第23話
「そっちに行きましたよ!」
木立の間を、大きな鹿が駆け抜けていく。首筋には、ぼんやりした光を放つ魔法の矢が突き立っているが、それをものともせず、獣は木々を避け、下生えを踏み越えて突き進む。
本能のまま走っているようだが、方向はヴァンネーネンによって誘導されている。その証拠に、向かう先の茂みの影からトールが立ち上がった。
一応少し手助けをしてやろう。均衡の魔法を逆転させる調節をして鹿にかけると、足並みは目に見えて鈍った。
魔法を逆転させる調節はそこそこ難しい部類に入るし、俺も使える魔法全部でできるわけではない。強力な魔法があまり扱えない分、こういった小技で手札を増やしているというわけだ。
そうこうしているうちに、トールはウオオオオだかヘアアアアだかいう雄叫びをあげて、鹿を殴り倒した。
「私たち、どうして鹿なんか狩ってるんでしょう」
「そりゃ金がないからだよ」
俺たちがシバラを探すためにルーランスンの森に入って、二日が経った。今のところ、森の奥を本格的に探索するための偵察と足がかりを作っている状態だ。
とりあえず鹿は最低限の血抜きだけして持ち帰ることにして、トールに手順を教えながら作業している。
「まあまあ……今日は宿に顔出すし、おみやげあった方がいいじゃん?」
「それはそうですけど」
トールの言葉にヴァンネーネンは渋々の様子で同意する。
『湖』を出発してからここまでの道中、食事はほとんど屋台か保存食で済ませていて、森での調達などはしないできた。
狩りや採集はどうしたって時間がかかるのだ。トールと出会ってからの旅は、比較的先を急ぐ件が続いたので仕方ない部分はある。まあそのせいで余計に金がないわけだが。
先日宿に顔を出した際には、叔母のテルミエルになんだかんだ物資を持たされ、しかも代金を受け取ってもらえなかった経緯がある。懐事情的には助かるが、流石に申し訳ないので、こうしてせめて狩の獲物を届けようというわけだ。
そもそも鹿の解体も、本格的にやるには道具が足らない。宿に持ち込めば道具は揃っているからフィンに頼むこともできるし、作業小屋を借りて俺がやってもいい。
ちなみに生き物の解体ははじめてだというトールは、血抜きの段階で既に青い顔になっていた。先は長そうだ。
前回と同じ手順を踏んで、日暮れ頃に宿の裏庭から台所を訪ねた。
「今日は客もいないし、あたしがやっておいてもいいわよ」
フィンは俺たちの持ち込んだ鹿を検分しながらあっさり言う。
「フィンさん、できるんですか?」
「死んだ父親が、この宿屋開く前は猟師だったのよ。子供の頃はジャスと一緒にずっと解体なんかの仕事手伝ってたからね」
「悪い、じゃあ頼んでいいか?トールに手伝いさせて、なんならちょっとやり方教えてやってくれよ」
「人使いが荒いわねえ。トール君だっけ?こういう経験は全然ないのね?」
「あっうん。よろしくお願いします……」
「ルルネもお手伝いする!いこ!トールくん!教えてあげる!」
「え、ルルネちゃんも?それって、その、いいの?」
ルルネに手を引っ張られたトールが助けを求めるような視線を向けてくる。
「大丈夫だよ。ていうかおまえより経験豊富な助手だぞ、ルルネは」
さすがに刃物を持たせたりはしないが、細かい作業の手伝いはもうさせている。宿では豚を購入したり、村の猟師から獲物を仕入れることもあるので、去年の冬には俺も何度か一緒に作業した。
「わ、わかった。がんばる」
「ふふふ、なんだか楽しいわね。私は燻煙の準備をしておくわね」
テルミエルとルルネに挟まれて、トールは作業小屋に引っ張られていった。
「まあなんとか仕込んでみるわ。力仕事は任せられそうだし」
フィンもそう言って三人の後を追う。
トールの方はこれでよし。フィンは叔父さんが死んでから、この宿屋をなんだかんだで立派に切り盛りしている。なんなら俺よりしっかりしているし、しばらく任せて大丈夫だろう。
「で、俺ときみだ、ヴァンネーネン。また隠蔽の魔法についてだが……」
「はいはい。そうくると思ってました。どうせ、酒場かどこかで聞き込みするのに、村人の印象に残らないようにしたいとか、そんなとこでしょう?」
「鋭い。大正解」
エルフ会議の際に、ルーランスンの森近辺の、ここを含むいくつかの村で昔から伝わっている『森の賢者』がシバラなのではないかという話があった。
『森の賢者』については俺もガキの頃に耳にしたことはあるが、お伽話としてだ。さほど興味を持って聞いていたわけではないので、もう一度詳細を調べる必要があるだろう。
「一応、あてもなく酒場に行くわけじゃないぞ。この村で一番の年嵩のじいさんは、生きてりゃ毎晩酒場に来てるはずだ。まずは昔の話を聴くべきだろ?」
「なるほど。理にかなっています。ただ、私の隠蔽の魔法でうまくいくかは、その酒場の状況とか話を聞く相手によりますよ」
「まずは行ってみよう。実は俺も、村にいても滅多に行かないんだ」
金がないからな。
酒場はそれなりに賑わっていた。
平屋の粗末な小屋ではあるのだが、前庭にも円卓と椅子が並べられている。まだ夜でもすごしやすい季節だからか、その十五くらいの客席はほとんど埋まっている。
小屋の外壁に据付けられた松明に照らされて、給仕の若者が陶製の杯やつまみの盛られた木皿を持って行き来するのが見えた。
俺とヴァンネーネンは、その様子を、通りを挟んだ向かい側から窺っている。納屋のそばに積まれた干し草の影にしゃがみ込んでしばらく待っていると、目的の人物がやって来た。
腰が曲がり、杖をついた小柄な老爺がゆっくりと酒場に向かっている。
「来た来た、ブレオンツ爺さんだ」
「かわいいおじいちゃん……」
「話すと別にかわいくねえぞ。基本酔っ払いだし。まあでもなんか、小さくなったな……頑固じじいなのは変わらんとは思うが」
俺がガキの頃から年寄りだった気がするんだが、一体幾つになるんだろう。
「よう、爺さん。調子はどうだい」
俺とヴァンネーネンは辛抱強く酒場を監視し続けた。小銭で安酒を飲んだり奢られたりつまみを若い奴にたかったり、ブレオンツ爺さんが存分に楽しんだのを見届けた。
そして今、近くの畑を横切って帰宅するつもりらしい爺さんに声をかけている。
もちろんヴァンネーネンははじめ、シラフの時に話した方がいいのではと言った。しかしこの爺さんに関しては、少なくとも俺はガキの頃を含めても酒の匂いをさせていないところを見たことがないので、正直いつ話しても変わらないと思う。
「なんだ?だれじゃ」
爺さんは、杖に引っ掛けてある角灯を持ち上げて、こちらをよく見ようとした。しかし誰かはわからなかったのだろう、首を傾げた。そもそも俺は声をかける前から、隠蔽の魔法をうっすら纏っているので当然だ。
「なんだ、俺の顔忘れちまったのか?そんなんで家まで帰れるのかい?送って行ってやろうか」
会話するのはガキの頃以来だが、普段から顔を合わせているかのように、馴れ馴れしく言ってやる。
「だれじゃったか……見たことあるやつだとは思うんだがのう」
ここ二十年は数年おきにしか帰ってきていないので、爺さんが俺を覚えていないのは予想通りだし、むしろそうでなくては困る。もっと言えば村の者でないことにも気づかれたくない。
隠蔽の魔法は、酔った頭で不自然に思わない程度に顔や声が曖昧になるよう調節してもらっている。朝には、話したことは覚えていても、相手については何もわからなくなってるはずだ。
爺さんの歩調に合わせて、麦畑をゆっくり進む。
酒場の喧騒はすでに遠い。今日は月が明るいので周囲は意外とはっきり見えるが、姿勢を低くしてあとをついて来ているヴァンネーネンが他の人族が寄ってこないよう警戒している。
まあこの時間になると、緊急の用件でもなければ、それこそ酒場に行く奴くらいしか出歩かない。街と違って出かけても夜の娯楽などないのだ。
「耄碌したのかのう……村の悪ガキどもは全部覚えとると思ってたんじゃが」
「酔っ払いなんだ、そんなもんだろ。それにもうガキって歳でもねえしな。なら昔話でもしながら帰ろうや」
一応、村に伝わるお伽噺に話題を寄せていきたい。
爺さんの家は歩けばそれなりに距離があるので、話題がとっ散らかるのにもさほど焦らず、根気よく雑談を続けた。
「粉屋のヤツがのう、この前ついに死におったじゃろ?」
「ん、ああ、そうだな。そうだそうだ」
もちろん俺は知らない。ただ、この場合の粉屋は、おそらく今の店主ではなくてその父親だろう。そういえばブレオンツ爺さんと同年代だったか。
「あいつはのう、ガキの頃から本当に嘘ばっかりつく奴で」
「へえー、あの爺さんがなあ」
「よう言ってたわ、親父が粉屋になる前は冒険者だっただの、竜を倒しただの。別の世界からやってきたなんてのも、お得意のホラ話でな」
「ふうん」
最後のやつは最近トール絡みで実際あり得ると知ってしまった身としては、死んだ粉屋の爺さんの嘘とは言い切れないかもしれない。
「まあガキの頃なんてそんなものだろ。与太話みたいなもんを本気で信じてたりな。……与太話といや、妙なのもあったよな、ほら森の奥で迷ったら出てくるっていう」
「『森の賢者』じゃ」
酔っ払い独特のふわふわと間延びした話し方をしていたブレオンツ爺さんが、やけにきっぱりと言い切った。
「あれはおる」
「……へえ?」
俺たちの世代では曖昧になっているお伽話の詳細を聞き出すくらいの予定でいたのだが、これは思わぬ収穫もあり得るか?
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