鯨の娘

紫堂文緒(旧・中村文音)

第1話

 ある南の海に母娘の鯨が棲んでおりました。娘の名前をルカと言いました。


 ルカの母は連れ合いを早くに亡くし、ルカをたったひとりで育てました。

 苦労して一生懸命ではありましたが、頼るもののない心細さからか、それとも元々備わった気質からか、いつも満たされないものを抱えていて、しかもそれを自分で埋めることができず、かといって既に持っているものに気づいて心足りることもなく、いつもその気持ちの欠けているところをルカのせいだと信じていました。


 ルカがもっと良い娘でないから自分は不運なんだ、ルカがまだまだ十分でないから自分は不幸なんだ、こんなに私が大変なのに、どうしてもっと次々と自分を喜ばせてくれないのか、どうしてもっともっと自分を満足させ続けてくれないのか。母鯨はいつも心からそう思ってルカにあたるのでした。

 

 けれどルカはルカなりにいつもとても頑張っていたのです。

 それでも母鯨は、いくらルカがこれ以上できないというほど頑張っても、できたこと、してあげたことを当たり前としか思わず、まだできないこと、やっていないこと、ほかの魚のほうが優れているところを次々に見つけ出しては、それをできるようになるよう要求して決してあきらめません。


 ルカも周りの魚の娘たちのように、自分のこともしたければ、休む時間も欲しかったのですが、ルカが悪いと頭から信じ込んでいる母鯨には通じず、何かを言おうものならますますひどく怒るばかりでしたので、ルカはいつも根負けして言われる通りに従うよりほかにありませんでした。

 ルカはいつもくたくたにくたびれていました。


 けれど、鯨の娘はいつも健やかで朗らかでした。

 自分の棲む南の海が大好きなルカは、海を愛し、海に暮らすことを楽しんでいました。


 ルカは知りませんでしたが、海もそんなルカを愛していました。

 たくさんの用を済ませた長い一日がようやく終わってルカが眠りにつくと、清らかな潮水がルカを包み、波が優しくその体を揺りました。

 ですので、どんなに疲れていても、どんなに辛いことがあっても、鯨の娘は夜はぐっすりと眠ることができて、その間に苦しみや悲しみは全て洗い流されてしまって、ルカは健やかな体と明るい心を取り戻して次の朝を迎えるのです。


 ルカは目覚めの海が好きでした。

 朝早い海は、泡の粒がそこいらじゅうにまぶしく光って、まるで細かな真珠をちりばめたよう。

 早起きの、色鮮やかな魚たちが、その中をすべるように泳いでいきます。


 ルカは景色でも生き物でも、美しいものは何でも好きでした。

 青い海よりもっと青いルリスズメダイが波の合間にちらちらと見え隠れするのも、白いサンゴの林を誰かの影が通り過ぎるのも、幾千万の銀色の波がよじれてちぢれるのも。

 普通の魚たちには醜く映るものも、ルカの目にはどこかしらが優れて見えるのです。

 みっともないと陰口をたたかれているオコゼや毒を持つカサゴさえ、ルカにとっては仲の良い友達でした。

 それらのものを愛し慈しむとき、ルカの心は温められてまあるくなりました。

 海にある何もかもがルカの気持ちをなごませてくれました。

 それでルカはいつも、明るく朗らかできれいな心を持った優しい娘でいられたのです。

 

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