豹変した旦那様

水瀬明日美(ミナセアスミ)、23歳。


「社長、コーヒーです」


「んっ、どうも」


デスクのうえにコーヒーを置くと、彼――水瀬勇一郎(ミナセユウイチロウ)は書類を見ながらカップに口をつけた。


「わたしは隣の秘書室にいますので、何かあったら呼んでください」


「ああ、わかった」


「失礼しました」


ペコリと彼に頭を下げると、わたしは社長室を後にした。


バタンとドアを閉めると、

「かっ、かっこよかった…!」


先ほどコーヒーを乗せていたお盆で顔を隠して、地団駄を踏むように足をジタバタした。


ああ、かっこいいかっこいいかっこいい!


めちゃくちゃかっこいいよ!


「あの人がわたしの旦那様なんだよね…?」


5年経った今でも、夢を見ているんじゃないかと思う。


1度もカラーリングをしたことがないサラサラでツヤツヤの黒い髪は、会社にいる時はオールバック、家にいる時は下ろしたりしている。


どこかミステリアスな感じがする二重の三白眼の目元に、小さな鼻、形のいい唇。


学生時代は陸上部に所属していたこともあってか、躰つきはとてもよくてスーツ姿はとても似合っている。


そんな彼――水瀬勇一郎は、わたしが彼の秘書として働いている人で、わたしの旦那様だ。


「また悶えてる」


秘書室に戻ってきたわたしに声をかけてきたのは、貝原六花(カイバラリッカ)だ。


黒髪のショートカットがよく似合う彼女はわたしの数少ない同期の1人で、仲のいい友達だ。


「だって、旦那様がかっこよくてかっこよくて…」


「毎日のようにそう言ってるから耳にタコができそうよ」


六花はやれやれと言うように息を吐いた。


「事実なんだから仕方がない!」


わたしが宣言をするように言ったら、

「もう5年だっけ?」


六花は聞いてきた。


「うん、5年だよ。


わたしが18歳の時に結婚したから」


わたしが首を縦に振ってうなずいて返事をしたら、

「まだ何にもないんでしょ?」


六花は返してきた。


「うん、悲しいことにね…」


わたしは呟くように答えると、息を吐いた。


わたしと水瀬勇一郎こと勇ちゃんと結婚して、今年で5年目を迎える。


夫婦のはずなのに、わたしと彼の関係は“幼なじみ”で止まったままだった。


夜の営みはおろか、キスもしていない。


「――わたしって、そんなに魅力がないのかな…?」


自嘲気味にそう呟いたら、

「理由が理由、だからじゃない?」


六花は返事をした。



* * *


勇ちゃんと結婚するきっかけになったのは今から5年前のこと、わたしが旧姓である鈴村明日美(スズムラアスミ)を名乗っていた頃のことだった。


先週に高校を卒業して進学先の短大の入学式までの長い春休みを過ごしていたある日のこと、警察から1本の電話があった。


「――えっ…?」


警察の口から出てきたその言葉に、わたしは耳を疑った。


「明日美、どうした?」


わたしの様子に、勇ちゃんが駆け寄ってきた。


「勇ちゃん…お父さんと、お母さんが…!」


「おじさんとおばさんは旅行に行って…」


勇ちゃんはそこまで言って何かに気づいたと言う顔をすると、電話を取って受話器に耳を当てた。


「もしもし?」


勇ちゃんの顔がだんだんと青くなっているのがわかった。


突然のように襲った出来事に、わたしは声をあげて泣き出した。


1泊2日の旅行に出かけていた両親が亡くなった。


その日は両親が旅行から帰ってくる日だったのだが、2人を乗せた高速バスが転落事故を起こして両親は亡くなった。


「お父さん…お母さん…!」


「明日美…明日美、大丈夫だ。


俺がいる…俺がいるから…!」


大きな声で泣いているわたしを勇ちゃんは抱きしめて、何度も声をかけてくれた。


葬式は、行われた。


葬式には勇ちゃんも出席して、終わるまでわたしのそばにいてくれた。


しかし、その後で両親の親戚は誰が“わたし”と言う荷物を引き取るかで揉めた。


「まだ未成年だろ…」


「一体、誰がこの子を引き取るって言うのよ?」


「私のところは無理よ、子供が2人もいるんだから」


「それに年頃だから、もし間違ったことがあったら…」


耳が痛い…。


どうして、悲しんでくれないの…?


お父さんとお母さんが突然いなくなった、わたしの気持ちは考えてくれないの…?


目の前で行われている揉め事をぼんやりと静観していたら、

「――大丈夫か?」


震えているわたしの手を勇ちゃんの大きな手が握ってくれた。


温かいその手に、わたしの心が落ち着いて行くのがわかった。


「こっちに行こう」


勇ちゃんはそう言ってわたしの手を握って立たせると、この場から一緒に立ち去った。


縁側に並んで一緒に腰を下ろすと、

「何も本人がいる前であんな話をしなくてもいいのにな」


勇ちゃんは呆れたと言うように息を吐いた。


「うん…」


わたしは返事をすることしかできなかった。


「未成年って言っても18歳なのにな」


「…でも、あの人たちからしてみたら18歳は未成年なんだと思うよ。


わたし、先週の火曜日に高校を卒業したばかりだし…」


「なあ」


勇ちゃんはそう言って、わたしの顔を見つめると、

「18歳って、結婚できるんだよな?」

と、聞いてきた。


「えっ…確か、できると思うよ」


それに対して、わたしは答えた。


「できるか…」


彼はそう呟いたかと思ったら考え込んだ。


「それがどうかしたの?


と言うか、何が言いたいの?」


勇ちゃんはわたしの顔をじっと見つめると、

「俺と」

と、言った。


「えっ?」


「俺と結婚しないか?」


勇ちゃんは言った。


「わたしと結婚…?」


「俺と結婚すれば…俺と家族になれば、いいんじゃないかと思うんだ。


そうすれば、どこにも行かなくてもいい訳だし…」


わたしのことで揉めているあの人たちのところに行くのは、もちろん嫌だ。


何より、勇ちゃんから離れなくていい。


結婚すれば、家族になれば、大好きなこの人のそばにいることができる。


「もし嫌だったら…」


「なる」


話をさえぎるように、わたしは言った。


「わたし、結婚する」


わたしの答えに驚いた勇ちゃんだったが、すぐに満足したと言うように微笑んでくれた。


「わたし、勇ちゃんのお嫁さんになる!」


大きな声で、わたしは宣言をした。


その次の日に、勇ちゃんは親戚にわたしと結婚することを宣言した。


当然のことながら親戚から反対を受けたが、

「俺が一生をかけて明日美さんを幸せにします!


何があっても、明日美さんのそばにいます!


なので、俺に明日美さんをください!」


勇ちゃんは親戚に何度も頭を下げた。


そんな彼の姿に、わたしは涙を流した。


わたしのことを真剣に考えている彼に、

「お願いです!


わたしを勇一郎さんのそばにいさせてください!」


彼の隣で頭を下げてお願いした。


そんなわたしたちの姿に親戚は根負けをして、わたしたちの結婚を認めてくれた。


葬式から1週間後、わたしと勇ちゃんは夫婦になった。


わたしの名字が“鈴村”から“水瀬”になった。


* * *



「――養子縁組、と言った方が正しいかも…」


コトコトと音が鳴っている鍋を眺めながら、わたしは呟いた。


今日の夕飯は、勇ちゃんの大好物のミネストローネだ。


5年前からわたしの実家で、勇ちゃんと一緒に暮らしている。


時計に視線を向けると、後少しで8時になろうとしていた。


今日は6時過ぎに会社を出て、その途中でスーパーマーケットで買い物をして、我が家にに帰ってきて、今に至る…と言う訳だ。


どんなに遅くなっても一緒にご飯を食べる――と言う決まりは、結婚したその日に彼と話しあって決めたことだ。


「早く帰ってこないかな…」


トマトのいい匂いが台所に漂っている。


にんじん、キャベツ、セロリ、なす、じゃがいも、玉ねぎ、ベーコン…と、とても具だくさんなミネストローネを早く勇ちゃんに食べさせたい。


テーブルのうえに置いていたスマートフォンを手に取ると、メッセージアプリを起動させた。


まだ帰ってこなそうだから、少しだけ六花とおしゃべりをしようかな…。


『今日ね、勇ちゃんが好きなミネストローネを作ったんだ


とても美味しそうだし、具だくさんだから早く食べさせたいな…って』


『でも、本当は…わたしを食べて欲しいな、なんて(笑)』


『結婚して5年目だから、何かあって欲しいんだよね


キスとか…それ以上のこととか、とにかくいっぱいしたい


我ながら欲求不満だよね(笑)


でも、勇ちゃんには何をされてもいいって思ってるんだ』


『だって…勇ちゃんのことが大好きだから、勇ちゃんのことを愛しているから』


「あれ、全然既読がつかないな…」


テレビでも見ているのか、それともお風呂に入っているのか。


まあ、いっか。


話しかけたわたしもわたしだし、そのうち既読がつくだろう。


そう思ってスマートフォンをテーブルのうえに置いたら、ガラガラガラと玄関のガラス戸が開いた音がした。


「あっ、帰ってきた!」


わたしは火を止めて台所を後にすると、勇ちゃんを迎えに玄関へと向かった。


「勇ちゃん、お帰り…」


出迎えたわたしを勇ちゃんが抱きしめてきた。


「えっ、どうしたの?


何かあったの?」


こんな彼は初めてなので、わたしは戸惑った。


「――お前…」


勇ちゃんがわたしの顔を見つめた。


端正に整った顔立ちが目の前にあって、心臓がドキッ…と鳴る。


「えっ?」


「お前、せっかく人が我慢していたのに…」


「えっ、我慢?」


何の話をしているの?


「キスとかそれ以上とかって、何なんだよ…。


と言うか、俺になら何をされてもいいって…」


「…えっ?」


ちょっと待って…。


それって、さっきわたしが六花に送ったメッセージの内容と一緒じゃない…?


勇ちゃんはスーツの胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、わたしに画面を見せてきた。


「あーっ!」


送り先を間違えたー!


先ほど六花に送ったと思ったメッセージは、全部勇ちゃんに送られていた。


道理で既読がつかないと思ったよ!


「いや、あの…これは、だから…あれでこれでそれで…えっ、えーっと…しかし、そうで…」


アワアワとパニックになっているわたしに、

「明日美」


勇ちゃんがわたしの名前を呼んだ。


「――ッ…」


端正なその顔が近づいてきたかと思ったら、唇に何かが触れた。


それが勇ちゃんの唇だと気づいたのは、すぐのことだった。


「――ゆ、勇ちゃん…?」


勇ちゃんにキスされた…!?


その事実に固まっていたら、

「ずっと我慢してたんだ」


勇ちゃんは形のいい唇を動かして、音を発した。


「お前が欲しくて欲しくて仕方がなかった」


勇ちゃんはそう言うと、わたしの唇にもう1度自分の唇を重ねた。


初めて交わしたキスはとても甘くて…そして、嬉しかった。

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