四.四  タニヤ

 左右田恒久は茹でたた赤貝を殻から出して辛いナムチム(たれ)をつけて食べている。タリン・イアムスリーが左右田さんなら大丈夫としきりとけしかけるので、貝はアブナイかなと思いながらも一つ食べてみるとなかなか旨かった。

 大き目の貝は何となく生煮えの感じで「肝炎」が心配だったが、メコン・ウイスキーのソーダー割りが恒久の警戒感を麻痺させていた。もともと恒久は何でも食べる質(たち)であった。

 スクンビット通り沿いのタイと中華が混じった海鮮風レストランの入り口近くのテーブルで、恒久はタイ住井のタイ人の同僚のタリンと夕食をとっていた。

 外はかなり強く雨が降っており、時折風にあおられて雨が降りこんできている。入口は全面オープンで、柱に据え付けられた扇風機が首を振りながら、定期的に店の奥の調理場からの炒め物の匂いを運んできている。

「ところで左右田さん、あの新聞記事はどう思いますか?」

 タリンが、今朝の英字紙のバンコク・タイムズ紙の記事について恒久に尋ねた。その記事の見出しは「アジアにおける日本の侵略」と言うかなりセンセーショナルなもので、内容は一九八五年秋の「プラザ合意」による円高以降の日本の企業のアジアに対する直接投資の急増は経済侵略であり、日本が経済的にアジアを支配する為のものだと決め付けたものであった。

 週一度行われる工業団地グループの朝の定例会議でひとしきり話題となった件であった。この会議で、開発事業グループから助っ人に来ている安山は、まるで自分が批判されたかのごとく「そんなに我々に来て欲しくないなら、外資導入政策を変えて外資を締め出せば簡単だ」と顔を赤くして喚いた。

「それから、例えば日本人が土地を買い占めて怪しからんと言っているけど、もともと個人では買えないし、企業が事業用に買っているケースはあるけど、そんなに嫌なら法律で全く買えない様にすれば良いじゃないですか。

 非合法に買っている奴がいるのは確かに悪いし批判するのは良いけど、全く合法的に買っているのまで一緒くたにして、日本人はその内タイを全部買ってしまうかもなんて小学生であるまいし、全くふざけていますよ」

 安山は憤懣やる方ないと言った風でタリンの方を睨んだ。通常は日本語のできないタイ人スタッフが入るので会議は英語で行われるが、今日の定例会議にはタイ人スタッフの出席は日本語が出来るタリンだけであったので、安山はここぞとばかり日本語で日頃の鬱憤をタリンにぶつけた。

 基本的にタイ人スタッフは英語が出来る。日本語も英語もできないタイ人スタッフは年配のお茶汲みの女性と用務員だけであり、社用車の運転手は若干ながら英語が出来る者を雇っている。

 タリンが何か言いたげに唇を動かしかけたが、グループ・リーダーの瀬山が割って入った。

「我々にとって大事な事は、そういう批判の対象にならないように、またタイの為になっているんだということを身をもって示す事で、そうした批判に答えるしかないんじゃないかな」

「リーダーは何時もそういう格好の良い事を仰いますけど、例えば日本人商工会議所や大使館辺りで反論記事を出すとかしたらいいんですよ。大使館や会議所の幹部連中はいったい何を考えているんですかね。

 自分が正しいと思ったら、反論すべきはきちっと反論すれば良いじゃーないですか。私の知っている限り一度もしていないじゃないですか。ここは日本じゃないですから、日本人的不言実行だか、男は黙ってだかは通じませんよ。誠意を持って当たるのは確かに重要ですが、主張すべき所はきちっと主張すべきですよ。それに良い事をしたら格好つけずにちゃんと宣伝すべきですよ」

 今日の安山はよほど頭に来たのか、赤い顔でさらに続けた。

「だいたい経済援助だってタイに対しては日本からのが群を抜いて一番多いって言うのに、外務省だかの調査では、アメリカからが一番多いと思っている人のほうが多いそうじゃあないですか。こんなのは全くの誤解でしょ。

 だのに、謙譲の美徳だかなんだか知らないですけどね、要するにPRが下手って事なんじゃあないですか?ほら、あのラマ四世通りのベルギーから貰った「中古の」陸橋だって目立つ所にちゃーんと「タイ‐ベルギー友好橋」なんて書いてあるでしょう。

 日本はこの所、無償で毎年百二十から三十億円を供与していたり、有償では六百から七百億前後の資金協力をしているんです。借款とはいえ、例えばドンムアン空港や空港からの高速道路なんか日本の協力で出来たなんて誰も知らないじゃあないですか」

 こうなると全く安山の独り舞台であった。

「要するに主張すべきは主張すべきだし、宣伝するべき所は宣伝すべきなんですよ。黙っていたら誤解されるだけですよ!だいたい、日本が侵略だなんてアナクロも良いとこですよ。昔は確かに大東亜共栄圏なんて言っていた時代がありましたけどね。今は、経済的にでさえアジアを侵略しようとか支配しようとか誰も思っちゃあいませんよ。大体そんな事出来るはずもないですしね」

 安山は口角についた泡を、人差し指の背で拭いながらタリンの方を振り向いた。

「安山君、言いたい事は分かったよ。今日の所はこれぐらいにしておこう」

 瀬山が制した。放っておけば何時までも喋りかねない勢いであったし、いつものようにまたタリンに絡み始めかねない。安山は瀬山に止められて不満顔であったが、言いたい事を言えばあとはすっきりする性質であった。

 タリンが恒久に「記事の話をどう思うか」と聞いたのは、今日の定例会議での安山の話の事を言っているのである。明らかにタリンは反論したかったが、安山とやりあうと必ず、タイ人代表と日本人代表との対立の様相を呈してしまい、最後には必ず気まずい雰囲気になることは分かっていた。

「そんなに日本人が嫌いなら日本の企業に勤めている事自体が矛盾した行動だ」などと安山に苛められるのが落ちであった。


 恒久は帰り際に、タリンに「たまには飯でも食いに行きませんかね?」と誘われた時に、朝の会議の事だなと思った。タリンの方から恒久を誘う事はまず無かった。

 組織上タリンの方が先輩の立場であり年も十歳ほど上だが、日本からの駐在員と言う事で恒久に対して若干の遠慮のようなものがあり、複雑な関係となっている。だが、恒久に対しては、タイ語が出来ると言うこともあるが、かなり親しみは持っているようだ。

「安山さんの言っていた、日本の経済侵略の件ですか?僕も日本人は誰もアジアを侵略しようとか、支配しようとか思ってなんかいないと思いますよ。確かに、日本の企業はこの所すごい勢いで生産拠点を移してきていますよね。

 お陰でうちの工業団地も少しずつ埋まってきていますけどね。でも、タリンさんも知っているように、日本国内は人件費は高いし、人は集まらないし、新しい工場を作ろうと思っても土地は高いし、その上にこの急激な円高でしょう、で、タイなら何とかやって行けるのではと思ってきているんですよ」

 と、恒久は額から流れる汗と道路に一番近い席だったので、時々吹き込んでくる雨の滴を手で拭きながら言った。

「それは良く分かっていますよ。僕の妻は日本人で、僕が日本びいきなのは知っているでしょう?安山さんは何かあると僕の事をタイ人の代表のようにして非難するけど、僕はむしろ日本の味方に近いと思うんだけどねー」

 タリンはいかにも不愉快そうな顔で恒久を見た。

「確かに、安山さんは何時も言いすぎる所はあるけど、今日の彼の言い分は正しいと思うけど……」

「うん、確かに日本が国として東南アジアを経済的に侵略してやろうなどという計画や、政策は勿論ないと僕も思うけど、日本人の男性はタイに来てあたかも植民地に来てるかのごとく振舞ったりしてるんじゃーないですか……。勿論当時もタイは日本の植民地だったわけでは無いですけどね。でも無意識のうちに植民地にいるかのような態度は感心しませんね」

 タリンは相手が恒久であったので、やんわりと批判をした。

「うーん。飲み屋で横暴な態度とか、変に偉ぶった態度をとるような人が確かに中にはいますよね。そう言った人達の態度が、植民地扱いしていると映ってしまうという事はあると思いますよ。

 でも、殆どの人はただ飲んで日ごろの憂さを晴らしているか、日本からの客を接待しているかで、むしろタイの人達のほうが自虐的と言うか被害者意識的にそう思っているのではないかという気がしますがね。そう言えばタリンさん、タニヤのクラブに行った事ありますか?」

「いや、無いですけど……。タニヤは日本人しか入れないでしょう?第一もの凄く高いと言うじゃあありませんか」

「そう、それじゃー良かったらこれから一緒にタニヤに行ってみましょうか?私の行く所はそんなに高くはないですよ」

 恒久は、思い切ってタリンを誘ってみる事にした。


 日本人駐在員は、自分の会社のタイ人スタッフと一緒に食事に行ったりはするが、タニヤのクラブに行くのは稀である。確かに、タイ人向けのカラオケ・クラブと比べるとかなり高く、客としてはタイ人だけでは入れてもらえない。

 そんな所から、事情が良く分からないタイ人にして見れば、秘密めいている上に、自国の女が日本人に酒席でサービスをしているのがいたく自尊心を傷つけられるのである。ファラン(西洋人)であれば致し方なく感じるが、同じアジア人であるが故に癪の種であるのは理解出来ない事はない。

 ましては、彼等にして見れば買春ツアーなどはもってのほかであろう。最近は台湾、香港からの買春ツアーが増えてきており、バスを連ねての日本人のそうしたツアーはあまり見られなくなってきているようではある。

 他国にいるのであるから自粛は必要だが、日本人だけが聖人君主のように振舞えるわけでもない。タニヤでのクラブの遊び方は、恐らく日本人独特のものなのであろう。銀座でのクラブにカラオケを入れたようなものだ。

 八十年代の半ば以降、タイに日本の企業が増えてきているのは、マレーシアなどと比べ安い人件費と豊富な労働力、投資インセンティブなどの優れた投資環境が有るからだが、「夜」の投資環境も一役買っていると言う人もいる。

 タニヤに着くと、先程まで激しく降っていた雨はすっかり止んでいるが、屋根やといに溜まった雨水がまだ建物のあちこちから勢い良く流れ落ちている。気を付けて歩かないと、裏通りの道端のあちこちの水溜まりの中にある深い溝に落ちてしまう事があるからだ。

「サバイ サバーイ トゥークチャイ コォ コォプ カン パイ……(サバイ サバーイ 気が合ったら一緒に行こうよ……)」

 どこからか、人気歌手のトンチャイの「サバイ サバイ」と言う歌が聞こえてくる。サバイとはタイ語で「気持ちが良い」、「余裕」と言った意味で、この歌は「気楽に行こうよ」と言った意味合いの歌詞と軽快なリズムでこの所大流行し始めている。

 恒久とタリンの二人は、タニヤの外れにあるタイシルクで有名なジム・トンプソンの店に程近い「ジャスミン」と言う店に入った。

 この店は銀座のクラブとは程遠く、二階の店に上がる階段は湿気てカビ臭く、店の中はと言えば、祠にあげた線香や花数珠、酒、タバコ、ホステスの化粧品、嘔吐物、汗、食べ物、カビ、トイレ、消毒剤、消臭剤など全ての匂いが、擦り切れたソファーや絨毯、壁、天井などに長い年月の間に燻製のように染み込んで、何とも形容しがたい匂いで充満している。

 ソファーセットが四人掛けと六人掛けがそれぞれ三セットずつ設えてあり、二十人も入れば満員となってしまうが、通常は七,八人も入れば良い方だ。

 ホステスの入れ替わりが激しいタニヤ街の中では、ジャスミンは比較的ホステスの定着率が良い方だがその分年齢層はやや高い。と言ってもタニヤでゲー・レーオ(年寄り)と言われる二十三才ぐらいまでである。タニヤ街ではその歳以上はよほどの上客がついていない限り、会計係かチーママになどになるしかない。

 このジャスミンは、恒久が客を接待したり、たまに知人と吞みに来たりする時に使う店だ。新しくて清潔感あふれる店も勿論良いが、古びたこの店はバンコクの渾沌、猥雑、放縦、愉悦、悲惨、喧噪、などが凝縮しているような気がして、妙に感興をそそられるのである。

 店に入ると、五十才代ぐらいの管理職風の先客がカラオケで「愛の終着駅」を歌っていた。客はその人一人だけであった。

「いらっしゃいませーぇ」

 日本語で、入口近くの大柄で色黒の会計係がカラオケに負けずと大きな声で迎えると、奥の方に固まって座っていた五、六人のホステスが声が揃えるように「いらっしゃいませーぇ」と一様に語尾を上げた発音で合唱した。

 二人は先客と少し離れたカラオケの画面が良く見える位置に陣取った。この店にいつも一人で来るその先客とは時々会うことがあったが、彼も自分と同じにチーママのガイを「馴染み」にしていた。

 先に来た客にホステスが「つく」のである。通常ホステスは、一度ついた客が帰るまではその客についたままである。また、初めについた客は次以降「そのホステスの馴染み」となるのである。従って、原則、逆に他のホステスはその客に手を出すことが出来ないし、客の方もその店では他のホステスを席に呼ぶ事が出来ないのである。

 客の方は、その店で初会のホステスが気に食わなければ、ほかの店に行く必要がある。馴染み客が長くつかないホステスは、その原因を店のせいにしてほかの店に移っていく。

 だが、ガイはチーママなので、あちこちの客の席に行くし馴染みのその客と恒久の所にも来るのであった。だが、今夜はまだガイの姿は見えなかった。

 席について少しすると、背の低い痩せ形のホステスがお絞りとグラスに氷と水とを持って来て、跪きながら丁寧にワイ(合掌)をした。その後から、会計係がシーバスリーガルの瓶を二本ぶら下げながらやってきて、瓶を交互に上げて「どちら」と言う素振りをした。恒久はプライベート用の瓶を指差した。もう片方は接待用である。

「シーワス(シーバス)、ミズワリーィナカ(水割りですか)?」

 返事も聞かずにホステスは水割りを作りながら、「ガイさんは、ドウハン(同伴)だと思う」と、済まなそうな顔をした。

「オンナハ?ナンバンデスカ?」

 彼女は片言の日本語で奥に座っているホステスたちを指しながら、タリンに聞いた。ホステスたちはそれぞれ胸に丸い番号札を着けていた。そのホステスはタリンを日本人だと思っている様子が窺えた。タリンは中国系で肌の色はむしろ恒久よりも白かったし、二人が自然に日本語で話をしていたからであろう。

「あなたで良いよ。名前は何て言うの?」

 タリンは慣れた様子で目の前のホステスを指名した。

「アリガトウゴザイマス。ソムです。チョトマッテテネ」

 ホステスは嬉しそうに言って、奥の席に行ってタバコや財布の入っているポーチを持って来て恒久とタリンの間に座った。

 タリンが出張でバンコクに来ているのか駐在なのか、ソムがどこの出身かなどと初めて会った客とホステスのお決まりのような会話をしているうちに、ガイが同僚のホステスと中年の日本人二人と連れ立って談笑しながら入ってきた。

 ガイはチーママらしく、同伴という営業活動をして、客を上手く捕まえているようだ。

 ティーシャツとジーンズから、伝統的なタイ・スタイルの服に着替えたガイとホステスは、更衣室から出てくるとすぐに同伴客の席に座ったが、十分ほどするとガイは先に一人で来ていた客の所に挨拶に行き、少しして今度は恒久達の席に来た。

 ガイは、自分はチーママで年を取っているし、あちこちのテーブルに顔を出したりしなくてならないので、若いホステスにすれば良いと言っていた。だがガイがなかなか可愛かったこともあるが、実は接待をする際にチーママと懇意だと何かと融通が利いて便利だったからである。

 チーママは会社でいうと課長のようなもので、ママとホステスの間のいわば中間管理職で、ホステスを直接管理する立場にある。ホステスが嫌な客とデートするのを嫌がったりするのを脅したり、賺したりしながら説得して客について行かせるような役割もするのである。

 しかし、ガイはまだ二十歳でチーママには相当早い。気立てが良く、いたって気が利くからと言うのもあるが、それ以上にこの店で十六才からずっと働いており、日本人とかつて結婚をしていたことのあるタイ人のママさんの絶大な信頼を得ているからのようだ。ガイの二つ上の姉のプローイもこの店でホステスをしているが、気立ては良いもののやや気分屋でチーママには向いていないようだ。

 ガイは長く働いていた割にはあまり日本語が出来ない。だが、カラオケ・クラブでの仕事に支障のない程度は出来る。恐らく、ホステスの仕事が嫌でたまらないのであろう。従って、客の日本人もあまり好きではないようだ。従って、当然ながら仕事で必要な最低限の言葉しか覚えようとしないのであろう。

 だが、決して客の前でそうした素振りは見せない賢さを持っている。どうしてタニヤのホステスになったのか明らかではないが、なまじ可愛かったが故に「苦界」に紛れ込んでしまったのであろう。

 恒久が昨年日本でヒットした「思い出迷子」を歌たい、次にタリンがちょっと古いですがと言って四、五年前にヒットした「ルビーの指輪」を歌った。

 タリンがソムと言うホステスにもっと歌を歌うように言われて、日本の歌はルビーの指輪しか知らないと言うと、ソムに「えー、日本人なのに」と言われたのを機に、タリンは自分は日本人ではなくてタイ人である事をタイ語で白状した。

 しかしそれでも、ソムは「だって、ソーダーさんより色白だし、見た目もソーダーさんより日本人みたい。タイ語は上手だけど、ソーダーさんと同じぐらいだし、タイ人だなんて嘘だと思う。歌を歌いたくないから日本人じゃないって言っているんでしょう」と言って信じなかった。タリンは仕方なく免許証を見せて、やっとタイ人である事を分かってもらったのだ。

 店は、九時頃になるとほぼ満員御礼となり、年寄は演歌、若手は今風の歌謡曲の交歓が始まり、大盛況を呈していた。

 ウイスキーが回りすっかりご機嫌のタリンがぽつりと言った。

「なんか楽しい雰囲気ですね。タイ人向けのカラオケ・バーと比べると客はとてもお行儀が良いですね。ソムに聞いたんですけど、タニヤの他の店でも大体こんな感じで、特に殆どの駐在員はホステスに対しても一定の礼儀を保っているそうですね。勿論、たまにはひどく酔っ払って失礼な態度をとる人もいるけど、殆どは楽しく飲んで、歌って帰るって。なんか日本人はタニヤで酷い事をしていると言う想像ばかりが膨らんで、タイの女が次々と凌辱されている風景が目に浮かんでいたけど、妄想を膨らますのと実際にこうして見るのとでは随分違いますね」

 この時代、比較的お行儀が良い日本人客が多い印象で、タリンは植民地扱いと言うような疑心暗鬼的な考えは改めた様であったが、実際はタリンの言うほど優良な客ばかりではない事も事実であろう。

 タニヤ通りとその周辺の地区には、ジャスミンのような日本人相手の場末のカラオケ・クラブから恒久のような若手が行くには高すぎる高級なクラブまで、百軒以上がひしめきあっている。

 タニヤ街は、一九七〇年にシーロム通りとタニヤ通りの角にタニヤ・ビルが建てられ、その一階に東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)バンコク支店が入居し、その後は次々と日本企業が駐在員事務所や支店、現地法人をタニヤ・ビルに構えるようになった。そうした企業の日本人駐在員相手の食べ物屋や飲み屋が次々と出来、一大歓楽街が出来上がったのである。

 タニヤ通りは日本の「企業戦士」を相手にして発展してきたのに対し、そのタニヤに平行して走っている歓楽街の先輩格であるパッポンは、ベトナム戦争華やかなりし頃に米軍の帰休兵、すなわち「本物の戦士」相手に発展してきた通りである。

 このパッポン通りはサイゴン・スタイルと言うのか、オープンエアーのバーや思いっきり涼しげな格好をした若い女性たちがバーカウンターの上や舞台で踊るゴーゴー・バーなどが主流だ。

 この時代のパッポンは主にファラン(西洋人)相手の店が中心で、日本人はそれほど多くは見られなかった。また、夜になると忽然と現れる仮設の鉄パイブ組み立て式の、通りを埋め尽くす観光客向けの「ナイト・マーケット」は、まだ無かった。

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