「海の上で」 (9)


 「少佐と佐々木中尉はどんな関係にあったのですか?」

 冴子は白井に佐々木とどう手を組んでいたのか尋ねる。

 「佐々木中尉は岡田少尉と組んでいた中では、一番下っ端で岡田少尉の使い走りだった。そんなに俺と何かをしていた事は無いな」

 「なるほど。少佐は甲田組と取引をしていたそうですが、価格交渉などを独自にしていたのですか?」

 「取引と言っても岡田少尉が決めた範囲で話し合っただけだ。あくまで岡田少尉の代理として出向いのさ。俺の意志で何かをした事は無い」

 「つまり岡田少尉の言う通りに従っただけと?」

 「その通り。岡田少尉に従えば収入があったからな」

 白井は海上勤務から外れて少佐としてのプライドを捨てたように思えた。

 「少佐は甲田組との取引の他はどのような事で岡田少尉に協力していましたか?」

 「業務隊が持つ連絡艇や車輌の使用許可に、業務隊として倉庫へ密輸品を資材や備品として置けるように手続きをしたりだな」

 佐々木も白井もそれぞれの持つ権限を岡田に利用されていたのだ。

 ここまで下剋上をやった岡田少尉を捕まえられない事を冴子は悔やんだ。


 一方、東広島市西条へ呉海軍警務隊の坂堂と倉田に五人の警務兵が到着した。笹井軍曹を逮捕する為だ。

 「中国管区憲兵隊の朽木軍曹です。呉警務隊ですね?」

 坂堂の前に緑の作業服を着た男が現れた。有川の部下である朽木だ。

 「呉警務隊捜査隊の隊長である坂堂少佐だ。御役目ご苦労」

 坂堂は朽木に敬礼する。

朽木が笹井軍曹を見張る為に電気工事をしている作業者に扮しているのが理解できたからだ。

「あのアパートの二〇三号室に笹井軍曹は居ます」

朽木は二階建てのアパートを指す。

「笹井軍曹の他は誰が居る?」

「笹井軍曹の彼女です。企業で事務をしている民間人です」

「民間人か。笹井軍曹が素直に応じてくれれば良いが」

坂堂は笹井が彼女を人質に取るなど最悪の事態を考える。

「少佐殿、彼女の方は出勤して部屋には居ません」

「それは本当か?」

「はい。ここに張り込んで見ていましたから」

朽木の答えに坂堂は決心した。


「倉田、笹井軍曹を迎えに行きなさい」

「はい」

坂堂は倉田に命じる。その倉田の顔は命じられて覇気が出ていた。

「呉海軍警務隊である、開けなさい!」

倉田は警務兵二人を伴いアパートの二階にある二〇三号室の玄関を叩く。

だが、返事は無い。

「笹井陸軍軍曹、居るのは分かっている出て来なさい!」

倉田は居留守をしているのかもしれない笹井を直に呼ぶ。

三度目の呼びかけをした時に二〇三号室のドアがゆっくり開いた。そこにはパジャマ姿の男が困った顔で立っていた。

「私は呉警務隊捜査隊の倉田中尉だ。笹井陸軍軍曹だな?」

倉田の質問に男は「いいえ、人違いでは?」と答えた。

(とぼけるな!)

倉田は心中で毒づく。海軍側の捜査で坂堂と倉田は岡田少尉のみならず、笹井軍曹の顔も分かっていた。だから倉田は目の前の男はパジャマ姿でも笹井軍曹だと分かった。

「隊長、部屋に居た男は自分が笹井軍曹である事を否定しています」

倉田は坂堂に無線で報告する。

無線は右肩にあるトランシーバーに繋がれて腰に小型無線機が腰のベストの中に納まっている。

「そうか、とぼけているか。では海軍警務法第八条三項でガサ入れをしろ」

坂堂は即座に命じる。

「ただ今から海軍警務法第八条三項に基づく強制捜査を行う!」

坂堂の命を受けて倉田は男を押しのけて二〇三号室に上がり込む。

「ちょっと、おい」

男は遠慮なく上がり込む倉田に慌てる。

倉田はさすがに軍靴を脱いで部屋に上がる。そしてリビングに入り、部屋全体を見渡してからリビングの隅にあるハンガーラックへ向かう。

かけられた服の束の右端にカーキ色の上着がある。倉田はそれをハンガーを持って引っ張り出す。

倉田はその上着のポケットを探り手帳のような物を取り出す。

「……」

何が起きているか分かった男は肩を落とした。

「やはりアナタは陸軍船舶部隊の笹井軍曹じゃないですか!」

倉田は手帳を広げて男に見せる。その手帳は軍隊手帳で名前と階級・所属部隊が書かれている。平正における軍隊手帳は本人の顔写真もあり、言い逃れはできない。

笹井はもはや逃れる術が無いと分かると「連行する前に軍服に着替えさせてくれ」と観念した。

「笹井陸軍軍曹、海軍将兵殺害の容疑で事情聴取の為、任意同行する」

着替えた笹井に倉田はそう言って連行する。

「逮捕では無いのか?」

笹井は拍子抜けした。

「海軍警務法では現行犯以外で陸軍将兵を逮捕できない」

倉田は苛立たし気に言う。

笹井の手には手錠が無く、警務兵に囲まれて手ぶらの状態で連行されている。

陸軍将兵の犯罪は陸軍で、海軍将兵の犯罪は海軍で、それぞれの軍法会議で裁く。この為に基本的に海軍警務隊が陸軍将兵を逮捕できるのは、警務隊の目の前で事件を起こている場合の現行犯逮捕しかできない。

この場合でも、すぐに陸軍憲兵隊へ身柄を引き渡す事になっている。

笹井は前後を警務兵に挟まれながらアパートの階段を降りる。倉田はその先を行く。

「ご苦労だったな」

坂堂が労う。

「いえ」

倉田が坂堂の労いに答えようとした時だった。

アパートの階段を下りて地上に足を着けた時だった。

笹井が走り出した。

「くそ、逃げるな!」

倉田は警務兵達と共に笹井を追う為に駆け出す。

西条は酒都と自称する酒蔵が立ち並ぶ街だ。酒造の街として江戸の頃から続くせいか狭い小道が西条駅周辺には幾つもある。

そんな小道に隠れようとするように笹井は入り込み、走り続ける。

「待て!待て!」

倉田の高い声が酒蔵の間に響くが笹井は止まらない。

この逃走劇を道行く人は驚いて見つめる。その中を笹井と倉田が駆け抜ける。

(どこまで逃げるんだ)

まだ走る笹井に倉田は焦りを感じる。

軍人であるから体力に自信が無い訳では無い。だが、土地勘が無い街で追い続けるのは何処で見失うか不安がある。

笹井は酒蔵通りから西条駅前の大通りに出ようとしていた。

そんな笹井の前に呉警務隊の七三式が停車する。笹井は驚いて立ち止まる。

「大人しくしろ、笹井軍曹!」

七三式から降りて来た坂堂が一喝する。

笹井は走った事で息を荒げたまま、力尽きたように膝を折り、四つん這いの格好になる。

そこへ倉田が辿り着く。

「倉田、笹井軍曹を逮捕だ」

坂堂が促す。

「笹井陸軍軍曹、海軍警務法に基づく任意同行中の逃走の現行犯で逮捕する」

倉田は息が整わないまま、四つん這いのまま息を整えている笹井の右腕を掴んで手錠をかけた。

「立て!」

手錠をかけるや倉田は笹井を無理矢理立たせる。笹井は汗を流しながら黙って従う。

「よくやった倉田」

坂堂は倉田の背中を叩き労う。まだ息が荒い倉田は細い声で「ありがとうございます」と応える。

(これで多井少尉の無念を少しは晴らせただろうか)

 倉田は笹井を引っ張りながら、同じ部隊の戦友を思った。

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