第3話 知らぬ間に、陰謀

 小さな軍平の国には城はなく、古い城跡だけがあった。

 なかなか風情があって花見どきには賑わうのだが、ただいま藩政の中心となっている地域からはけっこうな距離がある。

 現在の政庁は、見晴らしの良い小高い場所にある平屋建ての陣屋だ。河川や街道にも近く、交通の便は良い。おもだった藩士は陣屋とその近くの建物に集められていて、残りが東西南北に点々と配置されている。

 軍平がいるのは、その点々の一つだった。

 南の御産品所は、陣屋からは川を越え厳しい岳を越え、田んぼや畑の広がっている地域にあり、感覚的には隣国の方が近い。

 軍平は、かつて宇藤木家にいたカネの婚家が産品所の近くにあるのを幸い、そのはなれを借りて普段はそこで起居している。

 ただし、陣屋に寄った日だけは、近くにある自宅へと顔を出すようにしていた。さもなければ本来の家族から忘れられそうだからだ。陣屋から煙草屋を回って石田に出くわした今夜も、いちおうは自宅へと帰ることにした。


「これは、おかえりなさいませ」

 軍平が自宅に戻ってかなり経ってから、ようやく気がついたように継母である富久が挨拶にやってきた。

「今日は、なにか」

「いえ、こちらに用があったのです」

「それは、結構でございますこと」

 冷たいというより、彼の動向にあまり関心がないのが富久である。

 彼女との間に血の繋がりはない。

 軍平を生んだ母の死後、外に作っていた女と娘を父が家に迎え入れたのは、祖父の死からまもない時期だった。

 複雑な生い立ちのせいで苦労した女性との触れ込みだったが、父親が懸念したほどの反発は、軍平にはなかった。母の生前からの愛人ではなかったし、女性に優しい父の、とりわけ不幸な女に弱いところも決して嫌いではなかった。

 また、当時の義母は楚々として、それなりに美しく、彼女に母の代わりを期待する気持ちはまったくなかったが、父の気持ちに納得はできた。

 ただし、いまの富久はほっそりどころか頰がこけ、眉間に厳しいしわが刻まれていて、本来の年齢より十五は上に見える。

 まったく敬われてはいなくとも、いちおう軍平はこの家の当主である。あまりの義母の面変わりに、責任の一端は、頼りないおれにあるのか?と、一時は悩んだりしたが、ぞんざいに扱われる毎日に、いつしか自責の念も消えた。


 「あ、それと」しごく当然といった顔をして、義母は妹の須恵の習い事の経費と、軍平のよく知らない自分の親戚筋の慶弔に関わる出費を一方的に報告したのち、唐突に去った。彼女はいつもこの調子だった。

 離れて暮らしはじめると、富久から以前より金銭的に厳しい要望がなされるようになった。おそらく、「それぐらい出させても、罰はあたるまい」といった類の入れ知恵を義母に行う友人知人がいると想像されるが、報告されるだけましであると軍平は思うようにしている。

 腹が立たないのは、富久自身の贅沢のためでないのがわかっているからだ。ほぼすべて妹の須恵のためであり、ひんぱんな慶弔の出費も、遠い親戚筋にまで娘の縁談について依頼するためと推察された。

 ふしあわせな家庭に生まれた富久の係累は、複雑な上につながりは淡く、奉仕の甲斐などありそうもないのだが、頼れる先のない義母は、富くじでも買うつもりで投資しているらしかった。


 いちおうの主が帰ってきたというので、母親と入れ替わりに当の須恵も挨拶にきた。こちらも表情はとりすましている。

「あにさま、また髪がひどいご様子でいらっしゃいますね」

「そうかな」

 今日は立ち回りのせいで、髷が乱れてしまっている。しかし、そんなことは言えない。

「そのお姿でわたくしの親しい方々の前にあらわれては嫌ですよ」

「……うむ」

 軍平と六つ違いの妹は、ほどよく背が高く、飛び抜けた美人ではないが愛らしい顔立ちをしていた。社交性はあり、母親が厳しいのでしつけや身もちにうしろ指をさされるところはない。つまり兄とは違った万人向けのする娘である。

 このごろは顔にできた吹き出物を気にしているようだが、若々しい証拠だと兄は思っている。


 幼いうちは、兄妹の仲は悪くはなかった。

 軍平は妹をできるかぎり大事にしたし、向こうもなんでも話してきた。母親に冗談のわからないところがあり、相談相手としては適当でないせいもあった。

 だが、上覧試合の敗北あたりから、だんだんと他人行儀になった。遊び仲間にからかわれ疲れたのであろうことは、聞かずともわかる。

 家にいる下女の亀に向かっては、「もっと身なりに気を遣えば女のひとの目を引くのに」といった類いの要望をしきりに口にしているらしいのだが、面と向かっては批判ばかりである。

 なお、須恵本人の申告によると、彼女の同世代の友人たちにとっては、何年も前の剣術の試合など今さら関心はないという。兄からの謝罪に対しては、いつもの考えすぎだと軽く流した。

 一方で、たまにふらりと家に帰ってくる謎めいた大男が兄だという、そのこと自体が「駄目なの」と須恵は主張した。ときには、友人たちが遊びにきている最中に軍平が帰宅することがあるが、彼の気配を感じるだけで「ぎゃー、いやーっ」と声をひっくり返して笑い騒ぐそうだった。もちろん、妹も一緒にだ。

 それを知った軍平は、怒るよりげっそりした。

 

 だが、娘たちの会話をもれ聞いている亀からは、

「あの娘どもの失礼な振る舞いには、当然ながら表むきとは別の意味があるのです」と解説があった。

「あれこそ、旦那さまにいたく興味のある裏返しです」亀はひとりうなずいた。「時を得ぬとはいえ、当家はまぎれもなく名門。それに、あれら娘どもの兄や弟など、亀も知っておりますが揃いも揃ってうらなりの寸足らず。比べて旦那さまは稀に見る偉丈夫。学問・剣術にも不足はなく、お顔もほれ、俯いたりさえしなければ、なかなか。どこに夫としてこれほど立派な方がおりますか。もっと自信をお持ちなさいませ」と、発破をかけられ、背中を叩かれた。

 亀もカネに次いで古くから家にいるので、軍平に遠慮などない。

 たしかに須恵からも、「なぜ兄さまはそんなに弱気ですの?」と苛立った様子で聞かれたことがある。

 しかし、自信と覇気のなさはすでに彼の習い性になってしまっている。

 だからと言って須恵の友人どもに、胸を張ってやあやあと愛想を振りまく気にもなれなかった。どうせ逃げ出されるだろうし。


 今日も須恵は、体ばかり大きい兄をじっと見たあと、黙り込んだ。

 しかし、しばらくは彼の前を去らなかった。

 なにか伝えたいことがあるのに、打ち明けかねているとの風情だった。

 いくらにぶい軍平でも、それぐらいはわかる。

(やはり、あれか……この兄では頼りないと思いつつ、なんとかしてくれないかなと思っているのだろうな)

 心当たりはあった。口に出そうとした矢先、ぷいと妹は出て行った。

 軍平はしばし考え込んだ。

 

 義母の富久は、比較的単純な性格をしていて、気持ちを読み取りやすい。

 しかしその娘である妹は、見た目の印象とは異なり、母親よりずっと思慮深く複雑な性格をしていた。明るく屈託のないように振る舞いつつ、内心を隠したがるきらいがあった。

 その屈折ぶりは、まぎれもなく兄妹であるなあと軍平は思っている。

 そんな須恵が、夏頃からときどき、空中にあらぬ視線を投げかけてため息をつくことが増えた。

 ため息は兄妹の数少ない共通点だなと見ているうち、妹に思いつめたような表情が増え、さすがに心配になってきた。

 まさかとは思うが、父親みたいに「表立てぬ相手とねんごろに」なったりしていたら、困る。

 そういえば須恵の外貌は亡父に似ていた。

 祖父の兵部や軍平のように彫りが深く、ともすれば怖く見える顔立ちではない。頬がやわらかく丸みをおびて愛嬌がある。それが、だんだん削げてきたように思える。

 急いで亀およびカネから情報を集め、それらを統合してようやく理由に見当がついた。

 

 きっかけは、この前の梅雨にさかのぼる。

 役目上の旅に出て、一月ばかり軍平が家に寄り付かなかった時期のこと。

 ある日、自宅近くのお堂を通りかかった須恵は、雨宿りをする旅の男を目に止めた。

 頬は赤く、額はあぶら汗にまみれ、足腰が砕けたように狭い床に座り込んでいる姿は、どう見ても具合が悪かった。

 まだとても若いと思われる男は、水を差し出した須恵に、江戸の商家で働く者であると苦しそうに微笑んで自己紹介した。

 そして、主人の命により、彼の古い恩人を探してこの国へたどり着いたが、とうに亡くなっていたのをようやく知り落胆しているだけだ、ご心配なきようと説明した。

 だが彼は明らかに高熱を発し、ときおり震えも出ている。このまま放置しては危険なのは目に見えていた。

 男は固辞し、富久も反対したのだが、須恵はそれを押し切って彼を家に連れ帰り、医者に見せるなど親身に介抱した。

 幾日かして、平癒した男は丁重な礼ののちに、ひとり去っていった。のちに過剰なほどの礼が家に届いた。

 須恵が宙を眺めるのは、男が去ってから始まっていた。

 亀によると若い商人は、行商には不似合いなほどほっそり華奢な体つきだったが、凛々しい顔立ちをして体調不良にもかかわらず態度物腰に下品なところは一切なかったという。

 これで、ため息の対象は見当がついた。


 一方、カネによると、若い商人のその後の姿を、彼女の家にいる茂平じいさんが目に止めた。

 若者は宇藤木家を出たあと、宿場まできていた出迎えと合流した。その一行はとてもただの行商人とは思えない陣容だったという。

「もしや、名の知れた侠客とかではないだろうな。いくらなんでも、やくざ者と親しんだりしたら、ちょっとその、なんだな」

「いえいえ、とんでもない。おそらくその方は……」

 出迎えの一行の荷にあった小さな印は、江戸でも屈指の豪商のそれと瓜二つだった。

 茂平の見るところ、迎えの者たちが男を見つけた際の安堵の表情、態度やその後の厚遇ぶりからすると、連絡の途絶えた使用人を探しにきたとは考えにくい。おそらく若者は、主人の一族かそれに近い人物ではないか。


「まさか。そんな御伽話みたいなことが、あるものか」

 軍平は一笑したものの、考えると茂平はただの老いた農夫ではない。

 若いうちは藩の隠密組に属した筋金入りの探索者であり、ずいぶん年寄ったとはいえ軍平や、それこそいまの目付の手下どもより、はるかに目利きである。

 カネは黙っているが、どうせ軍平の不在中に身元不詳の若い男が担ぎ込まれたと亀から知らせを受け、茂平に監視させていたに違いない。

 武家の娘がなにを考えているのか、と否定するのは簡単であるが、役立たずの兄としては、妹の恋をどうにか叶えてやりたい気持ちもある。

 とりあえず、石田にあったのを奇貨として、江戸に顔の広い彼にこの件を手短に伝えては見たが、

「どうなるかな……」先行きは不透明だった。


 女ふたりが去ったあと、台所で冷や飯でも探そうと軍平は短い廊下をわたった。

 彼の帰宅は不定期のため、食事は用意されていない。特に今日は石田と話し込んでいたため、遅い時間になってしまった。

 いつもなら、亀がなんとかしてくれるのだが、今日は親類の不幸があったとかでいない。と、いうことは自分で調達しなければならない。

 

 どうすべきか考えていると、外からもどってきた富久がまた声をかけてきた。隣家の内山から声がかかったという。

 「あちらの奥様が、あなた様のお戻りになったのを目にされたようで、ひとこと、ふたこと」

 「なんですか」

 「ひとつは、そろそろ庭木の手入れを考えれてくれと」

 いまの母娘が暮らしているのは、祖父の建てた別邸のあとである。

 祖父は権勢を利用して儲けたりはしなかったが、藩主の強い勧めもあって別邸だけは所有していた。

 創建当時は殿様がお忍びで息抜きにいらっしゃったと伝わる屋敷は、他の部屋からのぞきにくいよう棟を分けてあった。

 甲斐性のない孫たちは、その邸宅の構造を利用して全体を三分割し、うち二つを人に貸してある。わずかな額でもありがたい収入だった。

 

 内山は一番大きい区画の店子である。もとはぜひにと頼まれて貸したのだが、夫が前任者の突然の罷免によって昇進を果たして以来、いろいろ注文が増えた。

「つまり、わたしが枝を払えばよいのですか」

「まあ。かりにも御当主様にそんなことは」富久はしらじらしく笑った。もちろん、軍平になんとかしろということだ。

 内山一家が来客に自慢している紅葉や梅は、当時の藩主が自らの好みで植えさせたものであり、彼はその前に座って、機嫌よく歌を詠んでいたという。

 まさか殿様遺愛の木を素人の軍平が切るわけにもゆかず、植木屋に頼まねばならない。また物入りである。自分の眉がさがるのがわかった。

「それと」義母はまだ続けた。「わたくしが奥様としゃべっていますと、わざわざご主人が出てこられて、妙なことをおっしゃいました。だからわたくしは、ご自身で聞かれたらとお勧めしたのですが、いや、そこまではいいと」

「なんですか、それは」軍平はひっかかりを感じた。店子というだけで、内山とはこれまで、公私ともにほぼ付き合いはなかった。

「今日、軍平様はお友達に会われたそうですね。ご主人は、その席でなにを話されたのかとても気にされておられて、わたくしにその内容を聞いておらぬかと。知りませぬとお答えしましたよ」

 一瞬意味を考えてから、軍平はぞっとなった。石田との邂逅が、もう伝わっている。

「そ、それ以外にはなにか言っていませんでしたか、内山様は」

「さあ、別に」首をかしげていた冨久は、「そうそう」と思い出したように付け加えた。「そういえば、軍平様には聞いたことを内密にしてほしいとのことでした。どうしてなんでしょうね。おかしな話です」

 いつも、いらいらさせられる義母の天然ぶりが、これほどありがたく感じたことはなかった。

 

 

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