水のなかでも姿勢を保てるようになる。


「ったくなんか変なの出てきたぞ」

「見たことねえ顔だ」

「後輩? 知ってる?」

「くそっ、やめだやめだ! 戻ろうぜ」


 彼らは揃って不機嫌そうな顔をしながら、引き上げていく。


「おーい、君らも遊ぼうよ~。冷たくてきっもちいよ?」


 少女は彼らの背中に手を振る。どうやら本気で水遊びをしていたと思っているような口ぶりだ。もちろん彼らは無視して教室へと戻っていった。



 変な女の子だった。

 僕が恐る恐る移動して、ようやくの思いでプールサイドにしがみついて振り返ると、その子はプールの真ん中でぷかぷかと浮いていた。ラッコみたいにたゆたいながら、あごに手を当てた彼女は真剣な表情で考えていた。


「やっぱり仲間には入れてもらえなかったなぁ」

「変なひとだ」


 僕は呟くと同時、チャイムが鳴る。僕は慌てて立ち去ろうとして思いとどまり、もう一度少女の浮かぶ水面を振り返る。


「あ、ありがとう、ございました!」

「……くるしゅうない?」


 少女はやはり、首を傾げていた。



 そしてその一五分後、僕らは出来の悪い小説みたいな再会を果たす。

 体育の授業もないのにジャージを着ているせいでクラスメイトたちから陰で笑われる僕を訝しみ、だが何もしてはくれない担任の教師が廊下に向けて声を掛ける。

 そう、その通り。

 転校生として紹介され、教室に入ってきたのが、何と言ってもあの少女。

 びしょ濡れのセーラー服のまま、塩素の香る水を滴らせ。教室全体が唖然とするなか、彼女はやっぱり白い歯を見せて、にっと笑うのだ。


「転校生の、日向そらです! よろしくね!」


   †


 夏休み前の、定期テストの直前なんていう微妙な時期に、唐突にやってきた転校生の噂は瞬く間に学校中に広まった。

 理由は単純。

 彼女があまりにも変人すぎたから。

 編入から一週間。既にその奇行――もとい武勇伝の数は枚挙にいとまがないほどだった。

 転校初日、元気よく挨拶をした日向はびしょびしょになった鞄からびしょびしょのチョコレートを取り出して、クラス全員に配って歩いた。担任教師のぶんが足りなくて、チョコレートの代わりに弁当の梅干しを渋々渡しているときは、クラス中が笑いに包まれていた。

 魔王と恐れられる数学教師の授業で堂々と昼寝をしてファーストコンタクトで怒鳴り散らされ、次の授業ではもりもりと早弁をして新任の教師を泣かせた。

 あるいは休み時間、突然に声を上げたかと思えば窓を開けて三階から飛び降りようとして、クラスメイトに羽交い絞めにされていた。

 曰く、きれいな蝶が飛んでいたとのことだが、そんなものは理由にはならないことに気づいていないのは大真面目に答えていた日向だけだ。

 エトセトラ、エトセトラ。

 学校で生活する上で、考えうる奇行のレパートリーを並べ、その全ての斜め上をいく不思議行為を繰り返す日向は、一週間で〝野生児〟とか〝電波ちゃん〟とか呼ばれるようになった。

 だが彼女が嫌われたり、いじめられたりすることはなかった。

 笑われたり、からかわれたりはしていたが、誰も本気の悪意を向けたりはしなかった。それは偏に、日向そらという少女の人当たりの良さと魅力的な笑顔に由来するのだろう。名前にぴったりの晴れ渡る夏空のような笑顔だ。

 たった一人の少女が現れて、色々なことが変わった。

 だけど、僕の毎日はそう簡単には変わらなかった。

 あのプールの一件以来、僕と日向にこれといった接点はなくて、僕は毎日のように彼らの昼食を買いに行き、この日も恒例の折檻を受けている。


「ざけんなよ! 焼きそばパンだって言ったろうがっ!」


 突き飛ばされた僕は花壇の縁に背中を打ちつける。息ができなくなって、その場でえづく。


「ご、ごめんなさい……す、すぐ、買い直してくるから」

「今更おせえんだよっ!」


 ふらふらと立ち上がった僕を、彼らはまた小突いて押し倒す。今度は花壇に足が引っかかって転倒し、固くて尖った茂みのなかに僕はダイブする。


「おいおい、傷が残ることは止めとけよ。後が面倒だから」

「ったく調子狂うよなぁ。〝電波〟が来てからいまいち盛り上がんねえ」

「分かる。あ、そうだ。コロッケパン貸して」


 コロッケパンを受け取った一人が封を開け、花壇の上にそれを叩きつける。仲間が何をしようとしているか、あるいは僕に何をさせようとしているか、察した二人が順繰りにコロッケパンを踏みつける。潰れたコロッケからは中身がはみ出し、土塗れになった。


「まぁ、間違えたのは仕方ねえよな。だから勿体ねえし、食えよ」

「え……」

「食えるだろ? 食べ物を粗末にしちゃいけませんってぇ、習っただろ?」


 僕は髪の毛を掴まれ、鼻先に潰れたコロッケパンを突き付けられる。迅速に食べ物の気配を察した蟻が、コロッケパンにたかる。


「うわーエグいわぁ。これ絶対お腹壊すやつ」

「考えた本人の台詞じゃないだろ~、それ」


 ゲラゲラと後ろで二人が笑う。


「ほら食えよ」

「あ、う、……」

「食えって言ってんだろうがっ!」


 怒鳴り声に僕の全身が固まる。もう何も考えられなくなって、僕は土塗れのコロッケパンに開けた口を近づける。涙で視界がぼやけたおかげで、もうコロッケパンにたかる蟻も見えなかった。


「うわー、ほんとに食うの。きっも」

「ぎゃはは、犬かよ、こいつ」

「犬なら服いらねえだろ、脱がそうぜ」


 僕のワイシャツが引っ張られ、ボタンが千切れ飛ぶ。強引にズボンが引っ張られ、少しサイズの大きい制服は太腿の真ん中あたりまで脱げてしまう。


「ねえ、こいつブリーフだ! だっせえ」

「ほんとだ。今どき白のブリーフなんて見たことねえよっ!」

「ほら、ワンワン言って食えって」


 そんな侮蔑と笑い声を掻き消して、僕の頭上の窓が開いた。


「――とぉっ!」


 声とともに、僕の鼻先――コロッケパンを木端微塵に吹き飛ばす軽やかな着地。もう随分と芝居がかったその声だけで、それが一体誰なのか分かる。


「あ、水遊びボーイズ」


 一階の窓から飛び出してきた日向は三人に〝よっ〟と右手を掲げ、続いて花壇に這いつくばっている僕へと視線を落とす。


「今度は泥遊びボーイズ?」


 日向は首を傾げる。間もなく、開いた窓から声がする。


「ちょっと日向さん! 反省文!」


 特徴的なアニメ声は家庭科教師の声だった。今度は何をしたのだろう。やらかしていることが多すぎて、もはや何に対する反省文なのか、本人ですら分かっていなさそうだった。


「……ちっ、行こうぜ」


 教師の登場を察知して、駆け足で去っていく彼らを日向は残念そうに見送る。


「むー、わたしも仲間に入れてよぉ」

「あ、日向さん! こんなところに! まだ反省文書いてないでしょ」

「あ、やば。じゃあね、泥遊びボーイ。風邪引かないようにね!」


 日向は花壇からぴょんと飛び降り、一目散に逃げていく。家庭科教師が窓から身を乗り出したので、僕は咄嗟に壁に張り付いて死角に身を隠す。

 僕はひっそりと涙を拭い、軽やかに走る背中に向けて〝変なひとだ〟と呟く。

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