第9話

 早春で、街にはぽつぽつとミモザの黄色い雲のような花が咲き始めている。ロウバイやウメ、スイセン、モクレン。かすかな花の甘い匂い。煉瓦敷きの道、タイルや石を使った集合住宅。暖かい日差し。きらきら光る公園の噴水。カリンのこけた頬に濃い陰ができる。これからうつくしい季節が始まるのに、わたしたちは死について話そうとしている。

 ヴァスィーレが昨日イリャーナに電話して、わたしたちは彼女の住むフラットに向かう。ばら色の煉瓦の建物。乗り手が運転する必要のある、黒い鋼鉄の籠でできたエレベーターで五階に上がる。カリンはなんどか来たことがあるという。イリャーナの子どもにまだ手がかかったころのことだ。ヴァスィーレもわたしも、入ったことがない家。ベルを鳴らす。黄土色の肌、白髪交じりの黒髪の、目尻の切れ上がった細身の男のひとが出てくる。シュンスケ、イリャーナの夫。中等学校の文学教師。つめたいひとのように見える。カリンを見てもほとんど表情を変えない。絨毯の敷かれた廊下から、サンルームに通される。ガラス張りで、日差しがたくさん入り、おおきな植木鉢がいくつも並んでいて、常緑の木やツタが生い茂っている。

 イリャーナがばたばたとやってくる。

 父さん。

 スカーフを着けていない。白いもののおおい亜麻色の髪をひっつめて、エプロンを着けたイリャーナが、介護カートに座ったカリンに抱きつく。

 ……痩せて。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、イリャーナがつぶやく。

 そう言うイリャーナもちいさくなったとわたしは思う。三年経って、自分がおおきくなったせいだと気づく。



 シュンスケがおおきなティーポットで四人分の紅茶を淹れる。それをちいさなテーブルに載せると、かれは出ていってしまう。

 静かな口調で、カリンが安楽死の話をする。隣に座ったヴァスィーレがときどき補足する。イリャーナはティータオルを引っ張ってそれで顔を覆う。絶え間なく彼女の顎に涙が伝う。わたしは彼女の隣に座る。彼女の肩に腕を回し、頬を彼女の首に押し当てる。わたしの顔も、彼女の涙で濡れる。

 ……わたしは父さんが菌糸まみれになるのを見ていなくちゃいけないということ?

 見たくないなら見なくてもいい。

 あなたの最期を看取るのが、わたしじゃなくて研究所の学者たちになるということ?

 ヴァスィーレやレットがいてくれるそうだ。

 だれが注射を?

 ……ヴァスィーレが。わたしが合図するか、医者がストレス度数をチェックして、頃合いをみる。

 ヴァスィーレに人殺しをさせるの?

 姉さん、おれはそうは思っていない。

 ヴァスィーレ! あなたはだいたい――

 イリャーナ。

 弟を責め立てようとする彼女を、カリンが一言でいさめる。

 ことの原因、意思をもつのはわたしだ。わたしが生き、わたしが死ぬ方法をわたしが決めた。それを首府が許し、わたしは培養株をもうすぐ手に入れる。

 イリャーナがタオルを取る。父親の顔をじっと見つめ、かれの全身をまじまじと見、急にわたしに抱きつき、わっと大声を上げて泣く。彼女のからだごしに、カリンがわたしを見る。かれが泣いているのを、わたしは初めて見る。



 ……すごく背が伸びたわね。

 瞼を泣きはらしたイリャーナが、帰りがけのわたしに言う。彼女の頭がわたしの胸ぐらいの高さだ。わたしはぎこちなく笑う。

 ちゃんと食べているの? 父さんにばかりかまけて、食事を抜いたりしていない?

 うん。カリンが食べているときはわたしも食べるようにしているから。おなかが空いていたら眠れないし。

 そう……。

 わたしの腕に触れ、イリャーナがわたしを納戸に連れて行く。ふたりきりになる、と気づいて、わたしは心臓がどきどきする。

 薄暗い電灯の、家具や本が積み重なった狭い空間に入り、イリャーナがささやくように言う。

 ごめんなさい。

 わたしは目をみひらく。

 なにが?

 わたしを見上げ、彼女は言う。

 なにも言わずに出ていって、なにも言わずに来なくなったでしょう。

 ……言わなくても、なにが言いたいかはわかったよ。

 いいえ、わかってないわ。わたしはね、うれしかったの。

 えっ?

 あなたにつよい気持ちを向けてもらえて、うれしかったの。でも、あのときはそう言うべきじゃないとわかっていた。だから言わなかった。あなたが、なにかをたいせつに思えるようになったのがすごくうれしかった。それが自分ならなおさらよ。わたしはあなたに応えることはできないけれど、あなたは自分の気持ちをたいせつにしてほしい。なにかがだいじだと思うことを、たいせつに持っていてほしい。それはわたしがどう思おうが、変わらないでいてほしい。対象は変わるだろうけれど、それがいつなのか、もう変わっているのか、わたしは知らない。でも――あなたは、この場所で、なにかがたいせつだと思い始めているのよ。

 わたしは……。

 うつむき、とっさに彼女の手をつかむ。

 あなたを憎んだ。わたしを拒んで、去ったあなたを。

 そうでしょうね。

 あなたの夫を殺したいと思った。

 そうでしょう。

 でも、わたしは――……カリンを送り出さないといけない。家を手入れして、最後までかれが心地よく暮らせるようにしないといけない。

 ……うん。

 でも、そのあとのことはなにも思いつかない。

 やりたいことはあるんでしょう?

 ……わからないよ……。

 大学に行きたいと言ってるって父さんが言ってたわ。

 それは……カリンが元気なときだよ。

 いまは? もっと知りたいということはある? もっと学びたいと思うことは?

 ……。

 父はあなたに、自分がたいせつにしていることを守って、のびのびと生きてほしいと思っているはずよ。

 イリャーナがわたしを抱きしめる。身になじんだ、彼女のやさしさが、わたしを温める。

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