[3] 動揺する首都

 ナチスの統治が始まって12年目のベルリンではパニックが広がっていた。東部地域からの難民は赤軍に捕まった人々の恐るべき運命について風聞を広めた。戦況について一番正確なニュースは鉄道従業員を通じて後方に漏れてきた。敵がどこまで進出したのか。鉄道関係者が参謀本部よりも早く情報を掴んでいることが多かった。

 首都から脱出する試みは慎重にやらねばならなかった。許可なくベルリンを離れるのは敵前逃亡に等しい。ゲッベルスがそう宣言したからだ。まず旅行許可が必要だが、首都の外で重要業務に従事するもっともらしい理由が求められる。実際に公用旅行でベルリンを出る人々は羨ましがる同僚たちに「戻って来ないで向こうに残れ」と忠告された。

 ベルリン防衛担当帝国委員と宣伝相を兼任するゲッベルスが精力的に総力戦を提唱していた。軍隊を訪問し、国民突撃隊のパレードを閲兵して長広舌をふるった。その一方で国民はヒトラーの姿を全く見ていなかった。ヒトラーはニュース映画からも姿を消していた。民衆が最後に声を聴いたのはナチス政権樹立12周年記念日のラジオ演説だった。

 1月30日、ヒトラーはドイツ国民に向けて最後のラジオ演説を行った。その声はすっかり張りを失い、全く別人のように聞こえた。死亡したとか拘禁されているという噂が飛び交った。ベルヒテスガーデンにいるのかベルリンの総統官邸にいるのか。それさえも発表されなかった。ゲッベルスが空襲罹災者を慰問して人気を集めていたが、ヒトラーは被害を受けた首都の視察すら拒否した。

 ヒトラー政権にとってナチスの権威は国民のいかなる苦しみよりも重要な問題だった。1945年1月のたった1か月で、国防軍は45万1742人の戦死者を出した。これは第二次世界大戦の全期間を通じて、アメリカ軍の全戦死者にほぼ匹敵する数字だった。第1白ロシア正面軍はオーデル河に達していたが、宣伝省は相変わらず戦闘は今もワルシャワ周辺で続いているかのごとく伝えていた。そのためソ連軍がオーデル河を渡って橋頭堡を築いたニュースは現地の民間人や兵士だけではなく、ベルリンをも震撼させた。

「スターリン門前にせまる!」ゲッベルスの報道官が2月1日の日記に記した。「恐怖の叫びが風のごとく第三帝国の首都をはせめぐっている」

 急ごしらえの寄せ集め部隊が次々と編成されていった。元になるのは「国民突撃隊」の地方分遣隊やカフカス地方出身者の志願兵部隊、ヒトラー・ユーゲント、十代の少年からなる1個訓練大隊などである。新たに編制されたSS師団はナチ政権成立12周年記念日にちなんで「一月三十日」師団と命名された。この師団はSS古参隊員が中核として配属されたが、その中には回復期の傷病兵が大勢いた。

 さらに前年7月にヒトラー暗殺未遂事件の鎮圧で名を挙げた「グロースドドイッチュラント」師団の警備連隊によるパレードが行われ、総統のためにオーデル橋頭堡を奪回すべしとの訓示があった。この部隊はベルリン市営バスの車両でゼーロウに送られた。オーデル河の氾濫原を見下ろすこの高地がベルリンの手前に築かれた最後の防衛線になる。

 ヒトラーと側近たちは自決の可能性を考え始めていた。ベルリン大管区本部は「政治指導者」には火器所持許可を優先的に与えよと指令した。ナチのある高級幹部は製薬会社を訪問して総統官邸用に毒薬の供給を要請した。自分たちが始めた戦争の脅威そのものがついに身近に迫ってきたことが影響していた。

 2月3日の朝、アメリカ第八空軍がこれまで最も激しい空襲を実施した。約3000人の市民が空襲の犠牲となった。総統官邸や総統秘書ボルマンが詰めるナチ党官房長公邸にも爆弾が命中した。プリンツ=アルブレヒト通りのゲシュタポ本部や人民裁判所なども大きな打撃を受けた。

「われら勝つべくして必ず勝つ」ゲッベルスは新しいスローガンを発表した。非ナチ派の人々はこのスローガンを冷笑し絶望を感じたが、大多数のドイツ人は相変わらず文句をつけようともしなかった。今や「最後の勝利」を信じるのは狂信者だけだが、多くの人々がまだ踏みとどまっていたのはそうする他にどうしようもないと思っていたからだった。

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