疲れた私と奇妙な休暇

鶫夜湖

第1話

 黒くて重いモノが私を押し潰してくる。止めて、分かっている。私が悪い、私が悪い! 分かっているから責めないで。そんな目で見ないで。私が全部悪いのは十分知っているから。



「着きましたよ」


 肩を軽く叩かれびくりと体が跳ねた。どうも眠っていたようだ。嫌な夢を見た気がする。

 ぼんやりとする頭で前を向けばメーターが見える。タクシーに乗ったのだった。


「ありがとうございます。えっと、いくらでしょうか?」


 なぜかメーターの数字がゼロになっているが、目的地に着いたからにはお金を払わないといけない。声をかけられた方を見れば、黒い髪を短めに揃えた目尻の下がったタクシーの運転手さんがいた。


「いいえ、お代はいりませんよ。さぁ降りて下さい」


 運転手さんに手を引かれてタクシーを降りる。車内で寝ていた私には外の風が少し寒い。


 後ろで彼が笑った気配がした。

 しかし私、加瀬梨伊那かせ りいなはそちらを見ることができなかった。目の前にある建物に目を奪われていたからだ。

 大きな、真っ白な家。お城のような外見だ。窓が光を受けて輝いていた。


 ふらふらと引き寄せられるように扉に手をかける。細工の施された焦げ茶の大きなそれは音もなく開いて私を迎え入れた。


「いってらっしゃいませ」


 閉まる扉の向こうからそう聞こえた気がした。




 入ってみればそこは無人だった。広いホールにぽつんと立つ。両脇に階段がありどちらにも赤い絨毯が敷かれている。明るすぎない少し暗めの赤。そこに窓からの光が当たっていた。ぼんやりと光の差し込む窓の外の緑を眺めていた。


 長い休暇を取ったので家ではなくて何処か日常を忘れられるところに滞在しようと思ったのだけれど。

 こんなところ、だったのか。ちょっと豪華すぎないだろうか?  ホールに吊られている明かりは硝子細工の美しい巨大なシャンデリア。シャンデリアは綺麗だけれど私は落ちてきたら怖いと思ってしまう。庶民め。地震でも来たらあんな繊細な硝子はきっと粉々になる。考えたくもない、掃除が大変だ。

 白が基調の柱は何だか細かく細工が入っているし、壁も真っ白なんだけれどパールがかっていて美しい。パール加工、お掃除の時に気を使いそう。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました加瀬様」


 余計なことを考えていたらいつの間にかクラシックスタイルのメイドさんが深々としたお辞儀をしていた。複雑に結われた黒い髪が印象的である。


「お荷物2階寝室にお運びしてあります。ご案内いたしましょうか?」


 荷物は寝ているうちに運んでくれていたようだ。すっかり存在を忘れていた。

 何でも揃っていそうで必要じゃない気もするけれど馴染みのものはまた別である。


「お願いします」

「かしこまりました。こちらです」


 静かに歩くメイドさんの後ろを歩く私は同じ絨毯の上を歩いているというのに何故か足音がした。

 部屋に着くまでの廊下にいくつもの大きな絵が飾ってあった。湖畔、戯れる子犬達、果物、教会。写実的なそれらからは温かい印象を受ける。あとでじっくり鑑賞しに来よう。


 教会の絵から目を離し突き当たりの壁が見えた。思わずぎゅっと胸元を握りしめた。

 この場に似つかわしくない絵がそこにあった。黒い、いえ、赤黒い絵。ただ一面を斑に塗られているそれから目を背けた。


「加瀬様? どうかなさいましたか?」


 はっと顔を上げる。何故こんな絵を飾っているのか、問おうと思ったが開いた口から音は出てこなかった。


「お疲れなのですね。まずはごゆっくりとお休みくださいませ。お部屋こちらでございます」


 示された木の扉には知っている小さな鳥が彫られていた。


「雀のお部屋でございます。似たような扉がいくつもございますが、全て違う物が彫り込んであります。良ければご覧になってくださいませ」


 まだ落ち着かないが頷いて返す。右側を見ることが出来ない。


「こちらカードキーです。ひとつしかございませんので無くしたりなさいませんように。ドアノブにこう、かざしてお使いください」


 カードキーをかざせばカチャリと音がした。差し出されたそれを受け取る。

 これにも愛らしいころりとしたスズメが描かれていた。


「では、私はこれで失礼いたします。何かあればお呼びくださいませ」


 すっと一礼してメイドさんは来た廊下を音もなく戻っていった。その姿を見つつ私は右側を見ないように部屋に入った。




 戸を閉めて絨毯を見つめた。規則的な模様の入った絨毯だ。桃色がメインで使われておりとてもかわいい。

 大きく息を吐き前を向く。天蓋の付いたベッドがあった。


「つかれた……」


 なにもしていないのにとても疲れている。

 おかしい。と、思うこともなくベッドに吸い込まれぐっすりと眠ってしまった。





 リリリリリリリ……


 この音は電話だ。鳴っている。出なくては。

 しかし起き上がることはできない。体が重く瞼も言うことを聞かない。

 でも、出なくては、動けない。体が動く気がしない。


 そうこうしているうちに鳴りやんだ。






 目が覚めて、鳴っていた音を思い出した。

 夢だったのだろうか今はもう電話は鳴っていない。

 外を見れば暗くなっていた。お腹も空いたので、顔を洗って整えてから下へ降りた。


「そういえば何処でご飯かしら」


 階段を降りて一番近い廊下を曲がった時だった。


「なんだ、今頃起きてきたのか?」

「悠真!」


 現地集合で待ち合わせていた夫が後ろで手を振っていた。


「電話してもらったんだけど出ないから寝てるんじゃないかって言われてさ。先に食べちゃった」

「えー! 起こしに来てほしかった。ご飯一緒に食べたかったのに」

「ごめんごめん。でも鍵がなくて開けられないらしくてさ」

「なにそれ。もう少しましな嘘ついてくださーい」

「いや、本当なんだって。マスターキーみたいなのは個室にはないんだって」

「なにそれ。……変じゃない?確かに鍵はひとつしかないと言われたけれど本当にひとつって」

「防犯だって言ってたよ」


 呑気な夫。いつもこう。疑わないというか。素直というか。


(頼りないわけじゃないんだけど、もう少し警戒してほしいというか。本当だとして無くしたらどうするんだろう。弁償かしら)


「食事こっちだったよ」


 行く先を指で示して彼は先導して歩いていった。その少し早い速度に遅れないようについていく。

 ホールに下がるシャンデリアは夜で張り切っている様で昼間よりも輝いてい見えた。


 付いた部屋には長い机。白いクロスが掛けられて等間隔に花瓶があった。


「加瀬様、こんばんは。只今食事をご用意しますね。お好きなお席にお座りください」


 座ったらすぐに食事が用意されていく。

 メインはステーキだ。分厚いステーキだ。すごい。ジュウジュウいうそれと温かそうなスープと健康のためにサラダからかなとか迷っているうちにご馳走が並んでいった。


 残しても構わないとのことだったので、一通り好きなものを選んで食べて、苺のショートケーキまで食べた。食べ過ぎたな。

 余ってしまったご飯が勿体ないけどもう何も入らない。


「明日どうする?」


 私が食べている間何をするわけでもなく悠真は近くに座っていた。


「うーん。どうしようか」

「ここ中庭が綺麗らしいから雨じゃなければ見る?」

「それでいいんじゃないか?」

「とりあえず、ね。ゆっくりできるし明日にでも近くに何があるのか調べてみましょ」

「じゃあもう寝ようか。君はさっきまで寝てたかもだけど俺は寝てないから。結構疲れたし」

「はいはい」


 言いながらすたすたと出ていってしまう彼を追いかけた。


「あら? 悠真の部屋も鳥なのね」

「そうそう。何て言ったかな、ロビン?」

「ロビン? へー」


 聞きなれない鳥の名前。

 スズメよりくちばしが鋭い気がする。色がついていたら何色の鳥なのかしら。


「じゃ、また明日」

「そうね。おやすみなさい」


 もう少し話していたいけど眠いのかさっさと部屋に潜ってしまった。


「もう」


 一緒に寝るっていう選択肢はないのだろうか。

 自分で言えばいいのだろうけど何となく恥ずかしくて言いづらい。仕方なく見たくないあの絵に気を付けて部屋に戻った。







 その夜。赤い、赤い夢を見た。


「ああああああああ!!!!」


 悲鳴と共に目覚めれば汗でぐっしょり。心臓が割れるほど強く鼓動している。


 見た夢は廊下のだった。

 なぜ、こんなにも気味悪く感じてしまうのか。


 怖くなってそのまま外に出た。悠真のいる部屋を目指す。

 どうして隣ではないのか。そもそもどうして部屋が違うのか。


「悠真、ねえ、起きてる?」


 部屋をノックしたが返事がない。試しにノブをひねれば戸は開いた。


「やだ、鍵かけなかったの?」


 オートロックだった様な気もしたが、開くまま開けて中を覗くと、彼がベッドで全身真っ赤になっていた。あの斑のように。


「悠真!? どうしたの!? なにがあったの?!」


 近くに駆け寄れば床まで血が広がっている。

 何がどうなっているのか分からず呆然と彼の手を握り倒れているベッドに顔を埋める。

 これも、夢だろうか。

 私が何かしてしまったのだろうか。夢と同じ斑がなぜ。


「どうした?こっちの部屋まで来て」


 普段と変わらない彼の声がした。


「怖い夢でも見たのか? 仕方ないなぁ」

「悠真?」

「何だよ。今日だけだぞ、一緒に寝てやろう。ほら」


 そう言って布団をめくる彼はもう赤くなかった。なんともないように見える。

 しかし普段なら言わないようなことを言っている。私はそんなに酷い顔をしているのだろうか。

 訳が分からなかったが、不安に押し潰されそうだったのでありがたくベッドに入り込んだ。


「おやすみ」


 頭まで撫でられた。

 彼と寄り添って眠ったおかげか、斑の夢の続きは見なくてすんだ。





 二人で中庭のベンチに座って庭を眺めている。ぽかぽかと太陽が心地いい。厚いセーターを来てきたから寒くはなかった。


 あれから数日、悠真は夜一緒に寝てくれるようになっていた。今のところ悪い夢は見ない。


「話したくないほど嫌な夢って相当だよな」

「現実になっても嫌じゃない」


 悠真は私の見た夢の話を聞きたがったが怖くて話すことはできずにいる。


「でもいつか」

「いつか? 何? 話せって?」

「そうじゃないけど、まあ」


 チチチ、と飛んできた雀。羽の一部が赤い?

 怪我でもしているのだろうか。


「すぐに分かるよ。飲み物でも貰ってくる」


 そっと肩に触れて行ってしまった彼のその足取りはどこか重そうに感じた。


 私が何か分かっていないのだろうか。忘れてしまっているのだろうか。

 足元まで来ていた雀が愛らしく跳ねている。


 何も考えなくていいことに甘えていて、平和で心地よくて心安らかでずっとこうしていたくて頭を使うことを拒絶していた。

 しかし休暇はいつか終わるもの。……そういえばいつまで? 私はいつまで休暇を取ったのかしら。仕事に行かなくては生活できない。ここの支払いはどうなっているのだろうか、払える金額だったから予約したのだろうか? 全く覚えがない。悠真が取ってくれたのだろうか。そもそも二人で一緒にこんなに長く休みが合わせられるものだろうか。長い休みなんてお正月かゴールデンウィークかお盆か、そういえば今、何月だっただろうか。

 何でこんなことが分からないのだろうか。

 どうして私はここにいるのだろうか。


「ここはどこ?」


 きつく組んだ両手に、先程の雀ではない小鳥がが乗ってきた。顔から胸にかけてオレンジ色の小鳥。

 その小鳥は乗ってすぐ、横に倒れ落ちてしまった。


 ぽたり、涙がこぼれた。

 小鳥に対してではなく、これはきっと違う別のものに対して。

 立ち上がればそこに小鳥はいなかった。雀もいない。いつの間にか太陽も雲に隠れている。


 行ったっきりの悠真を探しに行く。

 来てはじめて会ったメイドさんに聞いてみる。首を横に振られた。

 ご飯を食べる部屋、厨房、広間、一階の部屋にはほとんど鍵がかかっていた。

 あまりにも人がいない。他のお客さんはいないにしても、メイドさんは一人にしか会っていない。スタッフが一人だけでこの屋敷を管理できるわけがない。

 つまり、ここは。この空間は。



 彼の部屋に向かう。

 やはり鍵がかかっていない戸を開けると、彼はベッドに横たわっていた。そのベッドも入った部屋ももう屋敷の部屋ではなく、よく知っている私たちの家のそれだった。

 今度は全身赤くない、赤いのは首とその辺り。脇に落ちている刃物。薬。

 思い出して流れる涙は止まらなかった。


 そう、ある日帰ったらこうだった。

 どうしてだか分からなくて、私が何かしたのだと思った。こうなる前にもっと話してほしかった。

 でも私も分かってくれるかとあまり話さなかった気もする。お互い様か。


「ごめんね、思い出した?」


 口から血を流しながら起き上がった彼は笑っていた。


「どうして死んでしまったの?」

「君に迷惑をかけたくなくてそうしたんだけど、でもこうなっているってもっと迷惑をかけてしまったね。心労がすごそう。苦しめたかった訳じゃないんだ」


 受け入れられなかったのは死んでしまっていることより、どうして死んでしまったのかということのような。迷惑って、何が。どちらかと言えば私の方があなたに何か、迷惑をかけていたはず。


「ここで幸せそうに過ごす君を側で見ているのはすごく楽しかったけど長くなれば思い出すのが、現実に戻るのがもっと辛くなるでしょう? お別れを言わせて。今までありがとう」


 彼に答える気がないのか一方的に話しているけどこれは本来聞くことのできない言葉。


「次があったらよろしくね。もっと梨伊那が頼れる人になるよ」


 そうしてもう赤くない体で悠真に抱き締められた。


「ちゃんと頼れる人、だったわ」

「ありがとう」


 微笑みあっているうちに私の意識は遠のいていった。


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