第6話

 煌びやかな王城の一室、優しい紅茶の香りが漂うお茶会で、私はかつてないほどの緊張と羞恥を覚えていた。


 仕立てたばかりの鮮やかな水色のドレスを、思わずぎゅっと握りしめる。皺になってしまわないか心配だけれども、そうせずにはいられぬほどの戸惑いを覚えていたのだ。


「オリヴィア、ほら、お前の好きな焼き菓子があるよ」


「……ありがとう、お兄様」


 殿下は私の腰を引き寄せるようにして、私の頭にご自身の頭をもたれ掛からせていた。片時も離れまいとするようにぴったりとくっつく殿下の温もりが、私には暑くて仕方がない。心臓はずっと早鐘を打ったままであるし、このまま死んでしまうのではないだろうか。赤く染まっているであろう頬を隠すために、軽く俯いてしまう。


 一週間は続く建国祭の前日、私と殿下は招待状を手に、ついに王城に訪れていた。滅多に顔を合わせない王室のご兄弟も、この前夜祭くらいは、と現在ご存命の王子様や王女様と、彼らのパートナーが一同に介しているお茶会に出席している次第なのだが、私と殿下はその中でも注目の的だった。


 『エルドレッド殿下は今も婚約者にオリヴィア姫の面影を見ている』。エディ様が第二王子殿下へ送ったのその報告を裏付けるため、殿下はこうして私をオリヴィア姫として扱っていた頃の演技をしているわけなのだが、とにかく距離が近くて心臓に悪い。オリヴィア姫を溺愛していたのだからこれくらい不思議はないのかもしれないが、少なくとも殿下が本当に私にオリヴィア姫を見ていた頃とは、比べ物にならないくらいの距離の近さだった。


 お茶会に参加している王女様や王子様方の視線に含まれている感情は様々だ。王太子殿下はいたたまれないとでもいうようにこちらを見つめていらっしゃるし、王女様たちは好奇や憐みの混じった視線を向けておられる。


 エルドレッド殿下がお目覚めになったことをご存知である唯一の王子様、レナード殿下はと言えば、初めこそ困惑したような表情で私たちを眺めていたが、何かわけがあるのだろうと察したのか、敢えて追求してくるような真似はなさらなかった。


 肝心の第二王子セドリック殿下はというと、もともと病弱なこともあり、本日も体調が優れないそうで、このお茶会には姿を現していない。とはいえ、第二王子殿下の手の者がどこにいるか分からないので、王城にいる間はエルドレッド殿下は演技をし通すつもりらしかった。


 他ならぬエディ様の身を守るためだ。私だって演技をすることには賛成なのだが、何分恥ずかしくて仕方がない。


 殿下に勧められるままに、砂糖がまぶされたクッキーを口に運び、小さく齧る。その間にも殿下は私の隣で幸せそうに微笑んでおられて、やっぱり落ち着かなかった。


 真っ白なテーブルクロスがかけられた、大きな長テーブルを囲んだお茶会だったが、特別会話があるわけでもなく、ひたすらに気まずい時間が流れていた。皆、ちらちらとお互いのことを視線で探ったりはするが、お喋りをするような雰囲気ではない。


 ぴったりと私に寄り添う殿下の温もりを感じながら、そっと皆さまの表情を窺ってみる。


 このお茶会の中でも一際目を引くのは、金の髪に鮮やかな青色の瞳をお持ちの王太子殿下だった。一番年長の兄上ということになるのだが、どこか落ち着かない素振りで、終始このお茶会の雰囲気に怯えているような様子だ。


 王太子殿下のお隣にいらっしゃるのは、殿下のご婚約者であらせられるナイセル公爵令嬢だ。艶やかな黒髪の美しい、品のあるご令嬢だった。彼女は怯えるような王太子殿下を一瞥しては、小さく溜息をついて優雅な仕草で紅茶を口に運んでいる。


 王太子殿下の向かいに座るのは、第一王女のジェーン姫と第二王女のパメラ姫だ。


 ジェーン王女は王太子殿下と同腹の正妃様の姫君なので、王太子殿下によく似た金髪と鮮やかな青い瞳をお持ちだ。おどおどとした様子の王太子殿下に明らかな苛立ちを滲ませながらも、じっと堪えるようにお茶菓子を黙々と口に運んでいた。


 パメラ様は今は亡き第三王子殿下の姉君で、ふわふわとしたチョコレートブラウンの髪がお可愛らしい方だった。滅多に社交界に姿を現さないことでも有名な姫君で、王女様だというのに驚くほど存在感が薄い。このお茶会も居心地が悪いのか、先ほどから視線を泳がせてばかりだ。


 私とエルドレッド殿下は王女様方の隣に座っており、私たちの向かいにはレナード殿下がいらっしゃる。


 燃えるような赤い前髪の左側だけを上げたレナード殿下は、ジャスティーナ城でお会いするときと違って、どこか色気のある装いだった。退屈そうに琥珀色の瞳を伏せては、時折溜息をついておられることからしても、このお茶会に参加させられているのは本意ではないのだろう。


 王室の王子様王女様方は仲がお悪いとは聞いていたが、ここまでとは思っていなかった。お茶会の席でも一言も交わさないほどだなんて。


 もっとも、この気まずさに戸惑っているのは私だけのようだった。唯一王族でないナイセル公爵令嬢も、涼し気な表情で紅茶を嗜んでおられるので、この雰囲気にはとっくに慣れてしまっているのだろう。


「お茶を飲んだら退室しようか。久しぶりに中庭でも散歩しよう、オリヴィア」


 気まずさに耐えかねている私に助け舟を出すように、エルドレッド殿下は微笑んだ。お茶会を途中で切り上げてしまっても良いものなのか判断しかねるが、殿下は長居する気はないようだった。


「……はい、お兄様」


 素直に頷けば、殿下は愛しくてたまらないとでも言うように私の髪を撫でる。演技だとは分かっているのだが、あまりの甘い笑みにやっぱり視線を逸らしてしまった。


「随分冷たいわね、エルドレッド。久しぶりに兄弟が顔を合わせたっていうのに」


 ここにきて初めて、第一王女のジェーン姫が苛立ったように口を開く。エルドレッド殿下は、淡い青の瞳をちらりと王女様の方へ向けたが、一瞬で興味を失ったようで、すぐに私の髪を梳く動作を再開した。


「兄弟? 僕が慈しんでいるのはこのオリヴィアだけですし……このお茶会はそう愉快なものでもありませんしね。さっさと退散したいと考えるのも当然でしょう」


「……あなた、本当にその子をオリヴィアだと思っているの?」


 怪訝そうな眼差しを向けるジェーン王女に、殿下は翳った瞳で意味ありげに微笑んだかと思うと、ぐい、と私を引き寄せて腕の中に閉じ込めた。


「義姉上も変な質問をなさいますね。彼女は僕の大切な大切なオリヴィアですよ」


 甘くとろけるような声でそう告げたかと思うと、殿下は私の肩にもたれかかるようにして、頭を乗せた。殿下の指先に銀色の髪が絡まる様子を見せつけるかのように私の髪を梳く動作はどこか妖艶で、お茶会の参加者が息を呑むのが分かる。


 私は私で、僅かに肩に加わる重みにびくりと身を震わせながら、恐る恐るジェーン王女の表情を窺った。


「見てられないわ……。否定しないあなたもあなたじゃない? このままいつまでも兄妹ごっこを続けるおつもり? あなた、このままじゃいつかエルドレッドのお人形さんにされちゃうわよ」


 睨むようにジェーン王女に見つめられてしまい、曖昧に微笑みながらも口を開こうとした。


「私は――」


「義姉上殿、彼女をエルドレッドの元へ連れてきたのは俺だ。彼女に絡むのは止めてくれ」


 ここまで沈黙を保っていたレナード殿下が溜息交じりにジェーン王女を諫める。ジェーン王女はそれが気に食わなかったのか、一瞬苛立つようにレナード殿下を睨んだが、やがて意味ありげにゆったりと微笑んで見せる。


「レナード、あなた随分その女の肩を持つじゃない。何? 惚れたの? 堅物のあなたが?」


「……セレスティア嬢はエルドレッドの婚約者だ。いくら何でも弟の婚約者に横恋慕するような真似はしない」


「好きなら奪っちゃえばいいのに。その子にとっても、このままあの陰鬱な城でお人形としてしまい込まれるよりは、あなたの妻になったほうがいくらかマシでしょうよ」


 ジェーン王女はまるでレナード殿下の言葉など届いていないと言わんばかりに、たきつけるようなことを仰った。そのやりとりを王太子殿下がどこかびくびくとしながら眺めている。


「……僕から彼女を奪うことは許さない。誰であっても」


 エルドレッド殿下は嫌に冷たい声でそう言い放ったかと思うと、一層私を抱きしめる力を強めた。少し息苦しいくらいだ。


「奪う? おかしなことを言うのね、エルドレッド。あなたの大事な大事なヴィアちゃんは、もうとっくのとうに死んじゃって――」


「ジェーンお義姉様! そんな風に仰るのは、あまりにもエルドレッドが憐れです!」


 居心地悪そうにやり取りを見守っていたパメラ王女が、意を決したと言わんばかりにジェーン王女を諫める。ジェーン王女はあからさまに不快そうに眉をしかめると、豪奢な飾りのついた扇子を開いて顔を隠す素振りを見せ、パメラ王女を一瞥した。


「あら、あなたいたの。相変わらず犬みたいな髪の色ね。エルドレッドのお人形の方がよっぽど姫君らしくってよ」


「っ……ひどい、ジェーンお義姉様……」


 一瞬で焦げ茶色の瞳に大粒の涙を滲ませるパメラ様を見て、静かに紅茶を嗜んでいたナイセル公爵令嬢がかちゃり、とティーカップを置いた。


「ジェーン王女、今の発言は王族として相応しいとは言い難いものだったかと」


「ああ、そう言えばあなたも地味な黒髪よね。でも、私を窘めるより先に、おどおどしてるみっともないお兄様をどうにかしてくださらない? それでもあなたの未来の夫なのよ」


「……王太子殿下は、お優しく穏やかなご気性であられる、というだけのことです」


「まあ、あなたにとってはその方が都合がいいのかしら? 意気地なしのお兄様が王になれば、王妃のあなたは何でも思うがままですものね」


「……一体何のことやら」


 ナイセル公爵令嬢は、ふっと微笑んで見せたが、いやに含みのある笑い方だった。その一方でパメラ王女はひとりぽろぽろと泣き出してしまっている。


 一言も交わさない静寂のお茶会に、ようやく会話が生まれたと思えばこれか。私はエルドレッド殿下に抱きしめられているだけで、殆ど眺めていただけだというのに、何だかどっと疲れてしまった。エルドレッド殿下がご兄弟に会いたがらない理由の一つを垣間見た気がする。


 せめて今もぽろぽろと涙を流しておられるパメラ王女を慰めて差し上げたくて、そっと窺うようにパメラ王女の顔を見つめながら口を開いた。


「あの、パメラ王女様、宜しければ、こちらを――」


 カトレアの刺繍が施された、絹のハンカチを差し出そうとしたのだが、パメラ王女はハンカチを見るなり、ぴしゃりと私の手を払いのけた。指先に僅かな痛みが走り、絹のハンカチがひらひらと床に落ちていく。


「っ……あなたに憐れまれる筋合いはありませんわ! あなたを見ていると、あの憎らしいオリヴィアを思い出してなりませんものっ……。お父様の寵愛を独り占めにした、あのオリヴィアをっ……」


「っ……ご無礼を。どうかお許し下さい、パメラ王女様」


 咄嗟に席を立ち、ドレスを摘まんで深く礼をするも、王女の機嫌を損ねてしまった罪は大きい。胃が痛くなるようなストレスを感じたが、ここはなるべく事を穏便に済まさなければ。


「っ……何をするんです、パメラ義姉上。彼女はあなたを心配しただけなのに」


 エルドレッド殿下もすかさず立ち上がり、私を背後から抱きしめると、労わるように私の指先に触れた。手を払いのけられたこと自体驚きはしたが、痛みが後を引くようなものではない。

 

「エルドレッド、あなたも可哀想に……。オリヴィアに狂わされてしまったのですね……。でも、その子をオリヴィアとして扱うことがあなたの幸せだと言うならば……いつまでもその夢の中に沈んでいるといいわ」

 

「――もういい、行くぞ、エルドレッド。セレスティア嬢。ここにいては埒が明かない」


 レナード殿下は席を立ったかと思うと、私とエルドレッド殿下の腕を引くようにして、扉の方へと歩き始めた。王太子殿下がおろおろとした様子で、遠ざかるレナード殿下と涙の名残を手の甲で拭うパメラ王女を見比べていたが、ついに一言も発することはなかった。

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