第20話  百年前の鑑識

アントローサ警部はボヤを出したアパルトマンの前にいた。まだ現代のような鑑識技術のない時代ではあったが、指紋の採集くらいならできた。


1901年からスコットランドヤードで囚人の指紋を記録する制度が始まり、捜査に利用されている。


1910年には、エドモンド・ロカール氏が警察技術研究所の初代所長に就任してフランスのシャーロック・ホームズと呼ばれた。警察技術とは犯罪鑑識学のことを指している。


此の国でも鑑識は始まった。と言っても、犯罪者の指紋を保管しておき、同一指紋の鑑定は目視で行うという、膨大な時間のかかる技だった。国全体で過去10年に指紋を採集された犯罪関係者は60万人にも上るからだ。ひとつの指紋を60万人分の指紋と目視で照らし合わせるのだ。


デルタン通りのアパルトマンのカワハギ事件では、イサドラはよほど注意深く行ったのか、指紋処か髪の毛一本も発見されなかった。


「ボヤのあったあの部屋で亡くなった被害者の死因が、薬物に因るものらしいことはわかったんですけどね……」


アントローサ警部に珈琲を出しながら、部下が報告する。


「何の毒だ」


「其れがまだ……其れよりも、押収した指紋が複数に及ぶもんで、鑑定を手伝った署員全員が疲れ果ててますよ」


「仕方ない。被害者は家族のバースデーのレストラン予約を入れた直後だったんだ。自殺とは考えられない。私も鑑定を手伝おう」



シャンタンはカナンデラに耳元で囁かれた言葉を思い出しながら、カナンデラの寝顔を眺める。


『お前、お飾りにされたままで良いのか』

『あっ、あっ……待て……カナンデラ、シャ、シャツは買った……ト、トランクスも……』

『シャツかぁ、トランクスまで……ありがとおぉ。俺様、今夜はお泊まりできるぅぅ』

『何っ、お前、こっ、殺されたいか、カナンデラ・ザカリーぁぁ……駄目』

『シャンタン、お前、7人会に牛耳られているんだろう。俺様が、7人会に負けないように知恵を付けてやろうか、ん……』

『知恵……』

『今までのような古い体制ではお前の命も危ないじゃないか。俺様、お前にぞっこんだからな、心配なんだよ、シャンタン……お前には後ろ楯がいないじゃないか。パパキノシタの跡目がおかしなのに乗っ取られて』

『き、聞こうじゃないか。どんなアイデアが……あっ、其処は……』


後はなし崩しにいつもの様に……此の屑野郎め……知恵とはなんだよ知恵とはよ。好き勝手しくさって、何かアイデアあるならとっとと言えよ。何なんだよ、カナンデラ・ザカリー……気を持たせやがって……お前が後ろ楯になるとでも言うのか……アホも休み休み言えよ。毎回じゃないか、アホ丸出しでセクハラ三昧は。しかも俺様をクッションにして眠りやがって……マフィアを舐めてるのか……俺様も何で着替えを用意して待ってたんだろう……いかん。俺様もうっかりこいつの作戦に羽目られているじゃないか……しかもうっかりついでに自分の着替えまで準備して……

うっ、起きるか、カナンデラ・ザカリー……


「シャンタン……」


寝言……


「可愛い……」


……こっ、殺す……俺様は何度も言っているがお前のオンナじゃない。俺様はマフィアのドンだ。ゴッドファーザーだ。なのに、撃ち殺せない……


あっ、止めて、駄目、カナンデラ……眠っていながら何をする……



龍花は、預かった絵皿について、宋時代の青磁に違いないと踏んだ。くすんだ薄い青緑色は黄みががっている。鉄の酸化に因るバーミリオン系の曼珠沙華が、無彩色レリーフの間に描かれている。龍泉窯の得意とする青磁で、皿を池に見立てた秀逸なデザインだ。


そうね……此れは、間違いなく国立美術館クラスの買い取りになる品よ。数千万の値はつくよ。財団からある適度の資金を任されている立場としても、この絵皿はほしい。目の利くコレクターの蒐集願望を満足させる品には違いないからね……


持ち込んだのはアンドレア・チャブロワと言う中年の女性だった。サラ・ベルナールから貰った絵皿という触れ込みだったが、世紀の大女優の所有物だったのなら、コレクター垂涎ものの話だ。値を吊り上げる為の作り話かも知れない。


龍花はデスクの電話に手を伸ばした。


「オーナー、お客さんです」


売り子に案内されて、年配の刑事ブルンチャスが現れた。其の後ろにもう1人、若い刑事がいた。


「少し込み入った話なんですがね、お時間頂けますかな……」


「ニーシャ、お客様にお茶をお願い」


売り子が珈琲を淹れる間に、詐欺事件の簡単な説明が龍花の鼓膜を震わせた。衝撃が身体を走る。


「そんな。私の店の信用問題よ。それだけでなく、本物の取り引き相手に申し訳ないわ。何とかしてください。財団の面子に関わる重大な損害です。私の立場も……今、中国は政治的に不安定な時期だから、財団の面子は大事なの……」


翌年の1928年に国民政府が設立されることになる中華民国の支援団体ではあるが、龍花の財団は一度解体され秘密結社として生き残った中華革命党の一翼を担っている。


お茶が運ばれて、ブルンチャスと若い刑事の前に出された。中国色豊かなソファーに軽く腰を落としただけの姿勢だったから、美しい色合いの磁器のカップに花が開くのが見てとれた。ふわりと白い花が開ききった。


阿片戦争以前に中国から流出した国宝級の古美術を買い戻すのが、龍花の主な仕事だ。東インド会社を通してイギリスやポルトガルに流れた古美術品の多数を買い戻し、今はフランスを拠点にヨーロッパ全土を探し歩いている。


「詐欺……そんな……私は大金を動かしているよ。パパキノシタの信用問題でしょう」


「龍花さん、パパキノシタが亡くなって、今はカポネズズ・ファミーユです。ご存知ですよね」


ブルンチャスはカップで手を温めながら訊く。


「え……そうなの……私は一昨日フランスから戻ったばかりよ。知らなかったよ。パパキノシタが死んだこと……一昨日、取り引きの電話があったから、パパキノシタ組には電話するのを控えていたのよ。何かあればいつも向こうの方から連絡くれるからね」


若い刑事が口を開いた。


「此のお茶、美しいですね……龍花さん、一昨日の取り引きの電話……宜しければ聞かせてもらえませんか」


無遠慮な目が龍花の目を捉える。

此れが龍花とキーツの出会いだった。






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