五.五  アソーク

「左右田君、君の言っていた例の写真の事なんだが……」

 数日後、佐藤は左右田恒久に電話を掛けたがその先が続かなかった。

「あっ、ちょ、ちょっと待ってください。写真の持ち主のお祖母さんの名前を聞きました。メモを取ってきます」

 電話の向こうで、恒久が探し物をしているような音が聞こえた。

 佐藤は、自分の写真を持っていたと言う恒久の女友達の祖母と言うのは、あのラチャマイに違いないと思っていた。自分の写真はラチャマイにしか残していない。ほかの人が、これが自分の父親だの祖父だのと言う事は考えにくい。

 恒久に自分の写真の話を聞いてからと言うもの、それまで辛さのあまり封印してきたラチャマイの記憶が堰を切ったように一気に頭を駆け巡った。寝ても起きてもそのことばかり考えていた。

 佐藤は後先何も考えずに恒久にに電話をして「例の写真の事なんだが」と言ったものの、その先どういった風に言おうか考えておらず、後が続かなかったのだ。

 幸い、恒久が引き取ってくれたのである。

「すみません。お待たせしました佐藤さん、例の写真の元の持ち主の名前なんですけど、ラチャマイ・クンサラワニットさんだそうです」

 暫くして電話口に戻って来た恒久は、「ちゃんと調べておきましたよ」と言わんばかりのやや得意気の口調であった。

「……」

《ラチャマイ・クンサラワニット!。やはり彼女だ》

 佐藤は、予想はしていたものの、人の口から愛しく懐かしいラチャマイの名前を聞いて言葉が出なかった。

「もしもし、もしもし、佐藤さん」

「あっ、いやゴメン、ゴメン。左右田君の彼女にはお父さんやお母さんはいるのかね」

 佐藤は、めまいがするほどの興奮の中で辛うじて聞くべきことを聞いた。

「へへっ、その人はは僕の『彼女』なんかじゃありませんよ。友達ですけど、その人にはお母さんがいます。お父さんは知りません」

「左右田君の彼女」と佐藤が言ったせいか面映そうだ。

「いずれにせよ、彼女のお母さんという人はラチャマイさんのお子さんなんだね」

 佐藤は念を押すように言った。

「はい、そうなりますね」

「実を言うとね、この間は余りにもショックだったんで話さなかったけど、そのラチャマイさんと自分はね、古い言葉で言うと『恋仲』でね。その写真は自分がビルマに転戦する時に、ラチャマイさんに置いて行ったものだと思うんだ。ナコンパトムの兵站病院の守備隊に、豊橋市出身で第十五師団少尉の佐藤孝信と言えば自分しかいないしね」

 佐藤は、白状するような口調で言った。

「えっ!あの……、でも、写真の佐藤さんは亡くなったって。失礼、亡くなったと思っていたんですね。でも奇遇というか。何というか、まさかあの、ナリサさんやお母さんは佐藤さんが生きておられるとは思ってもいないでしょうから」

 恒久は腰を抜かさんばかりにひどく慌てた風だ。

「それで、その君の彼女のお母さんが私の子供かどうか分からないが、もし当時のラチャマイさんの事を何か知っていたら会って聞きたいと思ってね」

「勿論、紹介しますけど、でもあの写真が佐藤さんに間違いなければ、友達のお母さんは佐藤さんのお子さんと言う事になるんでしょうか?」

 左右田にやや詰問調で聞かれた。

「うーん、実は、我々はそう言った仲ではなくてね。今で言うとプラトニックだったんだよ。ただ、もしラチャマイに子供がいて孫までいたとしたら、そんなに嬉しい事はないけどね」

 佐藤は、恒久に「佐藤さんのお子さん」と言われて何と答えて良いか分からずにあいまいに答えた。

「いや、そうでしたか。すみません生意気な事を言ってしまって」

 恒久が、恐縮しながら言った。

「それではどうしましょう。ナリサさんにお祖母さんの名前を聞く時に、ナコンパトムの守備隊長の佐藤さんの事を知っている日本人が、お祖母さんの名前を知りたいと言っているからと伝えたので、その人が会いたいと言っているとでも言っておきましょうか?私からまさかお祖母さんの恋人がとか言えないので」


 次の週末に佐藤は、恒久のアレンジで中心街から少し外れたスクンビット通りとアソーク通りの角にある、シーフード・マーケットと言うレストランの二階の個室でプラニー親子と会った。恒久も立ち会っている。

 この頃、このアソークの交差点一帯はまだ高いビルは建っておらず、郊外の風情を残していた。

「サワディーカップ(こんにちは)。ラチャマイ・クンラワニットさんの娘さんとお孫さんだと左右田君が言っていたが……」

 佐藤は、恒久がそれぞれを紹介し終えると、待ちかねたように聞いた。

 会話はタイ語で始まっている。

「カー(はい)。この写真の人をご存じとか……」

 プラニーが佐藤に写真を手渡した。

 佐藤は、その写真を見ながらプラニーの声を聴いた瞬間に、若く初々しい笑顔のラチャマイの顔が目に浮かんだ。よく見るとプラニーは、ラチャマイの面影を残しているように思えた。ラチャマイとナコンパトムで別れてから既に四十年以上も経っていて、彼女の顔を殆ど忘れかけていたが、プラニーを見た途端に彼女の顔の中からあの懐かしいラチャマイの顔が見え隠れしたのだ。

 渡された写真を裏返してみると、自分の書いた名前だ。名前の横にタイ語で自分の出身と所属と階級が追加されている。ラチャマイが書いたものであろう。万感胸に迫るものがありしばし物が言えなかった。ラチャマイが手に取っていた写真だ。そう思いながら佐藤は愛おしく写真を撫でた。

「――実を言うと、これは私が若かった頃の写真なんだ」

 ようやく呟くように言った。

 プラニーとナリサは、佐藤が何を言い出したのか分からないと言った顔で、じっと見つめている。

 佐藤は、角が擦り切れてまさにセピア色になってしまった自分の写真を、相変わらず眺めたり裏を返したりしながら、思い切って言った。

「……実はね、ラチャマイさんと私とは昔、恋人同士だったんだよ。私はナコンパトムの病院の守備隊長をしていた時の事なんだ」

 二人はまだポカーンとしていた。

「これは、私がビルマに行く時にラチャマイに置いていった写真なんだ。彼女とはそれっきり会っていないんだよ」

「……」

 プラニーとナリサの二人は青ざめて声が無かった。次の言葉を待つ間、二人とも目を大きく見開き瞬き一つしなかった。

「実は、ビルマで負傷した上に、赤痢になってしまってね。一年ほどビルマのとある村で世話になっている間に戦争が終わってしまったんだ。

 戦争が終わってからは、警察に捕まって収容所に入れられたりするとラチャマイに会えなくなると思って、タイに戻ったものの、暫くチェンマイ郊外の農場に匿ってもらっていてね。今考えるとあの頃は、怪我や病気と敗戦のショックなのか精神的に少しおかしくて身動き出来なかったような気がするんだ。

 どうやらラチャマイはその間に、病気か何かで亡くなってしまったらしいね。少しほとぼりが冷めた頃を狙ってナコンパトムに行ってみたんだが、彼女を知っている人がいて、少し前に彼女は死んでしまったと言われたんだ。

 で、実家のあったワンウイチャイ村にも行ってみたんだけど、やはり亡くなったと言われてね。ラチャマイのお父さん、あっプラニーさんのお祖父さんになるね、お祖父さんは少し前に亡くなっていて、一緒に住んでいた妹さんは離れた村に嫁いで行ったと言っていたよ。

 誰も、子供がいたなどと言う話はしていなかった。だた、今でも感じるんだが、病院の人も実家のあった村の人達もなんかけんもほろろでね。厄介者でも来たという感じだったんだよ。自分は日本人だと言ったせいかなとも思っているんだけどね。

 日本人であることを明かしてしまったので、警察に通報されると危ないと思って、慌ててナコンパトムを離れてしまったんだよ。

 妹さんの所に行ったりすれば、子供がいたかどうか分かったかもしれないがね。その時は兎も角、ラチャマイの眠っているタイから離れがたくって、捕まって日本に送還されてしまうのが怖くてね」

 佐藤は一気に喋った。

 プラニーは、まだ状況がつかめていない風で、佐藤の顔をまじまじと見つめながら口を開いた。

「日本の兵隊から聞いたらしくて、父はビルマで亡くなったと母はおば達に言っていたようです。父が亡くなって、母は悲しみのあまり衰弱して亡くなってしまったと、叔母が言っていました。どういう事でしょう。この写真は私の父なのでしょうか?」

 プラニーは、あふれ出る涙を拭こうともせずに続けた。

「私が大人になってから叔母が話してくれたんですが、母が私を身ごもった時に、『彼とは、彼がビルマに発つ前の晩のたった一晩……だけだった。でもそれだけで子供が出来たと言う事は、二人がいかに愛し合っていたかと言う証拠だ』と良く母が言っていたそうです。で、これがあなたの写真と言う事は、私はあなたの娘と言いう事になってしまいます……」

 今度は、佐藤が絶句する番であった。

《確かに自分がビルマに発つ前夜にラチャマイは自分の部屋に泊まっていった。その時だけだった。だが、その話は、自分とラチャマイしか知らない事だ》

 佐藤は、うん、うんと頷きながら、改めて二人を見た。

 プラニーとナリサは佐藤の次の言葉を待っていた。

 恒久は、あっけにとられ、茫然として三人を見比べていた。

 料理が何皿か既にテーブルに並べられていたが、手を付ける物は誰もいなかった。料理は冷めてしまうが、そんなことはとるに足らない問題だ。給仕の若い女性は、その場の張りつめた空気に居たたまれずに、料理を置くとすぐに出て行った。

「うん、プラニーさんの誕生日はいつですか?それと血液型は?」

「二四八八(タイの仏歴、西暦一九四五)年一月一五日です。血液型はO(オー)型です」

《「あの時」の子供であれば丁度翌年の一月ごろに生まれる計算で、自分もラチャマイも血液型はO型だ》

 佐藤は二人を凝視した。

《目の前の二人は、ラチャマイと自分との間に出来た子供とその孫である事は間違いないと思う。だが万が一違ったとしても彼らの父親と祖父と言う事で良いではないか。ともかく二人はラチャマイの子とその孫だ。ともかく二人は写真の佐藤を自分の父親であり祖父であると確信している。そして、この写真の佐藤は間違いなくこの自分だ》

 佐藤は、大きく息を吸い、「うん、うん」と頷きながら、「プラニーさんと言ったね、私はあなたの父親だと思う。ナリサさんにとっては『おじいちゃん』だと、二人に同意を求めるようにまた頷きながら言った。

 佐藤は、ナリサは日本語が出来ると恒久から聞いていたので、「おじいちゃん」と言う所だけ日本語で言ったのだ。

 そして、あらためて二人を交互に見た佐藤は顔を引きつらせたかと思うと、声を上げて泣き始めた。うつむいて膝に乗せたこぶしにポタポタと大粒の涙を落とした。こぶしは固く握りしめられ、震えていた。これまで、胸を引き裂かれるような辛い気持ちを、酒や仕事に逃げ込んで何とか誤魔化して来たが、現実に我が子と孫を目の前にして、佐藤はついに感情を抑えきれなくなったのだ。何か言おうとしたが口はわなわな震え、声は詰まり、言葉にならなかった。積年の悲しみと無念の嗚咽であった。

「……」

 佐藤の激しい嗚咽を前にして、プラニーとナリサの目にみるみる涙が溢れ、声を上げてしゃくり上げた。

 恒久は、意外な展開に驚いたのか開いた口が塞がらない様子だ。

 プラニーはまだ言葉が出なかった。だが、少しすると佐藤の言っていることがやっと理解できたと見えて、頷きながらナリサの顔と佐藤の顔とを何度か見比べ、涙顔ながら遂に笑顔を見せた。

 佐藤はプラニーの笑顔を見て、長い間忘却の彼方にあった愛しいラチャマイの笑顔をはっきりと思い出す事が出来た。

「お父さんは死んだと思っていたわ。お母さんがそう言っていたって。だから母さんは死んじゃったのって。叔母さんがそう言っていたわ。でも……、生きていたのね。とても嬉しいわ。でも母さんが可愛そう。お父さんが亡くなったと聞いて、悲しみのあまり死んでしまったんだって」

 プラニーは、そう言ってナリサに寄りかかり、しゃくりあげてまた泣いた。ナリサはまだポカーンとしている。

「母には、マライと言うお姉さんとモンテワンと言う妹がいます。マライ伯母さんの方はバンコクにいて、モンテワン叔母さんの方はナコンパトムの郊外にいます。私は主にモンテワン叔母さんに育てられ たのですが、経済的にはマライ伯母さんも面倒見てくれていました。母はモンテワン叔母さんの所で亡くなったんだそうです。おば達もきっと、あの……クンポー(お父様)に、会いたがると思います」

 プラニーは少し落ち着いてきた様子である。

「今思えば、ラチャマイは三人姉妹だと言っていたよ。彼女が亡くなったって聞いてから、お姉さんや妹さんを探せば良かったんだが、何故だかそう言った気力も失せてしまってね。是非彼女たちにお会いしたいな」

 佐藤もかなり落ち着きを取り戻し、ごつごつした手の甲で涙を拭きながら言った。

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