第五場 冷たい涙

 テーブルに置かれたカンタベリー大聖堂の神器の一つ、月の宝珠オーブ

「オレが盗んだ。それが国教会から追われる理由だ」

 さらっとしたトニーに対し、マシューは口をアワアワさせている。


「嘘を言うな!カンタベリーは60マイル(約100km)先だぞ!」

「知らないのか?大主教は今、ウェストミンスター寺院に来てるんだよ」

 ウェストミンスター寺院とは戴冠式などの王室行事が行われる、王家の菩提寺だ。


「大主教がロンドンに?一体何の目的で…」

「ちょい待ち。トニー君にタマを盗ませたのは、一体誰なのさ?」

 間に入ったウィリアムに、トニーは「ウィリアムだよ」と答える。フォールスタッフを含めた全員の視線を浴びて、ウィリアムは頭を掻いた。


「えーと、間違いなくおれじゃないんだけど、どちらのウィリアムさんですかね?」

「詳しいことは知らねえけど、ウィリアムって名乗ってた。赤い服着ててさ」


「ふーん、『緋色のウィリアム』ね」

 ウィリアムは顎に手を当て、それ以上は聞かなかった。何か思い当たる節でもあるのだろうか。


 その時、パックが戻ってきた。家の周りはやはり国教会の兵士らが張っているが、両親は無事だと言う。

「二人とも心配で落ち着かなそうだったよ」


 それを聞いて、ライラの胸がキューッとなる。無事で、今もこんなに帰りたいと思っているのを伝えたかった。


「きっと帰れるって。だから元気出せよ、かわいいパックがそばにいてやるからさ」

 パックはライラの肩にちょこんと座ると、小さな手で顔を撫で頬にキスしてくれる。ふわふわして滑らかな感触がとても心地良かった。

「ありがとパック」


「お嬢さん、また泣きたくなったらオレを呼ぶといい。お嬢さんの笑顔の為なら全裸で極寒のテムズ川に飛び込んだっていいぜ」

 と、キメたおじさんは全然かっこよくない。けれどライラは笑ってしまった。

 二人の姿がふっと消える。


 一方、宝珠オーブを見つめたマシューは、もう顔面蒼白だ。

 聖なる導き手と信じていた大主教が暗黒に取り込まれていたのだ。信仰はマシューにとって人生の全てなのだから無理もない。しかし冷静にトニーへ問うた。


「緋色のウィリアムはこの宝珠をどうするつもりなのだ?いつ受け渡すことになっている?」


「本当は盗んだ後に落ち合って、オレは金を受け取って終わるはずだったんだ。けど約束の場所にウィリアムは来なくて、代わりに国教会の奴らが待ち伏せてた。逃げる途中で傷を負って、ここに逃げ込んだんだ」


 マシューはウィリアムと視線を交わした。ウィリアムのオレンジ色の瞳が光る。

「敵の敵は味方かもしれないな。お前、そのタマまだウィリアムに渡すなよ」


「やだよ!オレはこんなのさっさと渡して金だけ受け取りたいんだ。巻き込むなよ!」

「おいおい、マシューを巻き込んだのはお前だろ?ここが襲撃されてマシューが死んだらお前のせいだからね」


「オレよりも先に巻き込んだのはお前の方だろーよ!」

 と言いながら、トニーのお腹がぐううぅーと鳴る。

「食べていきなさい」

 マシューに微笑まれては、トニーは頭を下げるしかない。


 それから教会は眠りについたが、ライラは両親のことが心配で何度も目が覚めてしまった。目を開けるともう外が白んでいるが、修道士たちはまだ働き出していない。

 ライラは誰にも気付かれないようそっと教会を抜け出すと、ロンドン橋へ向かった。


「お父さんとお母さんに、わたしは無事だから逃げてって伝えなきゃ」

 夜通し見張っていた国教会の兵士たちも、今なら疲れて油断しているかもしれない。一目会うだけなら——


 人気のない街には湿ったねばつく空気が漂い、進むごとに体にまとわりつくようだった。


 ロンドンは西の行政中心地ウェストミンスターと、東の商業中心地シティの二つの地区から発展した都市である。

 ライラの家はロンドン橋を渡ったシティの東の外れ、職人たちの住居が並ぶ街区だった。息を潜めてライラは裏口側から近づく。


 あと少し。周りに人はいない。やっぱり国教会の人もこの時間は寝てるのかな——

 そう思ったとき、背後で微かにした物音に反射的に振り返ると、男が腕を広げてまさにライラを絡め取ろうとするところだった。


「逃げたぞ!!」

 家の裏口扉に向かってダッシュする。しかしドアノブに手をかける前に、別の場所から飛び出してきた兵士に捕らえられてしまう。


「やめてっ!離して!!」

「危害は加えないからおとなしくしてくれ!」

 兵士の顔を見る余裕はなかったが、声は女性だった。


「イヤだ!お父さん!お母さあぁん!!ライラだよ!助けてえぇ!」

 女兵士の力は強く、がんじがらめにグイグイ引っ張られていく。それでも父と母に気付いてほしい一心で、呼ぶのはやめなかった。


 三度目か四度目だったろうか、勢いよく家の扉が開く。

「ライラ!!」


「お父さんっ!お母さんっっ!」

 ああ、間違いない、二人とも無事だった。安堵に胸がジンとする。これでもう大丈夫、お父さんが助けてくれる。


「ライラッ!ライラぁーーっ!」

 しかし、駆け出そうとする母の肩を両手で掴んで阻止したのは、父だった。母と顔を見合わせ、首を横に振る。


「え…お父さん、なんで。なんで助けてくれないの…」

 兵士に強引に引かれ、だんだん距離が開いていく。

「助けてよお父さん!なんで来てくれないの!?お母さああん!!」

 両親とも涙を流しながら、それでも動かなかった。


「なんで…どうして…いやだよこんなの」

 予想だにしない二人の行動に、ライラは動けなかった。もう何も考えられない。ただ、冷たい涙が頬を伝う。


 抵抗力を失った手足が縛られ、口には布を噛まされた。

 だがその時、戦士が現れる。装備と身なりがレトロな中世の戦士たちだ。

「来たな!娘は私が連れていく。相手は任せたぞ!」

「了解しました、ハサウェイ隊長!」


 ウィリアムが近くに来てくれているのだ。そう思うと手足が動いた。しかし女隊長の力は強く、ライラ一人の力ではびくともしない。


「こら、暴れるな。落としてしまうだろう」

 陸にうち上げられた魚がのたうつように、必死で抵抗する。


 すぐ近くでキン、と剣がぶつかる音がした。ぐいと首を捻って、見えたのはサラサラの金髪にキリっとした瞳の青年。一目見ただけでも品格を感じる。


「くっ…!」

 繰り出された剣を、女隊長はライラを片肩に担いだまま剣で受け止める。しかし2歩、3歩とバランスを崩し、ライラを地面に下ろした。多少痛かったが、それでも物のようにぶん投げられはしなかった。


 金髪の青年はウィリアムの魔法なのだろうか。美男なだけでなく強かった。女隊長が押されている。

 振り返ればあちらでは中世の騎士たち、こちらでは青年が、乾いた剣の音を響かせている。


 これは逃げなきゃ!なんとか足を縛る縄だけでも解こうと、足を前後左右不規則に動かしているうちに現れたのは、くせ毛を起きぬけのまま乱したウィリアムだ。

「切るからじっとして」


 手足と口が自由になると、また涙が溢れそうになってしまう。今は泣いてる場合じゃないのに!


 ウィリアムはライラの手を取って頷く。オレンジ色の瞳は何でも受け止めてくれるようだった。そして、

「フロリゼル!かましてやれ」

金髪の青年に言う。


 フロリゼル…彼のビジュアルぴったりの素敵な名前だ。

「あの人も魔法なの?」

「そうだよ。彼はボヘミア王国の王子でね。見てな」


 剣を交えながら、女隊長との距離が詰まった時、フロリゼルが口を開く。

「君とは剣ではなく手を取り合っていたいな」

 声まですごいカッコイイ…低いのにちょっと甘い声。


「ふぇ…?」

 女隊長の動きが鈍る。


「ねえ、ぼくは君のものになれないなら、父王の子でもないと覚悟を決めているよ。ぼくは将来をかけて運命と断固戦う」


 え、前段の文脈無くいきなり意味不明。だけどなんでだろう、彼のビジュアルと声で言われると、それだけで頭の芯がぼうっとして、知らずに顔がほころんで…。

 そっか!これも魔法なのね。危なくライラまで引っかかるところだった。


 女隊長の方はもれなく直撃したようだ。「き、貴様なにを…」と凄む顔が赤らんでいる。


「たとえボヘミア一国に代えても、ボヘミアでの落穂のごとき栄光に代えても、太陽が眺め、固く閉ざされた大地が孕み、深い大海が計り知れぬ海底に隠している一切のものと代えても、ぼくはこの美しい君に誓ったことは破らない」


「はあぁうっ!」

 クリティカルヒット!女隊長は足元おぼつかなくヨロヨロと後ろに下がる。


「行くよ」

 手を引かれて走り出す。ライラはもう一度家の方を見たかったが、ウィリアムがさせてくれなかった。




※フロリゼル

『冬物語』に登場。見た目も中身も文句なし、シェイクスピア作品中トップ3は確実なイケメンだが、アクが強いキャラたちに埋もれてしまっている残念なプリンス。


※『冬物語』

妻ハーマイオニに対し、激しい嫉妬妄想を抱くシチリア王レオンティーズ。親友のボヘミア王ポリクシニーズとの仲を疑い、妊娠中の妻を投獄してしまう。産まれた娘パーディタを不義の子と決めつけ、ボヘミアの海岸に捨てさせる。しかし息子マミリアスとハーマイオニの獄死を知らされ、激しく後悔する。

16年後、捨てられたパーディタは羊飼いの娘として美しく成長。ボヘミア王子フロリゼルと恋仲になるが、事情を知らぬ父王ポリクシニーズは身分違いだと激しく反対。途方に暮れた二人が向かった先は、すべての始まりであるシチリア王国だった。


見どころは、前半の出来事が後半でアイロニカルに現れるシェイクスピアの妙技。

どっどこに冬が?と二度見したところ、第二幕第一場でハーマイオニが息子マミリアスに「何か楽しいお話をしてちょうだい」と頼むと「冬には怪談がいいんだよね」と答える。ここか…

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