[4] ケーニヒスベルク包囲戦

 第3白ロシア正面軍はベルリン攻勢を目前に控えた4月初旬、東プロイセンの古都ケーニヒスベルクに対する包囲戦を実施した。北方軍集団はケーニヒスベルク要塞を中心とした狭い地域に包囲され、その北翼はザムラント半島に追い詰められていた。東プロイセンを巡る最後の防衛戦はオーデル河から迫る脅威に劣らず、ベルリンの士気に影響した。

 第3白ロシア正面軍司令官ヴァシレフスキー元帥はケーニヒスベルク要塞を4個軍で南北から挟撃してこの古都を攻略することを企図した。また、ザムラント半島に対しても2個軍を投入することで包囲部隊の北翼を支援することが定められた。

 4月2日、第3白ロシア正面軍の砲兵部隊はケーニヒスベルクの中心部に向けて威嚇射撃を開始した。ドイツ軍が市内に建造したトーチカや防御施設を破壊するためだった。凄まじい砲撃が4日間に渡って続けられた。数千の兵士や市民が破壊された建物に生き埋めになった。使用可能な地下室はどこも負傷者で満杯になった。要塞司令官ラッシュ大将にはもはや望みがないことを悟った。

 4月6日、第11親衛軍は南から第43軍が北西から防衛線を突破して市街地に突入した。ドイツ軍守備隊の頑強な抵抗を排しながら着実に進撃を続け、この日の夕刻に第39軍がケーニヒスベルク=ピラウ間の鉄道を遮断することに成功する。

 4月8日、第11親衛軍は砲兵の強力な支援を受けて市内を流れるプレーゲル河を越えて第43軍と合流を果した。これによりケーニヒスベルク要塞守備隊はザムラント半島の第4軍と完全に切り離されてしまった。守備隊の主力は市の中心部と東部に後退した。

 第4軍に合流するために守備隊は包囲を突破しようと反撃を実施したが、この日の深夜に反撃は失敗に終わった。反撃発起点までの退路の多くは砲撃で塞がれた。現地のナチ指導部は市民に脱出準備のために集結せよと布告していた。この人だかりが第3白ロシア正面軍の砲兵の注意を引き、たちまち集団殺戮の修羅場と化した。

 4月9日、要塞守備隊は絶え間ない砲火と歩兵攻撃を受けてついに力尽きた。第3白ロシア正面軍は散り散りになった残兵の掃討を始めていた。生き残った市民は降伏を示すためにシーツを窓から垂らし、守備隊の兵士から銃を取り上げようとする者さえいた。

 ラッシュはいよいよ最期の時を覚悟した。本土からの救援の望みは全くなかった。避難民や市民にこれ以上、無益な苦しみを味わわせたくないと考えた。SSだけが戦闘継続を望んだが、その試みも無駄だった。

 4月10日の朝、ラッシュをはじめとするドイツ軍将校たちが軍使として第3白ロシア正面軍司令部に到着した。生き残った守備隊は捕虜として連行され、火砲2303門をはじめとする大量の兵器が鹵獲された。鹵獲された兵器の中には、ケーニヒスベルク港の入江に沈められた重巡洋艦「ザイドリッツ」もあった。煙や埃がたちこめる東プロイセンの首都をめぐり歩いた第3白ロシア正面軍兵士の1人はこう書いている。

「ビスマルクの銅像が交通整理中のソ連娘や、通過する赤軍車両、騎馬パトロール隊を片目で睨んでいた。頭の半分が砲弾で吹き飛ばされたのだ。『なぜロシア軍がここにいるんだ?誰が許したんだ?』と問いかけているように見えた」

 ナチ党は義務を遂行せぬ全ての者とその家族に対し、地位の上下を問わず加えられるべき報復を強調した。ケーニヒスベルクで防衛戦を指揮したラッシュは職務怠慢の廉で絞首刑を宣告され、その家族全員もナチの大義への反逆者の近親者を処罰する「家族共同責任」法によって逮捕されたという発表がなされた。

 東プロイセンを巡る独ソ両軍の激戦はようやく終了した。ケーニヒスベルク要塞の最終的排除(4月5日~9日)に続いて、ザムラント半島に残存するドイツ軍守備隊の掃討(4月13日~25日)が行われた。ケーニヒスベルクでは北方軍集団が戦死者4万2000人、9万2000人が捕虜になった。ザムラント半島では第4軍がフィッシャー・ハフとバルト海の間に広がる狭い砂洲に閉じ込められてしまい、5月8日に将兵2万2000人が降伏した。

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