人形姫は祈らない

冬村蜜柑

おもいで

きずあと




 それは、祈莉の心にまだ残っている思い出。






 そのお人形は、美しい物たちがたくさん詰め込まれたショーウィンドーの中でも、ひときわ『可愛い』の光を放っていた。




「……わぁ」


 幼い後桜川ごさくらかわ祈莉いのりは懸命につま先で立って、ショーウィンドーをのぞき込み、お人形をじっくりと眺めようとする。右から見て、左から見て、正面から見て。そしてそのお人形の可愛いらしさを何度も何度も確認する。



 六歳の祈莉にとって、お人形とはデパートのおもちゃ売り場に積まれているような量産品。ミルクのみ人形やファッションドール、つまり千円札が何枚かがあれば買えるようなものだ。

 しかし、目の前にあるこのお人形は、お顔も精巧に作られ、美しい硝子の瞳がはめ込まれ、そして、白くなめらかそうな体を包むのは、どこのブランドショップにもないのではと思えるほどに素敵なワンピースドレス。

 物の価値をまだよく知らない祈莉にも、なんとなくわかる。このお人形はきっと――いちばん高額なお札が何枚も何十枚もないと手に入らないのだろう、と。



 だからこそ、夢中でその可愛さを鑑賞する。まるで貪るように。




「可愛い……」

「そうね、可愛いお人形ね」


 祈莉は思わずびくっとした。

 それは、今一番聞きたくない声。ママ――後桜川ごさくらかわ誓子ちかこの声だったからだ。



「ママ……」

 にこにこと機嫌良さそうに笑うママは、今日もお姫様のようでとても綺麗で可愛い。

 ママは祈莉が生まれる前は国民的人気アイドルで、今も『永遠のお姫様』と呼ばれるような有名タレント。つまり、今も昔も日本で一番可愛い女性。


「祈莉、今日のオーディションよく頑張ったわね」

「あ、あれは……」

 うつむいて、祈莉はぎゅっとふりふりスカートの裾を掴む。

 今日のオーディションは――いや、今日のオーディションもうまくいかなかった。台詞はちゃんと覚えていられなかったし、声もちゃんと出ていなかったし、立ち位置だって間違って。

 だけど審査員の人や監督さんは妙に祈莉をべた褒めした。

 ……祈莉のママが『後桜川誓子』だからだ。

 ママが、元国民的アイドルで、有名タレントで、実家が大きな企業だから。

 それだけで、今までずっと努力してきたずっと出来る子達よりも、褒められた。


 ……きっと、今度のオーディションも落ちるんだろう。あの人達が祈莉を褒めてくれたのは、あくまでママ――後桜川誓子を立てるため。

 後日、形通りの文章が記されたメール一本送られてきて、それでオーディションはおしまい。



「あのお人形を見ていたの? とても可愛いわね」

「……」

 ぎゅうっと、締め付けられるような胸の痛み。

 こんなお人形なんかより、ママのほうがずっと髪の毛がふわふわで、目がきらきらしていて、鼻がすっとしていて、ほっぺたがふにっと柔らかそうで、唇がつやつや綺麗で。


 ずっと、ずっと、ずっと、ママの方が可愛くて。



 どうしてだろうか。

 どんどん、さっきまでこのお人形が放っていた「可愛い」の光があせていく。

 つまらない、くだらないものに思えてくる。


 どうしてだろうか。



「今日のオーディション、祈莉は頑張っていたから……ご褒美に買っちゃいましょうか?」

 優しくて綺麗なママの声が、心に突き刺さってぐりぐりと抉ってくる。


「いやだ」

「……祈莉?」


「いやだ。いらない、そんなのいらない」

「祈莉」


 困惑したようなママの声。

 その美しい眉がぎゅっと歪むのが悲しくて、祈莉は切なくなってぽろぽろと涙を流した。


「うぇ、う、うぅ……ぐすっ……うぅ……」

「ごめんね、祈莉、ごめんね……」


 優しい声に慰められて、だけど傷はどんどん抉られて深くなって。

 その痛みの意味もわからなくて、ただ泣き続けたのだ。




 その思い出――きずあとは十年経って十六歳になってもまだ、祈莉の心に残ったまま。




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