第三場 癒しの魔法

 雨が弱くなったので、暗くなる前に今夜過ごす場所を探すことになった。ロンドンの4月は雨が多く、天気が変わりやすい。歩き始めてほんの少しライラが目を離した間にパックはいなくなっていた。


「ロンドン橋に出たんだ…」

 テムズ川にかかる唯一の橋。どこをどう歩いてきたのかライラには不明だが、知っている場所に出られた。そしてウィリアムが叩いた扉はテムズ川南岸、イングランド国教会のサザーク教会である。


「国教会に追われてる奴が国教会に潜伏するとは思わないだろ?」

 ライラの両親、そしてライラもカトリックだ。


 ヨーロッパの歴史は王権と教皇権の争いと切っても切り離せず、イングランドも例外ではない。決定的になったのは今上きんじょうエリザベス女王の父、ヘンリー8世の時代だ。


 その後女王の治世下で1559年、イングランド国教会は正式にローマ・カトリック教会から分裂している。国教会は女王を首長としたが、エリザベスはカトリックに対しても寛容で、信仰の自由は認められていた。

 ライラは国教会の施設に入るのは初めてなのもあり、少し緊張した。


「どなたでしょう」

 裏口の小窓から顔を出したのは司祭だろう。

「訳あって追われています。一宿一飯の世話になるわけにはいきませんか」


 若い男女の組み合わせで追われているとなれば、駆け落ちだ。雨に濡れたライラの青白い顔に司祭は扉を開けようとしてから、二度見した。ウィリアムの顔をだ。

「…お前は国教会のお尋ね者、ウィリアム・シェイクスピアではないか。入れるわけにはいかん。去れ」


「ばれた?そこを何とかさ」

「無理だ。通報しないうちに去れ」

「女連れだぞ。雨の中放り出すのか?」

「関係ない。去れ」


 そう言いながらも、司祭の視線はライラに注がれている。最低限の慈悲深さは備えているようだ。

「わーったよ!じゃおれはいいから、彼女だけは入れてやってくれ。それなら文句ないよな」


 それ、人にもの頼んでる態度じゃなくない?

 司祭はライラだけを中に入れてくれた。ライラが振り返る途中でバタンと扉が閉められる。通されたのはここで働く者たちの食堂で、隣の調理場からはいい匂いがした。


「食事の支度ができるまでここで待ちなさい」

 司祭は乾いたタオルを渡してくれた。


「あのう、あの人、誘拐されそうになったわたしを助けてくれたんです。だから悪い人じゃないんです。どうして追われてるのかよく知りませんけど…。一晩だけでも入れてもらうことはできませんか。お願いします」

 ライラは頭を下げた。


「誘拐?ウィリアム・シェイクスピアが人助けだと?」

 いぶかしげな顔の司祭。


「奴は国教会から体の肉1ポンドを要求されている凶悪犯だぞ」

「肉1ポンド!?何それ!?切り取るってことですか?」

 肉1ポンドといえば煮込みにちょうど良い…ではなくて、そんな処刑方法は聞いたことがない。


「一体あの人の罪状は何なんですか?」

「それは…私も知らない」

「知らない?知らないで凶悪犯だなんて言ってるんですか?」

「そ、それは…」


 ライラに詰め寄られると、司祭は小さな目を泳がせる。それから扉の方に向かい、戻ってきた時は涼しい顔したウィリアムも一緒だった。どうやらこうなるのを予想して扉の前で待っていたらしい。


 おまけに、

「お前を助けた方が、物騒な誘拐犯に早く辿り着けるだろう」

と司祭は司祭でもっともらしい理由を付け加えた。


「期待を裏切るようだけど、ライラを連れ去ろうとしたのは国教会の兵士だよ」

「なんだと?そんなはずはないだろう」

「間違いないよ」


 追われ慣れてる人が言うと説得力がある。司祭にも通じたのだろう、それ以上の反論はしなかった。


「そんな…カンタベリー大主教は一体…」

 代わりに浮かんだのは、全財産を積んだ船が難破したと聞かされたかのような表情だった。


「大主教の妙な噂はおれも聞いたことあるよ。素知らぬふりして聖書を悪用する奴は弾ける笑顔の悪党だな」

 ロンドンから60マイル(約100キロ)東に位置するカンタベリー大聖堂はイングランド国教会の総本山で、大主教とはそのトップである。


「あんたも悪党かい?司祭殿?」

「…マシューだ。まだ司祭じゃない」


 食事の準備ができたので話は中断になり、共に祈りを捧げる。パンと粗末なスープだけだが、あのまま誘拐されていたら今頃どうなっていたか分からないのだから、素直に感謝した。神様と、ほんの少しだけウィリアムに。


「お父さんお母さん…大丈夫かな」

 お腹が温まったからか、また口に出てしまった。


 しかしダンダンダン!と裏口扉を叩く音に体を固くする。

「二人とも調理場の奥に隠れなさい」

 マシューは鋭く言い扉へ向かう。


「言う通りにしよう」

 ジャガイモ袋の陰に隠れて二人で息を殺す。すると何やら押し問答しているような声がする。


「国教会が来たのかな」

「…違うみたいだ。追われてるって言ってるぞ」

 しばらくしてマシューと現れたのは少年だった。左足を引きずっている。


「ここに座って」

 マシューは燭台を引き寄せて傷口を視認し、炎に手にかざして何か口の中でつぶやく。すると温かみのある光が炎から浮かんで、傷の上を覆った。

 10秒ほどで光はだんだん弱くなり、消えると傷口も塞がっている。


「すごい…!」

 修行を積んだ聖職者だけが使える癒しの魔法。間近で見たのは初めてだ。

 ウィリアムとマシュー。一日に2度も魔法を見られるなんて!


「助かったよ。あんたみたいに頭が柔らかい先生がいて、国教会も捨てたもんじゃないな」

「今日は褒め言葉に聞こえないな。二人とも出てきなさい」

 顔を見合わせて、ライラはウィリアムの後に続く。


「そこの二人も、そしてこのトニーも、国教会に追われているそうだ」

 はああと頭を抱えるマシュー。


「そうなん?」

「マジで?」

 男二人は同時に声に出した。


「なんだよ、国教会に追われてる奴が国教会にかくまわれる作戦、俺って天才だと思ったのになー」

 トニーの声は、声変わりしたての少し掠れたものだった。


「その言葉そっくりお返しするよ。で、なにやらかしたのさ」

「人に聞くんならまず自分から話すもんだろ。駆け落ちか?の割にはあんまし金持ち令嬢って感じじゃないな」


 ウィリアムの後ろにいるライラを顎で指した。

 さほど歳も変わらない初対面のくせに、いきなり野暮ったくて貧乏くさいですって?少しムッとする。


「理由なんて知らないわよ!いきなり誘拐されそうになったんだから。あんたたちと一緒にしないで!」

 トゲトゲしくライラが返しても、トニーは肩をすくめるだけだった。


「夢いっぱいの恋の逃避行と一緒にしないでほしいのはこっちの方だ。俺の罪状はデカすぎて言えねえよ」


「人の話聞きなさいよ、違うって言ってるでしょ!罪人がなにカッコつけてんのよ。大体なんでわたしが狙われなきゃならないの!?家族が危険な目に遭ってるかもしれないんだから!家に帰りたいよ…」


 感情が高ぶったからか、ボロボロ涙がこぼれてしまった。止めようと思っても全く引っ込んでくれない。


「あああ、泣くなよぉ。大丈夫だからさ」

 隣にいながらどうすることもできないウィリアム。バツが悪くなったトニーは顔をそらして頭を掻いている。マシューはオロオロするばかりだ。


「お母さあぁん…」

 本来なら今頃、母と一緒に牛肉の煮込みを作って、父の帰りを待つはずだったのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。


「パック!」

「ハーイ、本日二度目のイケメンパックだよ。ってえ、いきなり泣いてるとこに呼び出すなよ!」

 キラキラを振りまいてくれるパックには悪いが、状況は悪化するだけだ。嗚咽まで出てしまう。


「また家族の心配か?泣いても状況変わらないんだからさ。ため息で血を減らして心臓を冷やすよりさ、酒で肝臓をあっためた方がいいよ。元気出しなって」

「ぞんなごとわがっでるっでばあ!うわあぁぁん!」

 男どもが全員ドン引いているが、構っていられない。


「おいパック、ライラの家の方見て来てくれ。急げよ!」

「わわわかった!そだウィリアム、フォールスタッフ出せ」

 そう言い残して、一目散にパックは裏扉の小窓から逃げて行く。


「頼むよ大将!」

 ウィリアムが椅子に指を走らせ文字を描くと、パックの時とは比べ物にならない大きな煙の中に巨漢が現れた。




※『ヴェニスの商人』

ヴェニスとはイタリアのヴェネツィアのこと。親の遺産を使い果たしたボンクラのバッサーニオは、逆玉の輿を狙って富豪の娘ポーシャの婚約者選びに名乗りをあげる。その軍資金用立てを頼まれたのが親友で貿易商のアントニオ。しかしアントニオの全財産は現在船の上で、現金が手元に無い。二人はユダヤ人高利貸しのシャイロックに借入するが、彼が担保に要求したのがアントニオの肉1ポンドだった。

アントニオの船が難破し全財産を失ったと知ったシャイロックは、ユダヤ人の恨み思い知れとばかりに証文通りアントニオの肉1ポンドを要求する。ラストの人肉裁判とその後のポーシャのうっちゃりが見どころ。

シャイロックのキャラが立ちすぎているため、ヴェニスの商人=シャイロックと思われがちだが(乃木も高校生までそう思っていた)、貿易商アントニオの方。

当時はアントニオ、バッサーニオ、ポーシャらキリスト教徒による、ユダヤ人駆逐の#ざまぁ劇だったのだろう。


※「素知らぬふりして聖書を悪用する奴は弾ける笑顔の悪党だな」第一幕第三場 アントニオ

※「ため息で血を減らして心臓を冷やすよりさ、酒で肝臓をあっためた方がいいぜ」第一幕第一場 グラシアーノ(バッサーニオのマブダチ)

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