最終話 世界一の主人公

 十年後、1592年———


 劇場内は既にぎゅう詰めだった。人いきれの中、目当ての女性が手を振っているのに気付いたライラは、手を振り返して人をかき分けていく。


「前から三列目?こんないい席なんてすごい!」

「本当は最前列が良かったのだが、パトロンやお偉いさんたちの席みたいで」

 赤毛の髪を団子にまとめたアンが笑う。


「お偉いさんって…あっ、やっぱり! お久しぶりです」

 ライラの視線の先、最前列には長い白髭がトレードマークの緋色のウィリアムこと、バーリー卿ウィリアム・セシル貴族院議員が手を上げてくれた。その隣には女の子が二人、男の子が一人、足をぶらぶらさせながら手遊びをしている。


「スザンナ、ジュディス、ハムネット、ご挨拶をしなさい」

 アンに言われると、「こんにちはー!」と三人元気に声をそろえる。

「こんにちは。一番いい席に座らせてもらえて良かったね」


 アンと、ウィリアムの子供たちである。


 あの後、二人の間にはすぐ赤ちゃんができた。ちょっと慌てたみたいだが、互いに結婚したいと思っていたから結果オーライなんだそうだ。急いでウィリアムの故郷、ストラットフォード=アポン=エイヴォンで結婚式を挙げ、しばらくするとまたロンドンに戻り、ウィリアムは女王の密偵ではなく本当の宮廷大臣一座の劇団員として改めてスタートをきった。


「ライラの子供は?」

「うん、マシューを迎えに行ってもうすぐ来ると思うんだけど…あ、こっちこっち!」

 ライラが手を振った先には司祭服のマシューと、男の子を肩車したトニー。


「こんにちはマシュー、間に合ってよかった」

「リチャードが迎えに来てくれたから。ちょっと見ないうちに随分と背が伸びたなぁ」


「パパおーろーせー! ママがいいー!」

「痛て! 分かったから叩くなよ、いてっ」


 ライラが息子リチャードを抱く姿に、緋色のウィリアムがこの上なく嬉しそうに目尻にしわを寄せる。


 ガラス職人の見習いになったトニーは、親方であるライラの父から一人前と認められるまで求婚はしないと決めていた。けれどその間も一途にライラを想い、いつしかライラもそれに応えたいと思うようになった。結婚したのは四年前だ。


 それとちょうど時を同じくして、イングランドはアルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を撃破した。エリザベス女王のもと、海洋大国として覇権へと漕ぎ出したのである。


「あそこにいるの、ウィリアムじゃないか」

 マシューの指さした先、舞台下手の幕の間からひょっこり顔を出している。こっちに気付くと、小さく手を振った。子供たちも「おとうさーん、がんばれー!」と手を振り返す。


 アンによると、開演前はいつもああして観客の様子を見ながら、気持ちを落ち着けるのだという。制作だけでなく、彼自身も役者として出演するのだ。


 『ヘンリー六世 三部作』で人気を不動のものにしたウィリアム・シェイクスピア。今日は最新作の初演だ。

 タイトルは『リチャード三世』。


 醜く産まれついたヨーク公の三男リチャードが王冠を狙い、身内を殺し周囲を欺き、稀代の悪人として頂点へ昇りつめていく。しかし、自身の手で葬ってきた者たちの亡霊に死の夢を見せられて苦しみ、最後はランカスターのリッチモンド伯に討ち取られる、というストーリーだ。


 渇望したはずの頂点も彼に安息をもたらすものでは無く、リチャードの死際のセリフ「馬だ、馬をよこせ! それで王国をくれてやる!」は、あの時ライラに流れ込んできた彼の孤独そのものだった。最後に呼ぶのは家族でも、臣下の名でもでもなく、たった一人で———。


 そして馬で戦場を駆けた英雄王ヘンリー5世。「馬をよこせ」にリチャードが憧れていたその姿が垣間見えたのは、ウィリアムとライラたちだけが知る黄金の一粒だ。


 リチャードを善人にしなかったのもウィリアムらしいと思う。「悪人になってやろう」と自らの口で言わせながら、優雅で危うくて、そのセリフに捕らえられたら最後。誰にも愛されないという悲しみと愉快犯のような狂気の間に、冷酷で純粋な野心を持った、ほかに類を見ない世界一の主人公だ。


「でもリチャード本人が見たら、俺はこんなに悪党でも醜男でもないってへそ曲げそうじゃね?」

 と、帰り道にトニーが漏らすのでみんなで笑う。


 新進気鋭、押しも押されぬ人気劇作家になったウィリアムは、『ヘンリー六世』の「女の皮を被った虎の心め!」のセリフになぞらえて、「役者の皮を被った虎の心め!」なんて劇作家の間では嫉妬を込めて中傷されている。最高の劇作家になるという約束も、きっと近いうちに果たすだろう。


「けれど、宮廷大臣一座でヒット作を描き続けるのは途方もないプレッシャーみたいで、最近頭髪が薄くなってしまって」

 とアンが言うので、またみんなで笑う。


 いつの頃からか、ウィリアムはキャラが出せなくなり魔法が消えてしまった。しかしそれは作品の中にしっかり生きづいている。彼の劇を見ている間は、魔法の中にいるみたいなのだ。


 あの日、サザーク教会の屋根の上でロンドンで一番古い劇場を二人で眺めた。

 ———いつかあそこで上演したいんだ。

 その夢をウィリアムは叶えたのだ。


 そしてここに宮廷大臣一座の新しい劇場「グローブ座」を建てようという計画が持ち上がっている。二千人もの人を収容できる巨大な劇場になるらしい。


「嫌なことなんかぜんぶ忘れて、みんながあなたの船に乗って、楽しい夢を見てる。これこそ魔法だわ」

 物語の続きを見たい。今やライラたちだけでなく、イングランド中の人が待っている。


 その時、目の前にキラキラ光る星の雫が降って来た。

「パック!?」

 見回してもいない。当たり前だ、パックも魔法とともに失われてしまったのだから。


 けれどライラの耳にはパックの声がはっきりと聞こえた。

「友達ならどうぞ拍手をお贈りください。拍手のお礼は、このかわいいパックがちゃあんとするからね?」


 まだまだウィリアムの魔法からは抜け出せそうにない。

 リチャードが、ライラに抱っこされたまま手を伸ばして、手のひらに何かを掴もうとしている。


 見えたのだ。魔法の星の雫が。

 ライラは胸がいっぱいになり、リチャードをギュッと抱きしめてキスをした。


                                   <完>



※「馬だ、馬をよこせ! それで王国をくれてやる!」『リチャード三世』第五幕第四場リチャード

※「友達なら拍手をお贈りください。拍手のお礼はこのロビン(パックの本名)がちゃんといたしましょう」『夏の夜の夢』第五幕第一場パック

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