第8話 新たな日々の始まり 1


 朝目覚めて窓を開け放つと、まるで昔見たターコイズのような鮮やかな青空が広がっていた。ところどころに薄っすらとかかかる薄雲の形が悠然と飛ぶワイバーンを想起させ、カトリーンは口の端を上げる。

 下に目を向けると早朝の大通りはまだシーンと静まり返っており、その誰もいない道路を新聞配達の青年が横切ってゆく。


「あっ。おはよう、ガリエット!」


 少しだけ落としたトーンでカトリーンが呼び掛けると、その新聞配達の青年──ガリエットは立ち止まって振り向く。そして、カトリーンの姿に気付くと片手を軽く上げて見せた。


「おはよう、カトリーン。今日も早いな」

「以前はもっと早かったって言ったでしょう?」

「そうだった」


 ガリエットが楽しそうにははっと笑ったのを見て、カトリーンは小走りに階段を駆け下りた。玄関を開けると、そこに立っていたガリエットに「はい」と新聞を差し出される。


「今日はなにか面白いニュースはある?」

「おめでたい大ニュースが発表されたよ。なんだと思う?」

「おめでたい大ニュース? 何かしら?」


 全く予想がつかず、カトリーンは首を傾げる。


「皇后陛下がご懐妊されたとか。もう安定期に入るらしいよ。それに、四天王のデニス様がご結婚されるらしい」

「まあ!」


 カトリーンは驚いて片手を口元に当てる。

 皇后陛下とは、カトリーンの故郷であるサジャール国の元王女殿下──リリアナ姫だ。王女殿下はまるで妖精のようだと謳われる美姫で、サジャール国にいるときも国民から絶大な人気を得ていた。


 その王女殿下──今は皇后陛下だけれども──がご懐妊! なんてめでたいことだろう! 


「ご懐妊ということは、皇帝陛下とは仲睦まじいのかしら?」

「よくわからないんだよね。ただ、仲が悪いという噂は聞いたことがないからいいんじゃないのかな」


 そこまで言ったガリエットは「なにせ、相手は『黒鋼の死神』だから情報が集まらない」と肩を竦める。


『黒鋼の死神』とは、ハイランダ帝国皇帝のベルンハルトの二つ名だ。常に黒い鋼の鎧で全身を覆い、さらには六年前のクーデター未遂事件の際に混乱に乗じて兄と母を殺害してその座に就いたとされているため、陰でそう呼ばれているらしい。


「ふうん」


 カトリーンは納得いかないように少しだけ口を尖らせた。


「ところで、『四天王』ってなに?」

「あれ? カトリーンはまだ知らなかったっけ? 四天王はね──」


 ガリエットはまだハイランダ帝国に来て一ヶ月程しか経っておらず、この国に詳しくないカトリーンに説明を始める。

 ガリエットによると、『四天王』とはここハイランダ帝国の皇帝ベルンハルトが特に重用する側近四人──宰相補佐のデニス様、国内貴族統制をとるカール様、軍を仕切る副将軍レオナルド様、外交トップのフリージ様──を指す言葉らしい。今回結婚するのはそのうちの一人、現宰相補佐のデニス様で、お相手は皇帝から下賜される側室で隣国の元王女だそうだ。


「まだ側室入りして半年しか経ってないのにね」

「半年?」


 ガリエットが漏らした台詞に、カトリーンは眉を寄せる。

 皇后であるリリアナを娶って半年程度しか経たないうちに新たな側室を娶り、挙句の果てにその側室をたった半年で下賜?


「…………」


 はっきり言おう。ゲスである。ゲスの極みだ。


 サジャール国の王女殿下であったリリアナが嫁いだとき、サジャール国では『国王夫婦に続き、姫君も運命の相手を見つけて結ばれることができた』と公にされ、それはそれは盛大に祝賀された。

 街に飾られるお祝いの花や飾り付けは一ヶ月にも及び、毎日祝福の魔法の花火が夜空を彩った。


 それなのに、実際にハイランダ帝国に来てみるとちっともそんな話は出ていなかった。逆に、皇帝陛下は『死神』の異名を持つ冷酷な男だという。


 愛し合うどころか、大切にされているかも怪しい。ひょっとすると、子供を産む道具のように扱われているかもしれない。


「運命の相手なんて、やっぱりいないのかしら……」


 遠路はるばるここまでやって来たけれど、やっぱりあんなものは夢見る乙女の幻想だったのではないか。そんな不安がこみ上げてくる。 


「え、なに?」

「あ、ううん。なんでもないの」


 怪訝な表情で聞き返してきたガリエットに、カトリーンは慌てた様子で両手を胸の前で振ったのだった。


 新聞を片手に家の中に戻ったカトリーンは、そのまま厨房に向かった。野菜を切って鍋でぐつぐつと煮詰め、最後に塩で味を調えようとしてハッとする。


「あら、危ない。砂糖だったわ」


 だいぶ慣れてきたけれど、それでもまだ一ヶ月。似たような小瓶が並んでいると、つい間違えそうになる。実はここに来た初日に持っていたクッキーも、塩と砂糖を入れ間違えていたことに自分で割れた残りものを食べてようやく気付いた。なんたる不覚だろうか。


 慌てて瓶を持ち替えたカトリーンは今度こそ塩を振って味を調えた。

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