魔暮幻想遊戯団(マグレげんそうゆうぎだん)

湟耳みし丸

第1話 ◆ ロッシュの限界

◆ ロッシュの限界


すき て キモチ に 

キヅイタ アト


それから 

どうすれば いいんだろう?


「この距離というのは相対的なもので、この場合、どちらがどちらへ近づいたのか? という事は問題じゃあない」


(…螢袋(ほたるぶくろ)、青鬼灯(あおほおずき))


 汗で透けたシャツのそでをまくり、下がってきたリーゼントをかき上げながら、士朗(しろう)は大きく、白いチョークで黒板にふたつの円を描いてみせた。


「問題は、『破壊』されてしまうのはどちらか? という事だ」


 凪いだ夏の教室で、生徒の注意を惹きつけたいためか? それとも、強い太陽からの熱射に自らの意識を刈り取られまいとしてか?

 士朗はチョーク粉のついた指でフェイクの黒ぶち眼鏡をあげ直し、干上がった沼のように渇いた緑色の黒板へ、鉄棒豆のできた硬い手の平を叩きつけた。


 バンッ!! 


 暑さに逆らう最後の防波堤のように、かたくなにゆるめない細い革タイが首元で揺れた。


(花菖蒲(はなしょうぶ)、姫女苑(ひめじょおん)…)


 黒板に手をついたまま生徒たちを振り返ると、整然と並んだ机の反射が真昼の海のように士朗の目を灼いた。


 くっそ〜〜〜

 思わず声なき声で呻く。


 ざわざわと教室にさざめく波音は、最後の稚児舞(ちごまい)を迎える14才たちのぼやき、つぶやき、ささやき…


(百合(ゆり)、小紫(こむらさき)に悪茄子(わるなすび)…)


 夏の光に白く色を失ってゆく教室で、細い黒縁メガネの下に装着したコンタクトの奥の瞳まで焦点を失いかけたあわや、ふいに3階の教室へ突風が吹き込んだ。カーテンがたなびき、机の海の上を三角マストのシルエットが何艘ものヨットのように過(よぎ)った。膨らんだカーテンのすき間から夏の陽射しと帆船のような影が交互にゆき交い生徒たちの顔が通り過ぎる影の明滅に輝いたり沈んだりする中、ひと呼吸の静寂が教室に訪れた。


 はぁーーー……


 にじんだ汗が冷え、一瞬ほっとする。海原を撫でて来た風は潮の香りを教室へも運ぶ。潮風の入って来た窓へ額を向け、士朗は玉の汗をぬぐった。こうすると、首すじもちょっとだけ涼しい。

 教室の皆も風の来る方向へ顔を向ける中、舜(しゅん)だけは風が吹くずっと前から、授業も聞かずに窓の外へ目を向け続けていた。机のうらの冷たいスチールに片手を逃し、もう一方で頬杖をついている。

 ヨットの群れを煽った風に、舜の前髪も吹き上げられた。ふわっと立ち上がったはえぎわには、まだ赤ちゃんのような産毛がのこる。ビーズのような汗が、こめかみ、首すじを伝って白い襟に吸い込まれてゆく。

 となりの席の少女、風那(かざな)麻衣(まい)が、舜の机から転がったシャーペンを拾おうとして、ふいに香ったミルクのような匂いに動きをとめた。耳に少しだけかかるショートの髪型など、背格好のよく似たふたりだった。

 小さく夏の光を吸い込んで金色に光る汗の雫が、舜の首筋をつたっていくのを、麻衣はつい目で追った。


「宇宙は、バランスでできている!」

 ふいな風に少し救われ、なんとか意識をつないでおけた士朗が声を奮った。

 しかしクラス担任であり、麻衣にとっては体操部顧問でもある士朗の声は暑さにふやけ、生徒たちの耳には遠いようだった。舜の方を見ているおかげで、結果的にその髪をかけた耳をまっすぐ黒板に向けた姿勢になっている麻衣ですら、今はシャーペンを追いかけて降ろした左手をぶら下げたまま、士朗の声もなにも届かない様子になった。


「このふたつの間の距離が肝心なんだ。お互い存在さえ気づかないほど遠いのであれば何の影響も出ようがない…」

 舜が向けた目の先では、サッカーの授業が行われていた。

 目立つ赤毛の少年がひとり、ずばぬけたスピードで周囲を引き離し、あっという間にゴールへボールを蹴りこんだ。


(…でも、はずした)

 少年と彼のチームが、走ったままの勢いで、ひざから一斉に滑りこむようにしてひっくり返る姿が見えた。

「ぅあーーーーーーーーーーっ!」

 悔しがる彼らの声が遠く聞こえ、思わず舜が笑った。

 後頭部しか見えない麻衣に、その笑顔は見えない。

 ふと、

「イイヨ、ジブンデヒロウ」

 そんな声が聞こえた気がして、舜のすわる席に知らない少年が見えた。

「え?」

 瞳が金色をしている。

 思わずのばしていた腕を胸元へ引っ込めた。

(あれ?)

 舜の席に重なるように見えた金色の瞳の少年は、もういなかった。


「たとえば強引に」

 白いチョーク粉が、黒板に轢かれた文字の端々からところどころこぼれ、太陽風に吹き飛ばされた帚星の尾みたいに、かすれ落ちてゆく。

「ぐっと近づいてきたものがあったとしても」

 士朗は緑色の宇宙へ浮かべたふたつの円の一方へ、接近してゆく一本の白い軌道を描き込みながら生徒たちに語りかけた。

「やっぱり、その存在があまりにも小さなものであれば…このように大気圏で燃えつきてしまい本体には届かない」


(……紫御殿(むらさきごてん)、合歓(ねむ)、柘榴(ざくろ)…)


 赤いチョークで、白い軌跡の先端にぐるぐるを描き燃やしてしまうと、士朗は次に黄色いチョークへ持ち換えた。


(宵待草(よいまちぐさ)…月見草(つきみそう))


「また多少大きくて、大気圏を破った場合でも、本体衝突の際に粉々になってしまう。ただその一部が、うまく主星の軌道にのった場合、地球でいうところの月のような衛星となり、近づいた星の軌道上をいっしょに周回できるようになる事もある」

 一方の大きな円のそばに、士朗は黄色で小さな丸を描きこんだ。


「…せんせぇ?」


 とその時、士朗の背後から少し甘ったるい声が教室に響いた。


 この町ではあまり聞かれない、語尾上がりの柔らかな関西風イントネーションだ。


 振り返ると、影絵のような教室の中に、陶器のように白い少女の腕がまっすぐ上がっていた。教壇のすぐ前の席だ。


 月を映す夜の川のように長い髪、濡れた黒曜石のようなまんまるい黒目をまっすぐ士朗へ向け……


「なんだ? 篠月」

 声を上げたのは篠月(しのつき)真魚(まな)だ。

 舜が幼馴染みの声を聞いて、校庭で遊ばせていた魂を教室に戻した。

 麻衣は光を吸い込んだ舜の鳶色の瞳を隣の席からじっ、と見つめる格好になっているのに気づいて(はっ!)と我に返り、あわてて視線を黒板へ向け直した。

 せっかく吹いた一陣の風だったけれど、麻衣だけはドキドキとして、よけいに暑く火照っていた。ふいな海風が運んで来た潮の香りの中、麻衣の鼻にはミルクのような香りがいつまでも残った。

 真魚は士朗を見つめ(月は地球につかまってるん? それとも欠片(かけら)でもそばにいられて幸せなんかなぁ?)と、さっきまで、通学途中にある沼の草花を思い浮かべ退屈に数えていたのだけれど、ふいに聞こえた「月」という単語に反応して、そんな事を思った。

 でも、士朗を見つめながら口に出した言葉は、まったく別なものに変わっていた。


「せんせぇ…結婚してください。(…あれ?)」


 どっ! と、ウケる生徒たち。

 湧き起こる笑いと、え〜っ! と嬌声を上げ「私も!」「士朗ちゃん私と結婚して!」と次々に上がる女生徒たちの声に、士朗は氷の瞳と呼ばれる一瞥をくれ、

「あとでな」とだけ答えてそのまま授業を続けた。

「あとで、て。ほんまぁ?」

 いっしょに笑う真魚の声も生徒たちの爆笑の中に掻き消えた。

 からかい、というのか一種の挨拶なのか? 女生徒たちの間で、士朗にこういった声をかける事が流行っていた。士朗は決まって「あとでな」と返し、「どのくらいあと?」とまた聞かれると、「十年後」とか「百年後」などと答えて相手にしない。が、実は動揺が見えて、持ち上げたリーゼントをかき上げたり、コンタクトの上にフェイクでかけた黒ぶち眼鏡を直したりする姿が女生徒達には面白く、いつもクールでいたがる士朗の姿と相反して親しみが持てるのだった。


「えー『天体』には『引力』がある事を、みんなはもう知っているよな?」

 士朗はかまわず続けた。汗で貼り付いたシャツを背中から引き剥がしつつ、青いチョークに持ち替える。そしてふたつの円の間にそれぞれへ向かい立ち上がる山のような線を描き加えた。


「均等な距離を保ってはいても、その存在感がある一定を越える時…お互いがお互いを引き合う力で影響し合う。これが『潮汐作用(ちょうせきさよう)』だ」


 真魚がおとなしくなると、舜もあっという間に授業に関心がなくなり、また頬杖をついて、校庭を走る赤毛の少年を目で追い始めた。麻衣はとなりの席で、舜の瞳が見えなくなると、体からふっ、と緊張がほぐれてゆくのを感じていた。

「月の引力で、地球の満ち潮、引き潮が起こる事はみんなよく知っているな」

 海の近い学校だ。士朗の轢く青いチョークで立ち上がった潮の山波が、だんだんふたつの円の間で大きくなった。


「調和を保っていたこの距離が、互いの『引力』で海面を引っ張り合い影響し合う、お?」


 一瞬、士朗の目が泳いだのを見逃さなかった女生徒が、廊下を通り過ぎていった若い女性教師を指して声を飛ばした。

「士朗ちゃん、沙羅先生が好きなの?」

 ギ、キィイィイィイ…キキ、キキキキ…バキン! と、士朗の手にした青いチョークがコントロールを失いブレーキをかけたままフルスロットルで黒板上を暴走し折れた。

「紘川(ひろかわ)! 変な事言うな!」

「やん、『しのぶ』って呼んで♥」

 クラス委員長の紘川偲だ。うれしそうにポニーテールを揺らし士朗をからかう。このわかりやすさが女子に慕われる由縁でもあった。

(ぁあ! もおっ!)

 士朗は終業時間を気にしながら、進行を急いだ。

「いいかぁ! おまえらぁ!」

 ひゅーっ♪ 生徒たちから歓声が湧く。

「これが、潮汐作用だ!」

 赤いチョークと青いチョークを手に、士朗は2つの円の間にたくさんの波が持ち上がってゆく様子を次々と描き加えた。

「地球も人間も7割が水だ! 揺れ動く互いの海面を引っぱり合って、この距離がぐんと近づく!」

 イェーッ! と、なぜか教室は男子も女子も拍手喝采だ。

「そして互いの『引力』の影響で海が荒れ、ふたつの星同士自身の自己調整がお互い整えられなくなる!」

 みんな暑さを忘れるために逆にヒートアップしているのか? この士朗のキレ方を待っていました、と言わんばかりにノっていた。

「惑星の大きさによるものがでかい! と、言われる事もあるが、環境条件によっては小さい方が残る事もある! なんにしろ! その均衡を崩して、耐えられなくなった方がこう…」

 赤いチョークで、士朗は月を描かなかった方の円周にバクハツのギザギザを描きこんだ。

「バーン! だっ!」

 平手をまた黒板に叩き込んだところで、

 キーン コーン カーン コーン… と、終業のベルがちょうど鳴り響いた。士朗は教壇に立ちはじめてからここ数年、一度もこの終業ベルを超過した事がないのが一つのプライドで、生徒たちが思わず「おぉおーっ!」と拍手で終業を迎える理由の一つとなっていた。

「やったぁ! 次はプールだ♪」

 ベルと同時に、紘川(ひろかわ)偲(しのぶ)がポニーテールを揺らし、はじけた声で立ち上がった。伸ばしたひざに押し出されたイスの床をずる音が、潮変わりの波のざわめきのように教室を満たし樹霊(こだま)した。

「あ、いいなぁ」

 思わず士朗がつぶやくと、

「見に来ていいのよ♥ シローちゃん♪」

 偲が嬉しそうにからかった。

「いやーん♪ 士朗ちゃんのエッチ!」

 教室の女子たちがまた嬉しそうに笑うのへ 

「誰がおまえらの水着なんか見たいか! はい、日直ぅ!」

 と切り上げの合図をかけた。起立、礼と、波はてんでばらばらな揺れで慌ただしくひきはじめ、着替えを手にした生徒たちの心は、すでにプールへ飛び込んでいるかのような開放感で足早に教室から駆け出し始めた。

「廊下を走んなよぉ」

 黒板を消しながら士朗が出て行く生徒たちに声をかけた。


 真魚は、ちょっと不機嫌だ。

 冗談とはいえ、まったく相手にされていない感じが(あんまりなん、ちゃうん?)と不満だった。もちろん、本当に結婚する気はないのだけれど…


「さっきの風、台風来るんかなぁ?」

 真魚は仕返しに、士朗なんか無視しちゃうんだ、と思って誰ともなく話しかけた。

「あ、日蝕と重なっちゃうかも…?」

 士朗びいきの偲が、理科教師の楽しみを思いやって心配を口にした。

「夏神楽も危ないかなぁ?」

 麻衣の声は、クリスタルを銀の匙で叩いたようなとても澄んだ声だ。雑然とした教室の中でも、麻衣の声だけはとてもよく通る。照れて顔を見れない男子たちは、麻衣の声だけでも心を射抜かれて赤くなる者までいるくらい、声も美しい少女だった。実家の神社の心配をしながら、いや、本当は舜の事が頭からはなれるように、無理に別の心配をつくって、席に残る未練を切り離し立ち上がった。

落ちたシャーペンの事はすっかり忘れていた。

(あの子、ダレだったんだろう?)

 宮司の娘の影響か、別の理由からなのか? 時々、麻衣には人に見えないものが見える気がする時があった。

 イスをひきずる音が減ってゆき、大波がひいてゆくように、廊下へざわめきが流れてゆく。舜も、やっと立ち上がった。


「そういえば、サーカス来てんよな?」

「そうそう青いテント、城址の公園でなんか準備してたみたいだけど」

 吹き飛んじゃうんじゃないの? あっははは… と、そんな笑い声の飛沫が廊下に反響し、士朗の胸に、梅雨の冷たさが沁みるような感傷が一瞬思い起こされた。

(サーカスか……)

 ほとんどの生徒が出ていった教室の中、消し終えた黒板の前で士朗が少しだけぼぉっ、としていると、


「みんな、吹き飛んでしもたらええねん」


 そう言い残して出てゆく真魚の声が聞こえた。

 廊下をゆく真魚の長い髪が、夜の川の様に流れそよぐ。

 それを追い教室を出る舜は、どこか迷子の魚のようだった。

 華奢な舜の背中が士朗の目に映った時、

「?」

 コンタクトがズレたのか目がおかしいのか、一瞬、少年の背中がふたり分? 重なって見えた気がした。

 

 ざぁあぁあぁあ… と、

 校庭のポプラが大きな青い夏の葉を揺らし、これから来る風の大きさを報せていた。

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