第12話 狙撃

 宗仙和尚にあいさつに行くと、「これから、どうなさる」と聞かれた。

「はあ。祖父の残したものを、ひとまず読みあらためてみようと思います」

「それは感心感心。よければ部屋を貸すぞ、ゆっくりしていかれよ」

「ありがとうございます」まさか、襲われる可能性があるので家出してきたとは言えない。「あ、それとご住職」

 ダメ元で、祖父と懇意だった学者とかは知らないかと聞いてみた。相談相手ぐらいはいたかも知れぬと考えたからだ。

 「うーむむ」厳しい顔つきの割に親切な住職は、腕を組み記憶を呼び起こそうとはかった。

「そうだな。兵部どのは便宜を図れとかいう輩には冷淡だったが、学問に真剣な人物には支援を惜しまなかった。親しく意見を聞いていた相手も幾人かはおったぞ。ただし昔のことだ。相手は成功して国を出たか、死んだな」

「やっぱり、そうですか」

「お」住職は自分の頰をはたいた。「ひとりおった。仲の良かったのがな。ただしお主の望む者かはわからん」

 彼は学者ではなく玄一という修験者をあげた。歳は宗仙より上で、祖父のかなり若いころからの知り合いだという。「心配するほどおかしなやつではない。薬草などに詳しく、神通力も大道芸よりはある。おだてれば狐火ぐらい出してくれるかもな」

「はあ」

「会って損はないだろう。あの男は物知りだからな。いつもは逸美岳の小屋におるはずだ。龍神沼の手前だな。俗っぽいところもあり、人里とまったく縁を切るつもりはない。この前も、いい茶を飲ませろと寺にきた。元気そうだったぞ」

 逸美岳とは、流雲寺からさらに二里ばかり北にある。急峻な所はあるが、登るのに特別な準備を必要とするほどではない。ただ、龍神沼を目的地とすると、郡奉行の配下が詰める山小屋に近づきすぎる恐れがあった。しかし、行かずに後悔するよりはましだと軍平は決心した。

 彼の気持ちがわかったのか、住職は黙って新しいわらじ、水筒と握り飯を用意してくれた。時刻はまだ昼前だから、いまからなら日のあるうちに小屋へたどり着けるかもしれない。軍平は逸美岳へ急いだ。

 

 岳の登り口には人の背ぐらいの鳥居がある。それを越えた場所の風景に見覚えがある。祖父の兵部に従い、幾度かここにきたのだ。丈の高い祖父の背中を見ながら、遅れないよう懸命に歩いたのを思い出した。一度、当時の藩主の病気快癒祈願にここまできたのではなかったか。修験者にも会った気がしてきた。

 

 祖父は若いうちに数回他国へ留学したと聞くほかは、表向きの生涯のほとんどを先先代の藩主に捧げた。部屋住みの三男だった頃に仕えて以来、相次ぐ兄の急死によって彼が国を継いでからも常に傍にあり続け、最期も主を追いかけるように死んだ。術を知っていて主に役立てたのか、主のために術を身につけたか、そのあたりは想像するよりなかった。

 生前の祖父は、ときおり主君の話をしたが、二人がごく若かった時代については断片的にしか語らなかった。

 

 身分の低い側室の子として生まれ、兄そして実父にまで疎まれ、預けられた家臣の屋敷で暗い日々を過ごしたという元の藩主と、唯一心を許せる存在だった祖父の間にどんな物語があったかは、いまではもう誰も分からない。

 彼らが新しい領主とその寵臣として表舞台に立つと、その清々しい振る舞いに人々は魅了され、兄たちの存在も含め過去はすぐ忘れられた。

 むろん密かに若き祖父を寵童あがりと蔑む人はいた。むかしの執政に、宇藤木と夜伽を引っ掛けた冗談をしつこく繰り返した者がいたのを聞かされたことがある。カネによるとその男は、ある日咽と舌を何倍にも腫らして死んだという。

「バチがあたったのだ」とカネは軍平に教えたが、今になってみると、バチを与えた人間についてなんとなく心当たりはある。

 

 家での祖父は物静かに過ごし、鼻歌すら聞いたことはない。その内心は家族にもうかがいしれず、軍平の父などはっきり苦手としていた。

 祖父もまた、家での話し相手はもっぱら小さな軍平だった。

 それにしても、過去の話を筋道立てて聞いておけばよかったと軍平は悔やんだ。なにか妖術の手がかりがあったかもしれないし、祖父の内面についてもう少し踏み込んで知ることができたかもしれない。

 

 山小屋の番人たちに見咎められぬよう、注意しながら歩いたが、日のあるうちに無事龍神沼の近くまでたどり着いた。山道はよく踏み固められていたし、芝刈りにきたらしい百姓ともすれ違った。修験者の暮らす岳であっても、それなりに人の往来はあるようだ。

 小屋は、沼を見下ろす場所にぽつんとあった。住職の説明どおり石と木を組み合わせた粗末な建物だったが、ボロとは思えなかった。しかし、人影は見当たらない。それどころか生活の気配がない。

 

「ごめん」

 中に入ってみたが、寝具や食器もなく、内も外もすっかりと片付いている。

 祭文というのか、紙に墨で文字を書き綴ったものが壁に貼ったままになっていたので、かろうじて行者がここにいたことがわかるだけだった。

 小屋の周りをうろうろする大男が目に留まったのか、山菜採りのじいさんがやってきて、行者様をお探しでございますかと尋ねた。うなずくと、じいさんは気の毒そうに言った。

「それが、ひと月ばかり前にみまかられました」

「なにっ、それはまことか」

 この下を流れる川のほとりで倒れているのをじいさんの孫が見つけ、里へおろして医者に診せたものの、十日も経たずに息を引き取ったという。

 亡くなる前に意識はあり、その際の指示によってわずかな家財のうち、金に換えられそうなものはすべて彼の世話をした人々に分け与えられた。あとは亡骸と一緒に燃やしたとのことだった。


(後を濁さない感じが、じいさんとよく似ている)

 軍平はそんな感想を抱いたが、事態が改善するわけではない。

 小屋の前に座り込み、空を見上げた。

 不安な心で見ると、平凡な雲の動きに、意味があるように思えてくる。

 体よりも心が疲れているのだろう。

 軍平は山を降り始めた。

 

 さっきのじいさんが、親切に近道を教えてくれていた。やや急ではあるが、来た道を戻るよりずっと早く降りられるため、土地の若い衆はもっぱらこっちを使うのだという。足をくじいたりしなければ、日没までに里へと出られる。

 だが、せっかくの近道も、軍平の足取りは重かった。寺にいた際の心の高揚を失い、迷いが次々と浮かび上がってくる。黙々と歩きながら祖父の遺したものについて考え続けていると、現世に居るのか夢の中なのか一瞬わからなくなる。


「いかんいかん」

 半ば思いつきで祖父の友人を頼ってここまできて、当の行者が亡くなっていたのならそれで仕方ないではないか。軍平は頭をぶるぶると振ってから、袋に入れ襷掛けに担いでいた伝書を取り出し、もう一度読んだ。

 簡単そうな呪文を覚え、唱えてみる。特になにも起こらない。

 伝書から読み取れるだけの呪を唱えてはみたが、火花一つ起こらないし、小鳥一羽やってこない。もちろん、例の「術からの呼び声」はない。

 歩きながらのやっつけが良くないのかも知れない。

 そう考え、軍平はいったん立ち止まった。そして、心気を研ぎ澄ませ、あらためて呪文を唱えてみた。だが、ただ風がさやさやと吹いているだけだった。

「妖術よ、おれのところにこい」叫んでみたが、なにもない。山を降りつつ、「中にいるもの、出てこい」などと半刻ばかりさまざまに試してみたが、例の耳元でささやく声すら聞こえない。


 軍平は冷静になろうとつとめた。

 津留から託された根付に触れて以来、氷が溶けるように、長い間思い出せなかった記憶が、ひょいと心の表面に顔を出したりしていた。彼はそれを利用して、最初に妖術の存在に気づいた時のことを懸命に思い起こそうとした。


 –––– そうだ。あれは冬だった。年があけて正月の行事が一通り終わり、ようやく落ち着いたころだった……。

 時刻は昼さがり。前日は水に氷がはるほど厳しい寒さだったが、その日は午後になって陽がさし、心持ち寒気は和らいでいた。

 客はいないはずの祖父の部屋から、聞き慣れない話し声や笑い声がした。

 びっくりして耳をすませていると、そのうち祝詞のような節回しの合唱すらはじまった。声の主はたくさんの子供のように思え、実に楽しそうだった。

 いつのまにこんな愉快な客が、それも大勢きていたのだろう。

 じっと障子の外から聞いていた軍平は、ついに我慢できなくなって障子をそっと開いて覗いた。

 祖父がひとり座ってこっちを見ていた。

 軍平は思わず首をすくめた。

「なにか用か」

「声が、聞こえました」バツの悪さに弁解すると、

「ふむ。なんと聞こえた」と、兵部が尋ねた。怒るより興味深げな表情だった。軍平が真似ると、めずらしく祖父は少し驚いた顔になった。


「そうか、聞こえたか。しかしめったに口にしてはならぬ。まわりが驚くからな」と言った。「さきほどの声は、本来ならば声の主が心を許した者だけに届く。なかなかに気難しいものなのだ。それが聞こえたと言うのは、吉之助となら、仲良くなれるということかも知れぬな」

 

 あれをもう一度聞くには、どうすればいいのだろう。妙案の浮かばない軍平は、天に向けて言った。

 「あの時の声よ。頼むからもう一度出てきて、おれと話してくれ、きっと仲良くできると思うぞ」

 なにも応えてくれない。

 山道で奇声をあげた自分が恥ずかしくて、軍平はひとり顔をあからめた。

 なにが足りないのか考えた。たった一度だけ、祖父の部屋から聞こえた呪文を使うのに成功したことがある。

 ―― そうだ。あの時は、必死だったんだ。あの人がいたから。

 


「旦那、旦那」顔にたくさん傷のある男が、かたわらの武士の肩を叩いた。

「あれ、あれ」

 馴れ馴れしい仕草を不快に思いながら指された先を見ると、谷を隔てた山道を男が降ってくるのが見えた。葉陰にまぎれ顔はわからない。男たちは用心して樹の陰に身を隠した。

「あれは、違うぞ」と旦那と呼ばれた男は返した。

 彼は郡方に属する浜野作三だった。ただし山番ではない。今日は、たまたま別の「任務」でやってきて、逸美岳の向かい側から上り下りする人間を見張っている。任務とは、三浦又五郎を撃つことだった。文字通り狙撃して、できれば殺す。実際に鉄砲を撃つ役は五郎左という猟師が雇われた。いまは後方で休んでいる。

 

 とにかく三浦は危険な男であり、近く不穏な企みの実行を目論んでいるから可能な限り素早く排除すべし。そう同志からは言い聞かせられている。ならば正々堂々と戦えばよいと思わなくもなかったが、槍の名手とされる三浦に正面切って勝負を挑むのは無理がある。

 日頃から三浦は、逸美岳に通い心身を鍛えていると公言していた。上り下りしつつ稽古し、さらに心気を養うため山頂に登って座禅するのだそうだ。

 彼は昨日今日と勤務を休み、自宅にもいなかった。浜野たち一行は、十中八九、逸美岳に行くだろうと反対側にあたる鹿岳に陣取り、三浦がいつも通るとされる道を張っている。切り立った崖をここまで来るのに手間がかかったし、おまけに猟師とやくざ者と組んでの待ち伏せは不愉快だったが、仕留めさえすれば、鹿か猪と間違えて撃った事故として処理される手筈だった。

 

 坂を降ってきた男は途中で立ち止まり、ぼんやり空を仰いでいる。

 顔を確かめる絶好の機会に、男たちは見つからないぎりぎりまで前に出た。浜野が言った。「あれは三浦ではないぞ。やつ、あんなに手足が長くはない」

「ありゃ宇藤木でございますよ。見間違えやしません」傷のある男が言った。

「おぬし、知っておるのか」

「知っていますとも」男は軽い口調で返した。「ひどい目にあいましたから」

 以前、別件で絡んで半殺しにされ、相棒は里に帰ってしまったという。

「夢にまで出てくるとか言って。そんな気の弱い奴じゃなかったんですが」

「意味がわからん」浜野はあきれたが、たしかに昨晩、三浦以外に小磯半蔵と宇藤木軍平の二名についても、可能ならば撃てとの追加命令がきた。

「たしかに宇藤木も敵だ。だが、下手に騒ぐと肝心の三浦を逃す恐れがある。それに、宇藤木はわしも知っておるが、むやみと背が高いだけ、うさぎよりおとなしいやつだぞ」

「合流されると面倒ですよ。あのでかいのが残忍なのはたしかですから」


 熱心な勧めを断りきれず、浜野は声をひそめて猟師の五郎左を呼んだ。

 「ははは。的がでかいのはいい」狙撃手は余裕の笑みを浮かべた。「でも金は別にいただくよ、お武家様。待ってた奴とは違うから」

「ちっ、強欲者め。わかった、決して為損じるな」

 五郎左は、長い火縄銃をかついだまま、するすると崖を少し降り、降りてくる軍平を見下ろせる位置についた。

 猟師の潜むところから軍平の通過予定位置までは、直線で五十間(90メートル)以上はある。しかし、撃ち下ろす形にすれば十分弾は殺傷威力を保つはずだ。風はゆるやかに下からあがってきて、おそらく火薬類のにおいも届かない。


(ゆるせよ、宇藤木)浜野は心の中で言った。後輩殺しには抵抗があるし、ここ数日一緒に行動させられている仁平とかいう顔中傷だらけの男のほうが、よっぽど薄気悪かった。一目瞭然のならず者をあえて使う理由は、誰も教えてくれない。猟師の五郎左も武士を舐めた感じだし、これなら、宇藤木の方が仲間としてはるかにましと思える。

(なにも殺さないでもいいと思うんだが、そんなの無理なのかな)

 さすがに本職の猟師は要領がよかった。目標の最接近まで時間は充分あるのに、すでに狙撃可能になっている。


 山菜採りのじいさんに教わった道を降りながら、祖父のことを思い出しているうちに、つい声に出して彼を呼んでしまった。「おじい様、もうこの世で教えを乞うことは叶いませぬか」

 ふいに子供の頃に帰ったように、悲しみで胸がいっぱいになった。「情けない孫をお救い下さい。呪は何も語りかけてこず、私は一人ぼっちです。玄一様は亡くなっていました。いったい誰に教わればいいのか。自得なんて私には無理です」


「おい、知ってるか」そのとき、ささやくような声がした。むろん祖父の声ではない。軍平は立ち止まり、あたりをキョロキョロと見回した。

 どこかに郡方の人間がいるのかと思った。だが、見当たらない。ここまでくると反対側にある鹿岳がよく見える。そこからの声かも知れないが、あちらは逸美岳よりずっと足場が悪く、名のとおり人よりも獣が行き交うような場所である。郡方の山番がいるとすれば、よほど仕事熱心な人物だろう。

「痛いのは、苦手じゃないのか」

 また声がした。かすれかすれの声は、背負った袋から聞こえたように思える。中には例の厨子が入っている。これこそ、待っていた妖術の声だろうか。

「ちょっと待って、すぐ準備するから」

 さっきまでの鬱っぽい雰囲気はどこへやら、喜んだ軍平は声に答えつつ、長い首を伸ばして自分の背中を確かめようとした。そこに激しい衝撃がきた。

「ぐはっ」続いて鋭い痛みが走った。

 坂道でたたらを踏んだ彼は地に倒れ、そのまま細い山道を踏み外し、ついには高みから崖下へと転げ落ちていった。


「よし!」顔傷男の仁平が快哉を叫んだ。浜野はなんとも罪悪感のある顔で軍平の落ちたあたりを見ていた。

「トドメを刺しにいきましょうか」

「やめとけ。死んだよ。それよりまた隠れて三浦を待とう」


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