「海の上で」 (12)

 「九州管区から連絡があった。岡田少尉は福岡空港から出ていた。シンガポール行きの便で」

 吉川から黄安徳の偽名で岡田が出国した事を冴子は知らされた。

 中国地方の空港に黄安徳の名前で搭乗したと言う報告が無かったので、各地の管区憲兵隊司令部に協力を要請していた。

 岡田は江田島沖で事件を起こし、宇品に戻った当日の内に福岡まで逃げて高飛びをしたのだ。

 後の捜査で広島駅で新幹線の切符を買う様子、博多駅を出る様子が防犯カメラに写っていた。

 帝国日本の平正においては、高速鉄道である新幹線が札幌から鹿児島まで開通している。

 佐々木に逃げる手助けをさせたとはいえ、なんと素早い奴だと冴子は悔やんだ。

 自分が動いていた時には手遅れだったのだから。

 「では、佐々木中尉の任務を終了させて拘留します」

 「そうだな」

 佐々木は冴子が用意したアパートの部屋で疑似逃亡生活をさせている。岡田から何らかの接触があるかもしれないからだ。

 だが、電話はあれから通じなくなった。おそらく捨てられたのであろう。それでも誰かが佐々木へ接触に来るのではと待たせているが誰も来ない。

 もはや佐々木を利用して岡田に接触できる見込みは無くなっていた。

 中国管区憲兵隊司令部には冴子が連行した白井と佐々木に海軍から引き渡された笹井が拘留されていた。

 当面は横領や武器弾薬の無断使用の罪で逮捕と起訴をする事になった。

 

 「中央と海軍を交えて話し合いがあった」

 数日して冴子は中国管区憲兵隊司令官である世良義範大佐に呼ばれた。 吉川に有川も同席している。

 世良の言う中央とは憲兵隊を統べる中央憲兵隊司令部の事だ。

 岡田の出国を確認する為に全国の管区憲兵隊へ要請した事で中央憲兵隊に報告しなければならなくなっていた。

 「話し合いの結果、今回の事件は中央憲兵隊・陸軍省軍務局・船舶司令部・呉鎮守府・海軍省軍務局で留める事になった」

 「それは事件は落着したと言う事ですか?」

 冴子は世良に尋ねる。

 「そうなる。岡田は一応は死んだ事になっているからな」

 岡田は生存を確認したが、生きていると公式に認めると事件の捜査を続けねばならない。

 それはより上の陸軍大臣や海軍大臣にまで報告をせねばならない。

 そうなると陸海軍の問題として事態を悪化させてしまうだろう。

 中央憲兵隊司令部と陸軍省軍務局は事件の幕引きを早くする為に岡田を死んだ事にすると決めたのだ。

 「岡田は見逃すんですか・・・」

 冴子は不満げに言う。

 「そう言うだろうと思っていた」

 世良は少し顔を緩める。

 「憲兵隊として見逃す事はしない、黄安徳を軍内に潜入していたスパイの容疑者として手配している。外地に逃げても現地の憲兵隊が捕まえるだろう」

 岡田としてではなく、偽名の黄安徳として追うことになる。

 「納得できんか?」

 吉川が冴子の様子を見て尋ねる。

 「不安があります。岡田は黄安徳からまた名前を変えて潜伏するでしょう。そうなれば捕まえるのは困難かと」

 「それは理解できる。だが、これしか方法がない」

 吉川は冴子を宥めるように言う。

 「分かりました。任せるしかありませんね」

 「うむ、それしかない」

 冴子は述べたい事を言い矛を収める。

 中央憲兵隊なら外地でも捜査に行けるが、担当地域に活動が限定される管区憲兵隊では何処でも捜査には行けない。

 そうなると、中国管区から出た岡田を冴子が追跡するのは不可能だ。

 だから冴子は不満でも納得しなければならない。

 「大尉、残念ですね」

 世良と吉川からの話を終えると有川が冴子に話しかける。

 「仕方ないわ。貴方から岡田が偽名でパスポートを買ったと言う情報を聞いてから、もう逃げられたと思ったもの」

 「そうでしたか」

 「私よりも貴方の方が悔しいんじゃない?宇品の件を以前から調べていたんだから」

 冴子が有川の心中を思う。

 「宇品の事は私は関わっていましたが、最近まで別の事件に集中していましたのでそこまで悔やんではいなのです」

 有川のあっさりした考えに冴子は面食らう。

 「それならいいけど」

 冴子は有川の割り切り方に驚いたが、感心もした。

 永遠に追跡ができないのだから割り切ってしまうしかない。有川の在り方が理想的なのだ。

 「大尉、憂さ晴らしなら付き合いますよ」

 有川が提案する。

 「ありがとう。丁度そうしたかったのよ」

 冴子は柔和な顔になる。

 冴子と有川は私服に着替えると流川へ向かうのだった。

 

 坂堂は呉海軍病院に来ていた。

 部下の高田中尉を見舞う為だ。

 岡田らに撃たれて重傷を負った高田中尉は意識を取り戻し、面会ができるまでに回復していた。

 「隊長、失敗してしまいまして、すみません」

 高田は坂堂に会うやベッドの上で頭を下げる。

 「謝らんでいい。結果としてこの事件は陸軍でも明るみになった。犯罪を止めたと言う意味では成功だよ」

 坂堂は高田に事件の顛末を話す。

 憲兵隊が捜査し、関係者を逮捕したこと。その関係者の一部を海軍警務隊が連行できた事、そして首謀者である岡田が外地へ逃亡した事を。

 「岡田を逃がしたか・・・」

 さすがに高田にはそれは無念であった。

 「多井と合田はどうなりました?」

 あの撃たれた時に内火艇で同乗していた同僚達を高田は案じた。

 「合田は無事だったが、多井は死んだよ」

 坂堂からそれを聞くと高田は布団を両手で握り「くそう・・・」と低い声で唸る。

 「陸軍の馬鹿どものせいで・・・」

 高田は呪詛のように言う。

 「高田、陸軍がと言うな。今回の件は陸軍憲兵がかなり動いてくれて、こちらにも気を遣ってくれたんだ。あまり悪く言うな」

 「しかしそもそもは陸軍が」

 「割り切れ、この件は岡田と言う個人と仲間が悪いのだ。陸軍がと言い出せば後々で仕事がやりづらいぞ」

 高田の仲間を失った悲しみと怒りで恨みの根が別の方向にも延びる前に、坂堂は断ち切るように言った。

 陸海軍のいがみ合い、確執は昔ほどではないが未だに根強い。

 ただの組織の違いのみならず、禍根でとなれば消えないだろう。そうなれば後に陸軍と共同で任務をする際には障害となる。

 それは当人も部隊にも悪影響でしかない。だから今の内にと坂堂は言い聞かせる。

 「隊長の言う事は分かります。ですが、すぐには無理です」

 「そうだな、すぐには無理だ。感情が落ちつかないだろう」

 坂堂は高田の心の傷が直るまでは陸軍への感情を割り切らせるのは無理なのは承知していた。

 「話は変わるが、お前は何故岡田に撃たれたのだ?」

 坂堂は事件について尋ねる。

 「無理なら、後日にするが」

 「大丈夫です。撃たれたのは俺が悪いんです」


 事件が起きたあの夜

 高田は内火艇で多井・合田と共に江田島の近くにある小黒神島の沖に来ていた。

 「我々が警務隊だとバレてなければ良いですが」

 多井は高田へ心配そうに言う。

 「心配するな、弱気になれば顔に出るぞ」

 高田は部下を叱咤する。

 「二時方向に小型船です」

 操舵している合田が報告する。

 「その船だな。その船に向かえ」

 内火艇は岡田が乗る連絡艇と合流する。

 「合い言葉を言え!金華山!」

 岡田は会うなり強い語気で求めた。

 「青葉山!どうだ?」

 「良し、話をしようじゃないか」

 合い言葉で確認を終えると高田と岡田は向かい合う。

 岡田の隣には高野が

 高田の隣には多井が

 二人づつが対峙する。

 「この取引は初めてだな。どうやるか分かるか?」

 「そこまで詳しい事は知らないのだが」

 「ああ、教えてやるよ」

 高田はあえて無知を装う。

 岡田から取引にかんする証言を引き出す為だ。

 高田の思惑を知ってか知らずか、岡田は取引の方法を教える。

 「ところで、そこにあるのは何だ?」

 岡田は説明を終えると内火艇のある箇所を指さす。

 「どこです?」

 高田はとぼけるが、内心は焦っていた。

 内火艇には岡田との取引を記録するカメラを取り付けていた。それは隠して撮影できるだけの穴を開けていた。

 それを悟られたのでは無いかと焦る。

 「アレだよ、アレ」

 岡田は再び指さす。そこは高田の背後だった。

 「アレですか・・・」

 高田は身が固まる思いになる。

 岡田が指した所こそ、隠しカメラのある場所だからだ。

 「気のせいかもしれんが、前に来た時はあんな出っ張りあったか?」

 岡田が指摘したのはカメラを隠すためにプラスチックの板で囲った箱状の部分だ。

 「さあ、この船の管理は管轄外なので」

 高田はとぼける。

 「なあ、少し開けてくれんか?気になる」

 「いやあ、壊すと私が怒られますから」

 「全部取り外せとは言わん、ここから見える部分だけでいい」

 「どうやって外すかが分からないので、時間がかかりますよ」

 高田は岡田に何とか諦めさせようとする。

 「おい、適当な事を言ってるんじゃないのか?」

 高野が苛立つように言った。

 「そんな事はない。こんな事よりも、取引を進めましょう」

 高田は宥めるが、高野は苛立ちが収まらない。

 「こうやって高野もイライラしている。俺も気分が良くない」

 岡田は目を険しくして言う。

 「すぐにアレを外すか、開けろ」

 命令口調で岡田は求める。

 「そんな・・・」

 高田は躊躇する。

 「見せられないのか?」

 岡田は躊躇する高田に詰め寄るように言う。

 不穏な間が生じる。

 岡田はじっと高田を見る。

 (失敗だ。ここまで疑われて、誤魔化しもできない)

 高田はこの接触は失敗したと判断した。

 「合田、出せ」

 高田は内火艇を発進させ、この場を離れる事にした。

 「おい、何処へ行く?」

 動き出した内火艇に高野が驚く。

 「そうするか・・・撃て!撃ち殺せ!」

 岡田はこの場を去ろうとする高田達に銃を向け、撃てと命じた。

 「多井!」

 岡田が放った拳銃の銃撃で多井は頭を打ち抜かれて倒れた。

 「くそ!」

 高田は甲板上に隠していた小銃を取り出すと、岡田達へ向けて撃ち返す。

 合田が速度を増して内火艇を進ませる。距離が開きつつあるが銃撃は続く。

 高田はそうした時に、左腕と腹部に銃撃を受けて倒れ出血の多さもあって意識を失った。

 

 「これが自分が覚えている事件当日の出来事です」

 高田は語り終える。その顔は暗い。多井を失ったこと、任務が失敗したことを改めて悔やんでいるのだ。

 「岡田は勘の鋭い人間だったんだ。相手が悪かった」

 坂堂は悔やむ高田にそう言葉をかけるしかできなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る