第9話 ゼニ貰いに来ただけなのにやっぱりお前が可愛くて



「ラナンタータ、イサドラ・ダンカンが死んだ」



1927年9月。フランスのニースで世界的な創作ダンスの権威イサドラ・ダンカン死去。運転中、スポーツ・カーのタイヤに長いスカーフが巻き込まれての事故死。


其の新聞記事の三面に、ある殺人事件が載っていた。被害者はまたしても娼婦。連続殺人事件の様相を呈しているが、街では海の向こうのロンドンからジャック・ザ・リッパーが渡って来たと真しやかな噂が流れている。


相変わらず黒マントに身を包んで飽きず窓辺に佇むラナンタータを、お前は猫か……とカナンデラが呟く。



「あのイサドラ・ダンカンだぞ」


「其れは気の毒に……」



ラルポアがラナンタータの代わりに悔やみを述べる。


ラルポアはカナンデラのひとり用ソファーの肘掛けに片方の尻を乗せて、背もたれに肘をつき片方の手を腰に当てて、長い脚を斜めに組んでいる。カナンデラの新聞を覗く為だが、無意識にしては絵になるコンビだ。


耳の上からの返答にカナンデラは頷くも、不満を漏らす。



「お前ら、何度も言わせるな。イサドラ・ダンカンと言えば親戚みたいなものじゃないか」


「「何を馬鹿な……」」



ラナンタータは街を眺めながら、ラルポアはそっぽを向いて、同時に反論した。


日の高いうちは何処か褪めた色合いの草臥れた繁華街が、日が斜めに傾き始めると妙に艶めき出して、ラナンタータの目を釘付けにする。


夕日に手の甲を晒してみる。肌色が柔らかく染まる。アルビノの白さが軽減され、夕日色に晒された肌に温もりを感じ、反って寂しい気持ちになる。


曲がり角から女が現れた。



サディに似ている。あの女……



孤児のサディ。イサドラ・ダンカンの名を名乗り、此の街の劇場の観客動員数を稼いだ詐欺師で殺し屋。花屋夫婦を殺害し、無関係の訪問者を階段から突き落として死亡させ、次期総裁の噂の高いアムロナワ子爵への恋心なのか殺意なのか殺害を企てて未遂に終わった、連続殺人事件の犯人だ。


ワインレッドのストールを頭から巻いてマキシム丈のグレーのコート。其れでサングラスでも掛けられたら誰だかわからないくらい無個性にすっぽり包まれた歩くコートだ。両手をポケットに突っ込んでいる。


しかし弱視のラナンタータだが、オペラグラスで見分ける記憶は顔認識ロボット並みに狂いはない。



やっぱり、間違いない。あれは、あの顔はサディだ。



初めて見たのは出入り不能と思われた殺人事件のあった部屋だった。夜の月明りとランプが1つだけの中で、可憐な花がふわっと咲くような不思議なオーラのある踊り子。其れが狂人の纏う雰囲気だった訳だから質が悪い。多くの人が騙された。



サディはしかし、精神病院に収監されて心理学の学者の分析を受けているはずだ。サディのような異常心理の精神分析が、やがて犯罪心理学や理学療法の礎になるかもしれないと云うことだ。なのに、何故サディがこんな処に……



「カナンデラ、あれを見ろ。早く」



カナンデラはお気に入りのソファーから跳ねるように立ち上がると、新聞をラルポアに押し付けて窓辺に来た。5メートルを3歩で歩くのは造作ない。つ、と寄り添い直ぐに「あれか、サディじゃないか。イサドラ・ダンカンの成り済まし女……」と言った。


ラルポアも窓辺に来る。


サディはシャンタンの魔城の方に向かって歩を進める。やがて真下を通る。カナンデラは壁際に身を寄せ、ラナンタータはラルポアに引っ張られて斜めから抱き寄せられた形になった。


真下でサディが無人の窓を見上げた。



「1、2、3、4、5……」



数を数えてラルポアはラナンタータを離す。カナンデラはコートを羽織り、中折れ帽を片手に大股でドアに向かう。



「尾行する」



ラナンタータは「サディ」と呼んだ。サディは無反応だ。


ラルポアが早かった。ラナンタータの片腕を捕まえて訊く。



「呼びかけてどうする気だ」



カナンデラはラナンタータの予想外の行動に口をパクパクさせて、片方の手で中折れ帽を振っている。


ラナンタータは更に窓から身を乗り出して「イサドラ」と叫んだ。


ワインレッドのストールが振り向く。ゆっくり頭が傾いて、窓辺に視線を止めた。サディの目に白い髪の毛のラナンタータが映った。



「アルビノ……ラナンタータ」



サディの行動は素早い。すっと足を向けた先に舞うように身体を投げる。サディはカナンデラ・ザカリー探偵事務所のビルの内部に入った。


カナンデラは「お前、お前、お前は悪魔か」と言って中折れ帽を振っていた手を、ゼンマイ切れの人形のように止めて耳に神経を集中させた。


コツンコツンと音が響く。階段を上がる靴音。美しい悪魔がやって来る。



「親戚みたいなものなんだろ。お茶でも淹れようよ」



ラナンタータが提案した。



「頼む」



カナンデラ・ザカリーは帽子をスタンドに掛けてコートを脱いだ。ラルポアが茶葉をポットに入れる。


ドアに近寄る。一呼吸置いてドアを開けた。


ノックのかたちに右手を出したサディが其処に立っている。



「あら、こんにちは。自動ドアかしら。アメリカ式ね。私、ラナンタータさんに呼ばれて参りましたのよ」



手をポケットに戻して笑う。



アメリカでは1920年代にスーパーマーケット等に自動ドアが採用されて、1927年の此の年には日本でも既に山手線の電車や地下鉄が自動化された。女性の衣服がまだ着物中心でバッグを持たず、風呂敷文化の時代の日本では、自動ドアの普及が望まれたことだろう。



「どうぞ、どうぞ。美しい方はいつでも大歓迎です」



カナンデラ・ザカリーはにっこり笑って心にもない余計なことを言う。


「いつでも……」サディは花が開くようににっこり微笑んだ。余程嬉しく思ってか「いつでもね」と#口遊__くちずさ__#む。



カナンデラは3人掛けのソファーをサディに進め、ラルポアは電気ポットのお湯を注いで珈琲を淹れた。


カップはマイセン、柿右衛門風の赤絵に金の美しい芸術品だ。ラルポアがこよなく愛する日本文化を感じさせるカップ&ソーサーだが、珈琲に使っている。



「イサドラって本名だったんだね。イサドラ・ナリス。あなた、サディって呼ばれるよりもイサドラの方に反応した」



ラナンタータは無遠慮にサディの表情を見つめた。



「サディは忌まわしい名前だわ。私は其の名前で呼ばれていた間は被害者だったのよ」



長い睫毛をそっと伏せ、唇を内側に巻き込んだ。



「其の通り。サディはみんな被害者だ」



カナンデラが太鼓判を押す。イサドラ・ナリスは嬉しそうに微笑んで、ゆっくりカップを持った。



「でも何故あなたが」


「此処にいるのかって……知らないの。私は無罪放免になったのよ。精神科医の調べで、私は犯行中、催眠術にかかっていたことが分かったの。其れでね、此れからシャンタン会長に未払い分のお給料を貰いに行くところなんだけど、ザカリーさんにお願いしてもいいかしら」


「待って、催眠術って誰がかけたの」


「満月会Rの誰かよ。今は会そのものが分裂していて、しかもコードネームしかわからないから、私も思い出すのに辛い拷問を受けたわ。3ヵ月間、毎日毎夜、拷問続きで辛かった。少しずつ、本当に少しずつだけどある程度の情報が浮かび上がって、精神科医がこれ以上は無理だと言って、其れから精神療養に戻って、昨日やっと出られたの」


「では、催眠術をかけて犯行を行わせた真犯人はまだわからないと言うのだな」


「ええ、何か他に思い出すことがあるかもしれないから、なるべく元の生活に戻るようにと言われたけれど、今更、此の街では暮らせないわ。私はイサドラ・ダンカンの偽物で、しかも催眠術とはいえ殺人犯ですもの」


「其れは……気の毒だが……」


「イサドラ・ダンカンは事故死した。今朝の新聞に載っている」


「そう。其れならやっぱり私の時代は終わったのよ」


「何故、終わったと。偽物を続けるつもりだったのか。其れなりに人気のあったあなたなら、まだ踊れるだろう」


「……」



イサドラ・ナリスの、不思議なものを見るような目にぶつかった。ラナンタータは、友人の結婚式の踊りで筋肉痛になった。1週間、腓返りと筋肉痛で動けなかった。



「踊りとは芸術だ。しかも一瞬一瞬の芸術だ。他の誰にも代われない肉体を使った一瞬の芸術。消えて残らない。映画撮影しても、全てを写し取れる訳ではない。そういうものだ。其れをあなたは舞台の上で実践してきたのではなかったか」


「ラナンタータ……有り難う」



思いがけない理解に溶かされて、イサドラ・ナリスの鼻が赤らむ。目に細かい光が宿り壊れて流れた。


ラルポアが胸のチーフをすっと出す。こういうときのラルポアは、天才的に自然に振る舞う。 


イサドラは思いがけない親切に、暫く目を細めてラルポアを見つめ、チーフを受け取った。


カナンデラが両手を擦り合わせる。



「わかった。ではシャンタンから全額引き出すとして、此方は手取りでいくら貰える」



カナンデラは現実的で前向きだ。早くもシャンタン坊やに用事ができて黒い笑いがこみ上げる。


シャンタン坊や待ってろよ。お前さんにはあんなこともこんなことも……わははは……ああ、楽しみだ。



「シャンタン会長はやがてオフィスに来る頃よ。私は玄関先で追い返されないように車を待つつもりだったの」


「あのロールスロイスファントムか。とんでもなくカッコいい車だ。ラナンタータ、親父さんに買ってもらえ。エンブレムが最高だぞ」



カナンデラが脳天気に笑う。


イギリスのロールスロイス社の出した高級車ファントムが、ヒエラルキートップ層に受けるのはリムジン車だからだ。ラルポアのようなショーファーと呼ばれるお抱え運転手が増えた。



「イサドラさん、お給料はカナンデラが間違いなく受け取って来る。しかし、あなたは何処に行くつもりだ。此の街が嫌なら、何処かに当てでもあるのか」


「無いと言ったら泊めてくれるの……ふふ。困るでしょ。大丈夫よ。ダンサー仲間が助けてくれるの。此の服もコートもバッグもストールも、彼女からの借り物よ」


「あなたは5月にも毛皮を羽織っていましたよね。此の国は5月の夜でも10度を下回ることもあるから、毛皮を着ていてもそうおかしくはないけれど、今は9月です。5月よりも冷え込みます。何故、毛皮じゃないんですか。あれはミンクでしたよね、確か牝のワイルドミンク。あのコートはどうなさったのですか。どう見てもあのミンクの方があなたらしい」


「お友達にあげたの。泊めてもらうのだからお礼に」



養殖ミンクが台頭してきた1920年代、ワイルドミンクは高級品でしかも毛足の柔らかい牝のミンクは最高級品として女王の冠を戴いていた。宿泊のお礼にあげるような代物ではない。



「ふうん。其のダンサー仲間と云うのはシャンタンの店で働いているのか」


「ええ。風邪気味で今夜は休むらしいけどね。何か精のつくものでも買って帰るわ」


「待っていてくれるのなら、小1時間のうちにはもらって来ますよ。謝礼は手取りで1割。如何かな」


「ええ、妥当だわ」


「よっしゃ、決まった。はっはっはぁ、シャンタン坊やぁ、待ってろよぉ」


カナンデラは大股で事務所を出た。階段を軽やかに降りながらトレンチ・コートを肩に羽織る。風はないが冷え込んで来た。


大股で、闇の帝王シャンタンの魔城に向かう。コートの裾が翻る。中折れ帽を斜に被ってポケットに両手を入れて歩くカナンデラに、通りのボーイが挨拶する。片手を上げる。


カナンデラの横にすうっとフライング・レディのエンブレムが停まった。黒いロールスロイスの後部座席の窓硝子が下がり、金髪碧眼の線の細い少年がにやっと笑った。カシミヤのマフラーは落ち着いたモーブだ。



「カナンデラ・ザカリーさん。お久しぶりですね」


「おお、シャンタン会長。また会長さん処のオランダワインが飲みたくなってね」



カナンデラは勝手にドアを開けて乗り込んだ。助手席のボディ・ガードが慌てるのを笑顔で制して、シャンタンは意味ありげに笑う。



「いいですよ。積もる話もあることですし」


「はっはっはぁ、そう来なくっちゃ」



シャンタンはスミス&ウエッソンの残りの銃弾を思って笑顔になり、カナンデラは「会長、コロンは何を使っているんだい」と耳に口を近付けてセクハラに傾き始める。


カナンデラの息が耳にかかる。シャンタンはにこやかさを崩さずに言った。



「そういう話はオフィスでしましょう」


「そうかぁ、オフィスでね。うんうん」


「もう着きましたよ」


「はっはっはぁ、シャンタン会長、オランダのワイン……」


「アポステルホーフェですね。あなたの為に取ってありますよ」



シャンタンは内心、幻のワインを味わうのは今夜が最後だ、カナンデラ・ザカリー、お前さんが幻になれ……と笑う。


車を降りて、カナンデラは、夏のキナ・リレ入りのカクテル・リンドバーグ強引口移し事件を許されたと思い、アポステルホーフェをゆっくり味わったらあんなこともこんなこともと勃起しそうになった。



うんうん、可愛いぜ、シャンタン坊や……今夜はゼニ貰いに来ただけなんだけどな……忘れないようにしなくっちゃ、ゼニ。他人の給料だもんな。



長い廊下を渡り、シャンタンのオフィスのドアを開けた側近に「誰もいれるな」とカナンデラが指示を出した。側近はシャンタンの顔を見たが、シャンタンは嬉しそうに微笑んでいる。



ここ最近苛ついていた会長がご機嫌だ……



すっかり誤解した。




部屋に入りしなカナンデラは後ろ手に鍵を掛ける。シャンタンが振り向いた。遅い。カナンデラ相手に其の間合いは無防備過ぎた。


「ゼニ貰いに来ただけなのにやっぱりお前が可愛いくて」



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