一般男子高校生と感染症

煮卵

第1話 一般男子高校生とゾンビ

 さて……まず最初に、彼はごくごく普通の高校生だ。


 少し劣っている面があるとすれば、それは体育の成績が平均以下と言った所か。本当にそれくらい。贔屓とか、そういうのでは決してない。他の成績は普通だ。


 そして一般的な高校生である彼は仮に、起きたとしても、パンデミックを生き延びる術などない。特に、人口密集地である東京の池袋のサンシャイン通りで発生したゾンビパニックからの生還なんて、無理があるだろう。


 


 仮定通り、僕は当たり前のように逃げ遅れ、当たり前のように、池袋を歩いていたお姉さん、つまりちょっとグロい死にたての女子ゾンビに肩からぱっくりと捕食され、心のどこかで本望……と思いながら生き絶えた……はず、なのだが。


 ううぁぁあ〜。


 と、目の前をスーツ姿の男ゾンビが横切る。


 僕は無視である。


 ぐぎゅるるる。


 と、僕の腹が盛大に音を立てる。


 しかし男ゾンビは全く反応しない。


「僕、生きてるらしいな……」


 顎に手を当てて、少し考えてみる。頭スッキリ呼吸もバッチリ。動きは……若干良くなった気すらする。


「あいうえおかきくけこ。隣の客はよく柿喰う客だ」


 滑舌もよし。体温は、ほんのり温かい? 痛覚は鈍くなっている気がする。


 なるほど。なるほどなるほど。


 よし、これはあれだな? つまり、僕ってば


「ゾンビウイルスに適合しているっ!」


 ババッ、と決めポーズを決めながら高らかに宣言した。恥ずかしさというか、快感というか、すごい開放感だ……。


「うあ?」


 などと、ちょっと危ない快感に浸っていると男ゾンビに振り向かれて、心臓が跳ね上がった。


「うあぁ〜……」


 が、すぐに興味を無くしたように徘徊を再開する。


「ふむ……」


 大声で振り返っただけ、か……? 僕もゾンビの一員として見られてるんだよな。たぶん。


 要検証だけど、方法を考えないと死にかねないな。


 ……とにかくこの閑散としていて、死体と血と内臓がぶちまけられた街の中で、最初に浮かんだ真っ当な疑問は


 喜ぶべき事なのか?


 という事だった。






 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






 喜ぶべき事なのか? なんて、余裕そうな事を言っている場合じゃない。真っ当でも何でもない。ゾンビになっても意識があるなんて、間違いなく、最悪だ。


 僕は側溝の前で座り込み項垂れながら、心底そう思った。


 そう、最悪。


 良かった、なんて一瞬でも安堵していた自分をぶん殴ってやりたい。


 あの後、ぼんやりとした頭が本格的に稼働し始めると、まずえづいた。


 臭い。臭いのだ死体が。


 しかし残念な事に胃袋の中身などない。僕は数十分苦しんだ後、胃液を吐き出してやっと楽になった。


 胃液は、煙を吹きながら「ジュー」と怪しい音を立てていた。たぶんアレはコンクリを溶かしている音だ。


 控えめに言って僕の胃液はヤバイ。消化器関係がエイリアンと同レベルの化け物である。もちろん、顔をしかめたのは圧倒的酸性を目の当たりにした事も大いに関係しているが、実際は口内環境の悪化のせいだ。


 僕はその口内の気持ち悪さと臭いに慣れるまで歩く事すら不可能だった。意思とは別に胃がキュッと縮んでしまうので、その度にえずく事になる。


 中々の……少なくともこの十七年の中では一位にランクインする地獄だったが、もう終わった事だ。


 僕は胸を押さえて、えずく体力すら残っていない絞りかすの様な体を引きずって、遂に、この自販機までたどり着いた。


 転がり落ちたペットボトルをむしり取ると、中身を口に押し込む。水が口の中を、主に喉を浄化した。


 それでやっと解放された。


 最悪、から普通、になったと言った所か。


 しかし残念ながら臭いは相変わらずひどい。


 それだけじゃ無い、僕にとって悪い知らせはいくつかある。例えば、見た目は限りなくゾンビらしく……いや、ゾンビそのものだった。と言った方が正しい。


 肌は限りなく白く、そこに青紫色の血管や毛細血管が浮き出ている。さながら、生きる血管標本。もっと言えば、嫌に犬歯が伸びていたりして顔の方も大変な事になっている。歯が変形しているからだ。こんなにギザギザの、肉しか食いませんと言わんばかりの歯が生えている人間なんて、居ない。


 ともかく、店内の赤い電光板がいつも通り呑気に謎言語を流している大きな服屋、ここ、クロフクに置いてある鏡が割れていなくて本当に良かった。


 自分がこんな状態だと知らずに歩いていたら、生存者や自衛隊など、それらに襲撃されてしまうのは想像に難くない。


 そして捕縛、収容、研究の三コンボ。立派なモルモットになってしまう。


 残念な事にどう見てもこの肌の色は目立つし、つまり、長袖が必要なのだ。


 カチン、カチンと閉じる時に鉄鋏てっきょうのような音を立てる歯を鳴らしながら店内をぐるっと見て回った。こんなにしっかり服を見たのは、四半世紀以上前かも知れない。


 というのも、僕が服屋の店員と話すのが苦手で、まず自分から服屋に行った事が無いからなのだが……これだけで一つ本が書けてしまいそうだ。やめよう。


 しばらくして。


 いくつかの候補に絞った後、僕は真っ黒な生地の背中に白くおどろおどろしい雰囲気で「ゾンビ」と書いてあるフード付きのパーカーを選んだ。


 選んでおいて何だが、素人目にもこのデザインは売れないと思う。しかし、今は財布が寂しい。


 まぁこんな状況では警官なんて来ないだろうし、というかここに一人死んでるし、バレはしないだろう。しかし、犯罪は犯罪だ。抵抗がある。


 幸いな(?)事に、僕は死んで居ないのだし、ゾンビに襲われないから極限状態という訳でも無い。それで法を犯すのは、甘えだろう。


 一応、レジにお金を置いてから外に出た。もう利益を回収しにくる人なんて居ないだろうけどなぁ。


 バラバラバラバラ……。


 上を見上げると、丁度轟音を立てながら、ヘリがビルの上を飛んでいくところだった。


 政府のヘリだろうか。というか、国は生きてるのか? 日本のお役所はお堅いから、人を殺すかどうか悩んでる間に全員ゾンビ化していてもおかしくない。


 誰も銃なんか持ってないからな。


 流石に断定は辞めとこう。全滅はしてないだろう。あれだけ人が逃げたんだし、流石に情報が行ってる……筈だ。うん。


 そういえば、我が家は大丈夫だろうか。父さんも母さんも仕事だろうし妹は学校。どれもここから離れてるし、ゾンビの足は遅い。余程のことが無ければ大丈夫だと思うけど……。


 いや、病院なんてゾンビの温床みたいな所だし、父さんは危ないかも?


「おぉ、俺には抗体があるのか!? 素晴らしいぃ!! 素晴らしいぞぉぉお!!」


 しかし脳裏には、そう言ってフハハハとマッドサイエンティスト的な笑いを漏らしつつ、すぐにでも研究し始める父さんがいた。


 いや、これは大丈夫だな。うん。


 ありありと想像できる。いや、出来てしまう。あの人の悪魔的な好奇心と能力なら普通に生きてるだろう。……勘でしかないけど、問題なさそうだ。


 後は、アイツと母さんか……まぁ、アイツは……。


 妹は生まれてくる時に振れる能力値ボーナスがあるとしたら、身体強化に極振りしたような性能がある。かと言って、頭が悪い訳ではない。父さんの血のせいか、基礎値が高いのだ。


 悲しいかな。僕には遺伝していない。妹に勝る兄は居ないと言うが、実際、口喧嘩ですら勝った事が無い。リアルファイト……それこそ、僕が骨折した事はあるが、妹は痣を作った事すらない。


 口癖は


「バカ!! アホ!! ノロマ!!」


 ここら辺の聞くに耐えない罵詈雑言。


 確かに彼女からしてみれば大半の人間がそうなのだが……いや、分かっている。しかし、止める人が誰も居ないから仕方ないのだ。奴は能力がある。僕と母さんも他の人と同じくくりらしいし、そこら辺の教育が可能なのは、あの、父さんぐらいだ……。


 考えても見て欲しい。教育を好奇心人間の父さんに任せたらどうなるか。


 やってみて、考えて、そうやって判断しなさい。


 そう教えた。


 結果、どうなったか。この通りである。


 人間関係だけは、やってしまったらお終いなのに。それを分かっていない。紆余曲折あったとはいえ、まるで生きた核爆弾のようなハードルの低い起爆性と、人体を木っ端微塵にする爆発力を手に入れてしまった。


 まぁ、とにかく、アイツはゾンビなんぞ素手で殴り倒すだろう。いつも一人だし。囲まれる事なんてまずありえない。


 ありえない……が、確認するか。仮にも女だ。人間相手に怯みはしないけど、化け物相手じゃあな……。


 携帯をポケットから出すと、留守電が三十六通以上溜まっていた。いくらなんでもこれは掛けすぎでは……? 履歴は父さん、母さん、から始まり、その後は妹。その後も何回か入り乱れて連絡が入ったらしいが、最後の記録はおよそ三時間前、妹の午前十一時二十九分の連絡が最後だ。


 ……今が午後三時十二分か。


 僕が池袋に着いたのが朝の十時くらいで、襲われるまでそう時間があった訳じゃない。という事は


「……少なくとも四時間くらいは寝てたのか」


 ゾンビ化には時間がかかるらしい。なら、僕を襲ったゾンビは昨夜。それも深夜には死んでいた……? にしては数が多かったような……。まぁ、池袋には夜でも人はいるのか。


 しかし、朝のテレビの話題に乗らなかったのは気になる。SNSで誰も発信しなかったのか?


 うーん。


「ま、いいや……」


 僕は一旦「今考えても仕方ない事リスト」にゾンビ化の謎を書き留めて、とりあえず最後の留守電を聞こうと流れる音声案内に従った。


 そして、耳に携帯を押し付け、妹の一言一句を逃すまいと身構えるとー


「おにぃぃぃいい!!??」


「うわっ、うるさー……」


 キーン。と、頭に残響を残す程の破壊力を持った高音の声が耳元で炸裂した。


 耳が壊れるかと……。


「おにぃ、生きてる? これ聞いたらすぐに電話して!! ほんとに、みんな、心配してるんだから!! このバカおにぃ! とんでもないタイミングで、なんで池袋なんかー……」


 おにぃ、なんて何年ぶりだろう。僕の事なんて呼びすらしなかったのに。


 ……かなり動揺してるんだな。


 そのままマシンガンのように、時折バカやアホといった枕言葉を挟みながら吐き出されていた説教の勢いは途中から死んでいき、いつのまにか


「な、泣いてる……」


「この、バカぁー……うぐっ、ひぐっ……」


 泣いていた。一度も泣いた事など無かった完全無欠の妹が。


「なんで、繋がらないの……うぅ……」


 あの妹に心配、されている……。僕は、瑠璃華の事をずっと避けていたのに……。


 それがお互いの為だと思っていたけど、瑠璃華は不器用なだけで、僕の事も……家族だと思って。


 そう考えると、不思議に涙が零れた。


 すぐに妹の電話番号を打ち発信ボタンを押す。


「おにぃ!! 大丈夫なの!?」


 繋がった途端、そんな爆音が鼓膜をつんざく。しかし辛うじて、破れはしなかったらしい。


「うぅっ、そんなに叫ぶなよ……」


「ごめん……でも、良かった。生きてて。てっきり死んじゃったのかと……」


 本当に安堵したのか、深いため息が聞こえてくる。


「あぁ、僕もビックリだよ。まさか瑠璃華がここまで取り乱すなんて、はは、おにぃ、なんていつぶりだろう」


「なっ、ふざけないで! そりゃ、心配の一つもするでしょ? このバカ。いくら使えないポンコツでも、私たち、家族なんだから」


 家族、か……。


「確かに、そうだね」


「泣いてるの?」


「……うん」


「変なおにぃ……」


「あはは、またおにぃ、って言ってる」


「ッー!! 元気なら切るから!」


「あ、待ってよ。今どこにいるの?」


「自衛隊の人に護送して貰ってる。よく分からないんだけど、父さんの要望で私達……舞木まいき一家は保護して貰えるみたい」


「父さんの要望……?」


「うん。この人、それ以上は教えてくれなくて」


「まあいいや、母さんも護送されてるの?」


「分からない」


「えっ、分からない? 母さんの電話も通じないの?」


「一回は繋がったけど、途中から全然通じなくなっちゃって……」


「繋がった時何か言ってた?」


「お兄の事心配してたよ。凄い環境音だった。走ってたのか、忙しそうだったし……」


「外に居たの?」


「……会社の廊下かも」


なるほど……瑠璃華でも予想が難しい環境音か……。


「でも、多分無事だよね」


「私も心配はしてない。だってお母さんだし」


なんだそれ。


母さんだと感染しないのか?


うーん、まぁ、心配しても仕方ないか。割と遠いし。


瑠璃華が言うなら大丈夫だろう。


「……そうだね。お父さんは?」


「あっちから掛かってきたよ。一言『今どこにいる?』って。凄い感情的に。多分……焦ってた?」


「流石の父さんでも焦るんだね」


「そりゃあ……お兄、まさかお父さんも人外か何かだと思ってたの?」


ヤケに「も」が刺々しい気がする。


も、って。


自分が人外扱いなのは良いのか。


……身体能力が人間を辞めた自覚があったと?


それに、自覚があったなら人間の僕に対して手加減というものが多少あっても……


「いや、まず瑠璃華は正真正銘人間だよね?」


「そこから?」


瑠璃華のそれは呆れ返るというか、呆れ三〇〇度、そのまま起き上がる手前までいきそうなくらい吐息を混ぜた声だった。


「とても重要だと思うんだ。うん」


「もちろんーー」


そこでトンネルに入ったのか、砂嵐になってしまった。


「……もしもし? おーい」


復帰はしなさそうだ。


分からず仕舞い、か……って言っても、本心から人外だなんて思って無いけどね。


僕は大人しく通話を切った。瑠璃華が無事なのは分かったし、特に不安な事はーーあるな。父さんには一度掛けてみよう。母さんが心配だ。


「……お掛けになった電話番号は現在電波が届かない場所にいるか、電源が入っていません。


ぴー、という発信音の後に……」


鳴り終わる最後まで待ったが、繋がらなかった。父さんも忙しいのだろう。仕方がない。


「父さん。僕は感染したけど元気だよ。免疫反応が無いし、脳が無事らしいんだ。血清は期待出来ないかな? それじゃ」


留守電にそれだけ残した。


「さて、どうしようかな」


肩の荷が下りたと言うが、心配事が無くなったからといっても実際の重さが消える訳じゃ無い。だが、僕はこの瞬間、重いリュックを下ろしたような、そんな感覚が確かにあった。


それは自由になったとも言うが、同時に目的を失った瞬間でもあった。


「……生存者とか探した方がいいのかな」


そんな目的とも言えないような事を、探した後の事も考えずに始めたのだった。

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