第14話

 ユイは日の沈む夕方の海を気分よく泳いでいました。

 自分の姿が朱色の太陽の光に照らされてその白い肌が染められる美しさを、ユイは得意に思いました。

 水面に映える自分にうっとりしながら、ユイはふと、この美しさを自分しか知らないのを残念に思いました。

 誰かに見てほしい、できればたくさんの魚たちに。

 そして称賛してほしい。

 夕日を浴びた人魚の娘は心熱くそう思いました。

 けれどユイの美しさはもう、海にいるどの魚も知っています。

 このままではつまらない、まだあたしのことを知らない誰かに今のあたしを見てもらいたい、そしてこの美しさに驚いてもらいたい……。

 そんなことを考えながら、ユイはだんだん薄暗くなってくる波間をふらふらと泳いでいました。

 いつの間にか夕日はすっかり海に沈み、水際の波のきらめきも静まって、海は黒々としていました。

 周りの夕闇が濃さを増すごとに自分の姿がほの白く浮かび上がってくるのにユイは気づいていませんでした。


 と、そのとき。


 夕闇に何か動いた、とユイが思ったのと、鋭い熱いものがそのなめらかなほほをえぐったのが同時でした。


「くそっ! やり損った! 

 大きい獲物だったのに!」


「人魚だったぞ! 

 あれは高く売れるんだ!」


 声と一緒にもう一本の尖った物がユイの脇腹をかすめました。


 人間です。

 船に乗った人間が、ユイに向かってモリを投げたのです。


「怖い!」


 ユイは慌てて水中に沈みました。

 焼けるような右ほおから、だらだらと血が流れています。

 熱いのか痛いのかわからないまま、ユイは傷跡に手を当てることもせず、必死で海の底を目指して泳ぎました。


「早く! 早く! 

 早く逃げなきゃ!」


 人間が到底潜れないような深さまできても、ユイはまだ泳ぎ続けました。


「もっと下へ、もっと深く、もっと底へ」


 …ようやく海底にたどり着いて、ユイはやっと一息つきました。


「…ああ、やっと着いた…。

 ここまでくれば、もう、安心だわ」


 そして何気なく自分のほほに手をやって、凍り付きました。

 

「顔が…!」


 ユイの手に触れたのは、あのみずみずしいすべすべしたほほではありませんでした。

 ずきずきと激しく痛むそこからは、まだたくさんの血が流れていました。

 恐る恐る顔に滑らせた手のひらは、そこに深くえぐられた肉があることを伝えていました。

 ユイの中から美しさが溶け出すように、指の間から血が海の水ににじんで辺りを赤く染めていきます。


「あたしの顔、どうなったの!?」


 ユイは半狂乱で自分を映すものを探しました。

 すれ違った魚が振り返って、そばにいる別の魚に何か言いました。

 泳いでいるどの魚も、ユイを見てぎょっとした顔をしました。

 ひそひそと魚たちが互いにかわす話し声がこぼれて、ユイの耳に届きました。


「あれは、人魚のユイじゃないか?」


「ひどいな。…あれじゃまるで化け物だよ」


「気の毒に。あんなにきれいだったのに…」


 ユイの右ほおには、無残にも決して再びふさがることのない、肉の引きちぎられた深い傷跡が残ったのです。

 

 ユイはそれからというもの、決して鏡を見なくなりました。

 家にこもって誰にも会わずに泣き続けたり、かと思うと、長い髪で顔を隠しながら外へ出かけて、お酒を浴びるほど飲んだりするようになりました。

 飲んでも飲んでも、美しい顔を喪った哀しみはいつまでも心に留まりました。

 それをどうにか忘れたくて、ユイはまるで挑むようにひたすらお酒を飲み続けました。

 そして正体もなく酔いつぶれては、家に帰る途中でどこででも眠り込んでしまうようになりました。



 

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