[3] 東プロイセンへの突進(前)

 モスクワの「最高司令部」による東プロイセン攻勢の構想とは、第3白ロシア正面軍と第2白ロシア正面軍を協同で突進させ、東プロイセンに展開する中央軍集団をポーランドから分離してバルト海岸に釘付けにするものだった。この後に続く作戦として、第3白ロシア正面軍は第1バルト正面軍(バグラミアン元帥)と協同して包囲されたドイツ軍を殲滅する。また第2白ロシア正面軍はダンツィヒの南でヴィスワ河に到達した後は、第1白ロシア正面軍と協同してヴィスワ河から東ポンメルンを経てオーデル河畔のシュテッティンまで進撃を続ける。

 中央軍集団は東プロイセンの戦域に第3装甲軍(ラウス上級大将)と第4軍(ホスバッハ大将)、第2軍(ヴァイス上級大将)に所属する42個師団を展開していた。ソ連軍との兵力比は兵員2・1対1、戦車/自走砲台数では5・5対1に達していた。

 1月13日、第3白ロシア正面軍がケーニヒスベルクに通じる道路上に置かれた中央軍集団の陣地を叩いた。しかしこの陣地は迂回するはずだったが、機動部隊として控置していた2個戦車軍団を投入せざるを得なくなった。そして第3白ロシア正面軍の南翼でも、東プロイセンに対する攻勢が開始された。

 1月14日、第2白ロシア正面軍がナレフ河にかかる2つの橋頭堡から第2軍の陣地をすばやく攻撃した。薄い積雪が地面を覆い、ナレフ河は凍結していた。まず第8機械化軍団と第1親衛戦車軍団、第8親衛戦車軍団が啓開を開始した。

 インステンブルクに敷かれた中央軍集団の防衛線は予想以上に堅牢だった。第2次世界大戦が開始される以前から、純然たるドイツ領である東プロイセンの防衛戦では、中央軍集団の各部隊が退却しつつ各地で頑強な抵抗を繰り広げた。一部では果敢に戦車を用いた反撃すら行われたのである。

 1月15日、約130両の戦車と突撃砲を装備した「大ドイツ」装甲擲弾兵師団(ローレンツ少将)は第2白ロシア正面軍の戦区で断続的な反撃を実施して第3軍(ゴルバトフ少将)の進撃を数日間に渡って食い止めることに成功した。そこで第3白ロシア正面軍司令官チェルニャホフスキー元帥は第11親衛軍(ガリツキー上級大将)に対していったん退いた後、3個軍の背後を回り、防備の手薄な北翼を攻撃せよと命じた。

 中央軍集団の反撃は成功したかに思えた。しかし陸軍総司令部はポーランド中部で拡大しつつある脅威(第1白ロシア正面軍)に対処するため、中央軍集団の装甲兵力である第1降下装甲師団「ヘルマン・ゲーリング」と「大ドイツ」装甲軍団を南方に向かうよう命じてしまった。この措置によって第3白ロシア正面軍は助けられることになる。

 1月16日、第5親衛戦車軍が第2白ロシア正面軍の後方からこの攻撃に加わった。中央軍集団唯一の機動予備である第7装甲師団は歩兵とともに即座に撃破されてしまい、急いで西方に退却を始めた。第5親衛戦車軍はグルジャガ付近のヴィスワ河の堤防とバルト海沿岸、マリエンブルク要塞の外周に対して楔を打ち込んだ。

 1月18日、第2白ロシア正面軍は第11親衛軍と第1戦車軍団を中央軍集団の北翼に投入する。インテンスブルクでは装甲兵力を奪われた脆弱な防衛線に間隙が出来てしまい、この陣地は簡単に崩壊してしまった。陣地の防衛に当たっていた国民突撃隊の各部隊はパニックに陥った。ティルジット付近では第43軍がニーマン河を渡り、新たな攻撃をしかけた。この機動は中央軍集団の後方地域に大混乱を引き起こした。東プロイセンを統括するナチ党幹部が一般住民の避難を禁じていたことが大きな理由だった。

 ソ連軍の戦車部隊によって中央軍集団の前線はズタズタに引き裂かれた。第23軍団と第27軍団は西方へ追いやられ、第2軍と第4軍は東プロイセンの南部に追い立てられた。中央軍集団の残存部隊はゆっくりとケーニヒスベルクとハイリゲンバイルの外周陣地に後退していった。

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