三.五  ラジャダムリ

 ナリサ・ムンポットジャーンが、左右田恒久と初めて会ったのは、彼がリージェント・ハウスにあるジャストの事務所に訪ねてきた時の事だった。

『すみません。沢村さんいますか?』

 と、入り口の方から声がしたので、ナリサが振り向くと、やや大柄の若い男が立っていた。なかなか上手なタイ語であった。もしかしてタイ人?ナリサは、日本語で返事をしようかタイ語にしようか一瞬迷ったが、結局タイ語が口をついて出てきた。

『失礼ですが、お名前は?』

左右田そうだです。十時に沢村さんとアポイントがあります』

 男は名刺を差し出しながら丁寧にお辞儀をした。

 やはり、上手なタイ語である。

『はい、少しお待ちください』と言いながら、ナリサは奥の所長の沢村の方に向かった。 

 名刺にはソーダ・ツネヒサと漢字にタイ語がふってあり、日本人だと分かったが、タイ語と言い顔付きと言いタイ人と言ってもおかしくはなかった。

 これまでナリサが会った日本人の男性と言えば、殆んどが中年以上で、若い日本人は彼が初めてであった。彼は若いしその上ハンサムだ。その上、日本人なのに初対面の私ににこやかに話しかけてきたのだ。大体日本人は無表情で、無愛想だしあまりタイ語を話さないと言う印象であったが、彼の笑顔は人の警戒心を解く何かを持っているかのようだ。

 彼女は漠然と兄がいたとしたら彼みたいな感じなんだろうな、などと考えていた。

《そうだ笑顔が特徴的なのであだ名をクン・ジーム(笑顔さん)としちゃおうっと》

 ナリサは一人ほくそ笑んだ。

 ジャストのバンコク駐在員事務所は、ラジャダムリ通りにあるリージエント・ハウスの最上階の六階にある。リージェント・ハウスは、一階から三階は高級ブランド品、宝飾品、ブティック等の店が入っている高級ショッピング・モールになっている。四階から上が事務所スペースだ。恒久がいる住井ビルは数ブロック先だ。

 店にはかなりの高級品が並んでおり、タイで誰がこんなに高いものを買う人がいるのかと疑問に思うが、タイにはとてつもない金持ちがいるのだ。さしずめシーロムのマライ大伯母さんのご主人の家の人達みたいな大金持ちが来るのであろうとナリサは思った。

 ナリサにとっては一階のレストランも、高級品店もまったく手が届かない。自分の生きてきた世界とは余りにもかけ離れた世界で、現実味がなく、テレビでも見ているような感覚だ。

 このビルの正面から入ると、いかめしい格好をした警備員がいてドアを開けてくれるのだが、まずそれが大きな関門だ。彼だって階層的には似たり寄ったりだと思っても、自分は人にドアを開けて貰うような身分で無いので居心地が悪いし、お前の様な貧乏人が来る所ではないぞと言う顔で「ジロリ」睨まれる気がして、気後れしてしまうのだ。

 ドアを開けてくれる警備員に挨拶をしたものかどうか考える間もなく、入口に入って左手を見れば、宝飾店の飾り窓の中のダイヤモンドをちりばめた、大きな首飾りに圧倒される。中に入ると三階まで吹き抜けのきらびやかだが落ち着いたショッピング・モールが目の前にワーッとひらける。

 こんな素晴らしい所に自分の勤め先があるのだという嬉しさがないわけではないが、むしろ漠然とした恐怖心のほうが強かった。こんな良いことは、長続きするはずはない、いつかはガラガラと崩れてしまうのではないかと。

 もともと自分は田舎者で貧しい小作の家の出だ。自分がここまで這い上がって来ることが出来たのは家族たちのお陰で、自分の為に家族がどれだけ無理をして授業料を工面してくれていたのかは良く分かっている。特に三つ違いの姉は、中学を出てから直ぐに女工をして家計を助けていた。

 自分は家族みんなのおかげで外国企業のオフィスや高級ホテル・住宅などがポツポツとある、閑静なラジャダムリ通り沿いの日系企業の駐在員事務所の事務員となれたのだ。

 ナコンパトムの中学時代の友達の殆どは、姉と同じように工場勤めや、店員、農家の手伝いなどをしている。

 ナリサがジャストに勤めることが出来たのは、全く運が良かったとしか言いようがなかった。応募は、英字新聞のクルンテープ・ポストの日曜版の職員募集欄を見てだが、英語がある程度出来ること、と言うのが条件であった。英語には余り自信が無かったが、日本語であれば、中学時代からバンコクにある泰日経済技術交流会で勉強しており、自信があった。

 日本語が出来ると言うのは採用条件には無かったが、日系企業なので試しに受けてみようと思ったのだ。高校卒業間近で、たまたま英語の勉強にと英字紙の採用情報欄に目を通していたところ、「高卒以上、女子、給与月に五千バーツ(約三万二千円)、新設の日系企業駐在員事務所」と言うのがあった。

 この頃、円が高くなっているかららしいが、日本の企業がタイに大挙して押し寄せているようで、タイの新聞はこのままだとタイは日本の企業に乗っ取られてしまうなどと、煽っていた。ナリサは、祖父が日本人であり、そうした事もあって日本語の勉強をして来ていて、日本を身近に感じている事から、まさか日本がタイを乗っ取るなんて大袈裟だとは思っている。

 ジャスト以外にも、日系企業の採用試験を受けようとナリサは思って、幾つか候補を挙げていたが、ジャストの試験が一番早かったので、取り敢えずは練習の意味もかねて履歴書を送ってみた。履歴書提出の締め切りが過ぎて丁度一週間後に、筆記試験と面接の案内が来た。

 筆記試験は、タイ語での一般常識的な問題と、英文のタイ語訳の問題であった。一般常識は、日本に関する問題が多かったので結構出来た気がした。英文タイ語訳は難しい文章で出来ばえはあまり良くはなかった。

 面接は一人ずつ行われ、ナリサが日本語を勉強している事を履歴書に書いておいたためか、始めは英語であったが日本語に切り替えて行われた。面接官は、駐在員事務所長の沢村和明と、所長代理の華人系タイ人のピシットとで、ピシットは日本語が上手であった。

 英語があまり出来なかったので、きっと駄目だと思っていた所、所長代理のピシットから電話で、採用になったので手続きの為に事務所に来るように言われたのだ。まさかと思っていたのでそれは驚いた。母や姉は大喜びであった。

 どうやら書類での応募が二百人ほどで、面接に残ったのが三十人だったようなので、なんで自分が採用されたのか分からないが、自分の祖父が日本人である事と、祖父の名前をその他の欄に書いておいたせいかも知れないと思っている。それにしても、運が良かった。

 今思えば、事務所の裏手にあるそば屋さんでばったり恒久に出会ったのが本当にラッキーだったと思っている。あの時から彼とは一緒に食事に行くような間柄になったのだ。

 実を言うと、これまでナリサは家族の期待を一身に受けて、わき目も振らずに勉強に打ち込んできたので、男の人と付き合ったことが全く無かった。そういう意味では、一緒に食事に連れて行ってくれる恒久は、初めての男友達と言う事なのだろうか。

 彼と会った時に、なんと形容して良いか分からないが、「ドキドキ」するような気持ちがした。こんな気持ちになったのは、ナリサにとって初めての事だ。こういう気持ちって何なのか始めのうちナリサは理解できなかった。だが、時が経つにつれ、アッ!これって「恋」ってこと?と思うようになった。

 そう思うようになると、胸が締め付けられる様になるって聞いていたけど、そんな感じではない。でも、彼の事を考えると妙にワクワクする。

 ≪ジームさんは私の事をどう思っているんだろう、全く妹の様に扱われているような気がするけど……≫

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