たちまち宮殿内は騒然としはじめた。皇帝やフェリシア姫の葬儀などという状況ではない非常事態を、宮廷いやこの国全体は迎えようとしているのだ。しばらくは、氏忠は自分に与えられた部屋にいるしかなかった。

 この国が戦争になる、それは間違いのないことだ。メイドは三人とも誰に聞いても状況がよく分かっていないようだったので、仕方なく時々レンブラントを呼んで聞くしかなかった。

「ご心配には及びません。お后様と皇太子様は、反逆者メーレンベルフ伯、いや、メインデルトでいい。そのメインデルト討伐のため八千もの軍勢を繰り出したのです。すぐに鎮圧するでしょう」

「他の日本からの使節の人たちと合流したいのだけれど」

 それは口実で、氏忠はとにかくこの城から出たかった。城の中にはまだメーレンベルフ伯メインデルトの残党が残っていることは十分考えられるし、実際に例のあらぬ噂を流すのに一役買っている。自分を襲ったあの黒装束の仲間がまだ潜んでいる可能性も高い。また、いつ命を狙われるかもしれない。

 黒装束たちがなぜ結界が張られているはずの城内に忍びこめたのか……今なら納得がいく。やつらはメーレンベルフ伯の手のものなのだから、その家臣としてともに入城すればなんら支障もなく入りこめる。そういうことだったのだ。

 自分の命ならまだいい。今の氏忠には、どうしても守らなければならないものができた。

フェリシア姫が今際いまわきわにくれたあの玉だ。今、氏忠はその玉を小さな布の袋に入れて紐で口を縛り、その紐を長くのばして首にかけていた。だから玉は服の内側の胸のあたりにいつもあることになる。

 この玉はどうしても守らなければならない。戦火が城まで及んで、それに巻き込まれているうちに紛失してしまったなんてことにだけは死んでもしたくない。いや、してはいけないのだ。

 だから、この城から逃げたかった。できればこの帝都からも、そしてこの国からも、この世界からも……。

 だが、レンブラントは静かに首を横に振った。

「今、この城の中も町も、戒厳令が敷かれています。城の門も固く閉ざされております」

「許可があっても?」

「はい。まずは民衆が暴動化してこの城に押し寄せるのを防ぐため、そしてメインデルトの工作員がこれ以上城の中に侵入するのを防ぐためにも」

「中から外へ出るのもだめ?」

「外へは出られましょうが、帰ってこられませんよ」

 それも困る。でも、たしかに玉を守るために脱出したくても、城の外、帝都の外に出たからとてどうなるものでもない。できればこの国を脱出して日本に帰りたいが、その方法は今はどう考えても思いつかない。結局は食料も寝る所も失って、荒野で野垂れ死にするだけだ。

 実際、ほかの遣唐使たちに会うという口実が本当だったとしても、彼らの消息は全く分かっていない。氏忠の記憶の中でさえ、彼らの存在感は薄い。むしろ、嵐に遭う前まで一緒に船に乗っていた人々の方が実感を持って思い出せる。

 いずれにせよ、この城から出るのはあきらめるしかないようだった。


 そのまま二日ほどたって、氏忠はまた皇后と皇太子に召された。

 今度は皇后の私室ではなく少し狭い謁見の間で、中央の椅子に皇后と皇太子、そして左右に並べられた椅子にはメーレンベルフ伯を除く亡き皇帝の兄弟たち、そして皇帝の皇子と皇女、すなわち皇太子の幼い異母弟妹がずらりと並んで座っていた。

 他には宰相や重臣たちの椅子もあった。

 氏忠が皇后の前で畏まると、皇后は穏やかに氏忠を見た。

「特に用ということはないのですが、あなたにもどうかこの場にいてください」

「母は、あなたにそばにいてほしいとのことです」

 皇太子も言葉も付け加えた。

「どうぞ、あの椅子におかけください」

 重臣たちの椅子の列よりかはひとつ下がったところに用意されていた椅子を、皇太子は示した。それでも、皇后と皇太子の御前で椅子が与えられるとは、破格の待遇である。

「自分のようなよそ者が……」

 氏忠は言いかけたが、ここは従うべきだと思って深く頭を下げてから椅子の方に向かった。その場に居合わせた人々がその件についてはなんら意識していないようだったのが救いだった。彼らはそんな些事よりも、今の戦の勝敗の方がはるかに重大な関心事なのだ。

 たしかに氏忠は彼らから見れば他国のもので、この国で官職をもらっている訳でもないが、他国からの正式な使者ではある。でもそれならば、大使であるあの阿倍関麻呂とかいう人が招かれるべきだろう。ただ、氏忠にとってあの関麻呂という人は、もう顔すら思い出すのも困難だった。全く宮殿に現れる気配もないし、皇后や皇太子との会話の中にも出てきもしない。

 謁見の間にはひっきりなしに伝令の使者が現れては戦況を報告し、そのたびに人々は一喜一憂していた。

「申し上げにくいことなのですが」

 そんな空気の中で、メルテンス卿が手を挙げた。

「実は反逆者メーレンベルフ伯が恐れながらお后様を誹謗中傷する檄文を、帝国全土の津々浦々にまで飛ばしているとのこと。その檄文を手に入れました」

「それを読んでください。構いません」

 皇后からそう言われて、メルテンス卿は懐から紙を出して、びくびくしながらそれを読み始めた。

「皇帝陛下崩御の後は、一人の女が朝政をほしいままにしている。その女は甚だ冷酷で、また卑しい身分の出である。まずは先々代皇帝の側女そばめであったくせに、その御子である先代皇帝と淫乱な生活に入った。その性格はまるで狐か蛇蝎か、人のなす所と思えない。平気で敵を処刑し、毒殺し、今は夫である先代皇帝まで毒殺するに至った」

 檄文はまだまだ続いているたが、さすがに皇后も気分を害したようだ。

「もうよい!」

 普段は温和な皇后がいつになく怒号を飛ばしたので、皆縮みあがってしまった。

「下手な文章だこと」

 皇后は鼻で笑ってメルテンス卿を下がらせた。だが、怒号を飛ばしたとはいっても皇后は感情的にはなってはおらず、あくまで冷静だった。

「我が帝国きっての猛将のフェルデ将軍が討伐に向かっています。必ずや叛徒を討ちとって、華々しく凱旋するでしょう」

 皇后は高らかに宣言した。そうして、まる一日が過ぎた。そろそろ夕刻という頃になって、ひとりの伝令が悲痛な顔つきで部屋の入り口でうずくまっていた。

「どうしました?」

 思い余って皇后が声をかける。だが、その伝令は何かを言いにくそうにもじもじしているだけだ。宰相ヴェステンドルブ卿がそのそばまで歩み寄った。

「どうしたというのかね」

 伝令は小声でヴェステンドルブ卿を見上げ、何か言った。ヴェステンドルブ卿の顔色が変わった。そして、蒼白な面立ちのまま皇后と皇太子の方を見た。そして言った。

「わが軍は……味方は……全滅。フェルデ将軍も戦死」

 人びとは一斉にどよめいた。皇太子が思わず立ち上がっていた。

「その情報は間違いないのかッ! 確かなのか!」

 ヴェステンドルブ卿はうずくまる伝令を見下ろして、もう一度同じことを尋ねた。

「前線からの直接の書状が届き、それにそうありましたから間違いありません」

 人びとは絶望の渦の仲だった。皆嘆き合って、興奮して騒いでいる。メーレンベルフ伯の率いるエティルンドの軍はそんなの強いのかと氏忠は茫然としていた。

「みんな、お静まりなさい」

 皇后は力強く一喝して立ちあがった。

「今から軍隊の主だった将軍たちと軍議に入りますので、皆さんはどうぞお下がりになってしばらくお休みください」

 それでも亡き皇帝の親族の何人かはその場に残る意思を表明していたが、大部分の人々は下がっていった。氏忠もとりあえず部屋に戻ることにした。

 いよいよ一大決戦が行われるようだ。でも、今まではこの帝都ロンガパーチェから遠く離れたメーレンベルフ伯の領地のエティルンドと、このロンガパーチェとの中間地点でのいくさだと思っていた。

 だが、エティルンド軍はかなり強いらしい。そうなるとは思いたくはないが、万が一の時はこの帝都に、そして宮殿のあるインテルミナーティ城に敵が押し寄せ、ここが戦場になることもあるかもしれない。

 そう思うと氏忠は何としても玉を守らねばと思う。でも、脱出はできない。それに亡き皇帝は、今のような事態になった時は皇太子のそばにいて皇太子を守ってくれと親しみをこめて氏忠に言った。今となってはあれが皇帝の遺言のようにも思える。それを思えば、ここでおめおめと自分だけ城から抜けだすのも気が引ける。もっとも、気が引けても引けなくても実現不可能だ。

 だが翌日になると、氏忠にとってその不可能なことをやってのける人々が続出した。

朝からどうも宮殿の外が騒がしいので、もう敵が攻めよせたのかと氏忠は気が気でなく、とりあえず部屋のすぐ外の庭園の所まで出て宮殿の正面玄関の方の様子をうかがった。

すると、おびただしい数の人の群れが正門から城の外に出て、町の方になだれ込み始めているのが見えた。武装した兵団の姿も見える。

 まさか脱走……? 氏忠はそう思っていた。これから敵と戦いに行く兵団には見えない。慌てふためいて飛び出していっているという様子が、遠目にも分かる。

しかし、武装した兵団が出て行くとなると、そしてそれが戦いに行くのではないとなると……つまりは敵に降るために出ていくとしか思えない。

敵の強さに恐れをなし、このままこの城にいることに恐怖を覚えた人々なのかもしれない。

「氏忠様!」

 部屋の方から、自分を呼ぶ声がしたので、氏忠は振り向いた。レンブラントだ。

「お部屋にお戻りください」

 そう言われて部屋に入ると、そこにはボプとルイもいた。部屋に戻って見て気がついたが、部屋の廊下側の方、即ち宮殿の内部も今、大騒ぎになっているようだ。人の声、足音、時には叫び声すらが宮殿の中に充満している。

「氏忠様。しばらくはお庭にもお出になりませぬよう」

 いつになくきつい表情でレンブラントは言う。

「何かありましたか?」

 氏忠の問いに、レンブラントは目をつぶって首を左右に振った。

「ボプとルイもしばらくはこの部屋にいて、警護いたします」

 よほど非常事態が起こっているらしい

 レンブラントはほんの少しの間うつむいた。言っていいものかどうかとためらっているようだった。そして、彼は目を挙げた。

「そのうち、知れることです。実は亡き皇帝陛下の弟君であらせられますクノフローク侯とファルハーレン伯が離反して、メーレンベルフ伯のもとへと合流すると宣言して出て行きました。当初は、皇帝陛下のご兄弟はすべてお后様と皇太子殿下にお味方するということで結束したおられたはずなのですが」

「やはりメーレンベルフ伯があまりにも強いので?」

「それもありましょうし、今申し上げたお二方だけがメーレンベルフ伯と母親が同じなのです」

 そういうことかと思う。とにかく氏忠は、城どころかこの部屋からも出られなくなった。

 そうしてボプやルイと話をしながら一日が過ぎた。部屋の外は宮殿の内部になる廊下側のドアの外も、また宮殿の外部になる窓の外も喧騒けんそうはずっと続いていた。すると翌日の昼前からは、多くの衛兵がさらに氏忠の部屋にやってきた。警備の数を増やすのだという。突然のことに氏忠は訝しく思った。

「何かあったのですか?」

 どうせ教えてはもらえないだろうとは思いながらも、氏忠はレンブラントに聞いてみた。

「恐れていたことが起こりました。亡き皇帝陛下の弟君で、この城の中に残っておりましたミュルデルス伯とエイントホーフェンが、城内に潜んでいたメーレンベルフ伯メインデルトめの手のものに暗殺されたのです」

 やはりまだいたのか、と思う。

「その犯人はすでに取り押さえましたけれど、氏忠様の護衛も申し訳ありませんが厳重にさせていただきます」

 こうして、緊張の時間が始まった。

 護衛を厳重にしてくれるのはありがたいし、自分を守ってくれているということは頭では分かる。でもなんだかこう四六時中衛兵に囲まれていては、まるで自分が監視されているかのような錯覚に氏忠は陥るのだ。それに、この部屋から出てはいけないなんて、これではまるで自分が監禁されているみたいだ。

 すると、庭の方からたくさんの侍従や執事、そして庭師の類のようなものたちまでもが走って来てはさらに宮殿の奥の方へ行く。

 衛兵の一人が窓から身を乗り出した。

「何事だ!」

「町の方から反乱の軍勢がこの城を囲んでいる!」

 逃げてきた庭師の一人が、走りながら振り向きざまにそう教えてくれた。ついに民衆も蜂起したようだ。だが、彼らとて結界は破れないだろうから、侵入口は城門しかない。そのいくつかの城門のすべてで小競り合いが行われているようなのだ。

 夕方になって、レンブラントが氏忠の部屋に姿を現した。

「ご心配なく。民衆の蜂起はすべて鎮圧されました」

 そんな言葉の途中でも、廊下をけたたましく走る複数の人々の足音が響いた。護衛のルイがドアを開けて、走っている人々を呼ぶ。

「何かあったんですか?」

「お后様が、狙われたのですよ。しかも宰相にです。ファン・ハーレン卿です」

 その声は、室内にいた氏忠にまで聞こえてきた。

 もはやメーレンベルフ伯の手のものでもない。それとは無関係の、しかも宰相クラスの人が皇后の暗殺を企てたというのだ。

「ファン・ハーレン卿は?」

 衛兵が叫ぶ。

「すでに取り押さえられ、間もなく処刑される」

「お后様と皇太子様は?」

「ご無事です!」

 駆け足の足踏みをしながらそう答えた人は、また走り去っていった。

 もはや宮殿内は無秩序、混沌としてきた。これはまずいぞ……と、氏忠は思う。

 そんな状況の中で二日後の昼過ぎ、信じられないことに皇后が氏忠をお召しだとレンブラントが告げに来た。

 廊下を移動する間も、いやそういう時だからこそ氏忠の警護は余計に厳重になった。

 今度は前の謁見の間よりも少し広い部屋だった。だが、氏忠らが初めてこの宮殿に到着して今は亡き皇帝に最初に謁見した大広間に比べるとはるかに小さい。その部屋には、人々がひしめき合っていた。

 皆、高貴な人々であるようだけれど、着の身着のままという感じで詰め込まれるようにしてその部屋に入り、今日は椅子もなく、皆立ったまま大騒ぎをしていた。中には前に同じ部屋にいた皇帝の親族の姿もあった。数は少ない。メーレンベルフ伯のもとへ走ったものや暗殺されたものもいるので、それを差し引いた弟たちだ。

 今日集まっている親族たちは、その妻と子息たちもともにいた。皇太子の異母弟妹の皇子、皇女の姿もある。また多くの重臣たちもいたが、異様なことに彼らまでもが妻子もともに連れてきているのである。皇后や皇太子の御前に伺候するのに、妻子を伴うなどということは普通あり得ないだろうと、異国のものである氏忠でさえそう思っていた。

 とにかく人が多く、氏忠は皇后のお召しということでここに来たのに、皇后の前に出ることすらできそうもなかった。

「皆さん、お静かに」

 執事が大きな声で叫び、人々が鎮まると、皇后は立ち上がった。

「前にメーレンベルフ伯メインデルトの軍と交戦して大敗した軍勢の兵士たちが、次々に今この城に逃げ帰って来ています。彼らの話を聞いてきてもらいましたが、メインデルトのエティルンド軍が放つ矢はまるで雨のようで、とても防ぎきれなかったとのこと。そして、メインデルトの将軍デルク・ヴォルテルスの前にはどんな大軍もひとたまりもないとのことです。彼は召喚獣と魔法、そして武力の両方で攻めてきます。そして今朝方届いた伝令では、彼は今三万の軍勢を率いて、ついにトントラシエト峠を越えてこのロンガパーチェに迫りつつあるということです」

「三万!?」

「そんな兵団をエティルンド王のメーレンベルフ伯が持っていたのか!」

「それより、トントラシエト峠を越えたとなると、このロンガパーチェは目と鼻の先ではないか!」

 人々は口々にそんなことを叫んで、騒いでいる。

「そこで」

 皇后の言葉が、人々のざわめきを遮った。

「将軍たちにもどうするか諮りました。答えは二つ。一つは、この城に立て籠もって戦うか」

 人びとは先ほどまでの大騒ぎとうって変わって、静まりかえって息をのんで皇后の言葉を待った。

「でも、籠城というのは他からの援軍を待つためにするもの。でも、援軍なんて来るはずがありません。敗れれば敵は城に侵入して来て、我われはどんなはずかしめを受けるか」

 最悪、皇后や皇太子も処刑される可能性があることは誰もが知っている。

「ですから、生き延びるためにはこの城から出ることがいちばんと判断しました」

 また一段とざわめきが上がった。だがこの皇后の言葉は、妻子を伴ってここに来るよう指示された時から誰もが予想していたことのようだ。

「それでは、この城を敵に明け渡すということですね」

 宰相の一人、ブリンクマン卿が叫んだ。

「致し方ありません。でも、ただ逃げるのではなく、城の外で決戦を挑み、勝てばまた帰れるのです」

 この皇后の言葉ばかりは、現実味がなかった。三万のエティルンド軍を前に、そしてデルク・ヴォルテルス将軍を相手に勝てるとは誰もが思っていなかった。

「逃げ戻って来たばかりの兵をつれて、すぐに出かけるのですか?」

 重臣の一人と思われる老人が、皇后に聞いた。

「はい」

「彼らは疲れております。せめて一晩休ませてからでも」

「いいえ、そんなことをしたらその分、メインデルトはこの城のすぐそばにまで来てしまいます。でも、まだ見ぬメインデルトの軍の軍勢よりも、逃げ帰ってくるわが兵の足音の方が私は怖い」

 皇后は力なく倒れかけたので、隣の皇太子が慌てて抱きとめていた。

「伯父上!」

 皇太子が叫んで、皇后の兄であるエルベルト・ウーレンベック将軍を呼んだ。

「はい。ここに」

 皇后はようやく体勢を立て直した。

「兄上。兄上が全軍の指揮をとってください」

「御意!」

「ほかにラムンブラ県長官ユリウス・クラーセン軍司令、近衛上将軍のテュール・ヤン将軍、魔導大将軍のクーン・テイセン将軍、この三人を我が兄のウーレンベック将軍の補佐につけますので、四人でしっかりと軍を統括してください」

「「「御意!」」」

 そうして、直ちに出発となったが、氏忠は唖然としていた。自分はどうしたらいいか分からない。

「氏忠!」

 そんな時、氏忠を呼ぶ皇后の声が響いた。

ちこう!」

 人をかき分けて、なんとか氏忠は皇后に近づいた。

「あなたもいっしょに来てくれますね」

「自分もお供していいのですか?」

 氏忠は正直、ほっとした。このまま城に置き去りにされたら敵が攻めてきて命を落とすだろう。帝都の町中に隠れても、帝都の外へ逃げても、生きていくすべがない。

「ぜひ」

 皇后がそう言ってくれて、助かった。異国のものである自分も供が許されるなど、異例のことであることは氏忠も知っていたが、今は従うことにした。だが、そのやりとりを聞いていたすぐそばにいた人たちがあからさまに顔を曇らせるのも、氏忠は見ていた。

 氏忠は持って逃げるものなど何もない。唯一手放せないのはフェリシア姫からもらった玉だが、それは肌身離さず今もふところに入れてある。だから、このままともにこの部屋に来ていたボプとルイといっしょに皇后や皇太子と同行することにした。

 間もなく、皇后と皇太子を乗せた馬車が宮殿の石段下から出発しようとしていた。その同じ馬車に、氏忠も同乗が許された。さらに皇家の親族や重臣たちの馬車が数台続いた。

 四人の将軍の馬が皇后の馬車を囲み、馬車の列の前と後ろにそれぞれ騎兵が数百騎、さらにその前後に歩兵が数千ずつついての行軍だ。総勢で三千ほどだろうか。

 だが、城内に逃げ込んできた敗残兵たちの総てがこの歩兵ではない。従うのは半数もおらず、あとの半数は将軍たちがどんなに脅しても頑なに出陣を拒否した。

「来ないものは放っておきなさい」

 皇后ほそう命令した。だが、一度は従うふりを見せて、城壁の門を出た途端に列から離れて一目散に逃亡するものも後を絶たなかった。

 それよりも、門を出るまでが大変だった。帝都の住民たちも一斉に城門から帝都の外へと家財道具を乗せた車を弾いて逃げ出そうとして、軍勢が通ろうにも渋滞して身動きができないのだ。将軍たちが威嚇してどかそうとしても、彼らは明らかに敵意の目を皇后たちの馬車に向けてきた。

「我われを見捨てて自分たちだけがさっさと逃げるのかよ!」

「おいてけぼりか!」

 民衆たちは皇后の馬車に向かってこのように叫びを挙げる者も少なくなかった。

「無礼者!」

 将軍たちがさらに剣を抜いて威嚇したが、馬車の窓から顔を出した皇后は言った。

「捨ておけ」

 兵たちの逃亡も民衆からの罵声も、皇后にとってはすべて想定の範囲にあったことのようだ。でも、皇后にとっても、いや、今城から出ていく皇家と重臣の誰しもが残念で悔しいことがあった。皇后の行列には国宝級の財宝などを乗せた馬車も加わっていたが、どうしてもこの軍勢の中に共につれ出すことができなかったのは、亡き皇帝とフェリシア姫の遺体だった。やむなく殯宮に安置したまま来るしかなかった。

 いつか戦いに勝ってこの城に戻った時は盛大に葬儀を執り行い、そして皇太子の戴冠式と続くのが、皇后らにとっての希望だった。

 城門の外に出た。氏忠にとって帝都を出るのは、初めてここに到着した日以来だ。今、あらためて景色を見ると平原はさほど広いわけではなく、海がない方角はどちらも山に囲まれていた。

 氏忠は思い出した。ここに来た時には港町のフーエイから、おびただしいドラゴンに乗ってきた。そのドラゴンが格納されている建物が、城門を出たすぐの所に並んでいたはずだ。

「あのドラゴンたちは?」

 氏忠は、同じ馬車にいる皇后の侍従の老人に尋ねた。

「メインデルトがほとんどをつれて行ってしまったよ。残っているのは二、三頭だ。まさかドラゴンにお后様や皇太子様をお乗せするわけにもいくまい」

「でも、もしドラゴンがいれば戦いに使えたのでは?」

「いやいや、あのドラゴンはあくまで輸送用に飼育されたもので、戦闘用ではない。だから、なんら武器がない。野生のドラゴンだともっともっと数倍は大きくて、口から火を噴いて、一回の火炎の放射で村が一つ潰されたりするけれど、そんなドラゴンを飼い馴らすなんて無理だ」

「でも、我われには」

 皇后がそこで、会話に入った。

「魔導大将軍のクーン・テイセン将軍がいます。テイセン将軍は野生のドラゴンを魔法で召喚して、自由に操ることもできるのです」

「それは心強い」

 氏忠は、少しは安心した。

 馬車には皇后と皇太子、そして氏忠のほかは今の侍従、そして執事が二人、衛兵としてボプとルイが武装して乗っていた。 さらにはメイドのルシェ、リニ、セシルもいる。三人とも今日はいつものメイド服ではなく、かつてフェリシア姫が戦闘訓練の時に着ていたのと同じような露出の多い戦闘服だった。

 いちばん最初の時と皇帝のお茶会の以来、三人がそろっているのを氏忠は初めて見た。いつもは一人ずつ代わり番こに氏忠の部屋には来ていたからだ。

行軍は歩兵の駆け足に合わせているので、馬もそう速く走っている訳ではない。馬が速度を出せば、歩兵は置き去りになってしまうからだ。

 それでももうかなりの時間走って、ついに平原から道は山道にさしかかった。

 そこで氏忠は、かねてから気になっていて、レンブラントにも何度も聞いたけれどはっきりした答えが得られなかったことを皇后に直接聞いてみることにした。

「あのう、自分が使節としてこちらへまいりました時の、あの時の大使やそのほかの使節団の人たちは今は?」

 皇后は皇太子と顔を見合わせて、少し首をかしげた。どうやら皇后も知らないようだった。すると、侍従の老人が氏忠を見た。

「大使の阿倍関麻呂という方は、今はご病気で山の上の教会で静養中だったはず。他の方々については分かりません」

 教会って何だろうと思ったけれど、氏忠はそこは追及しなかった。

 そこから先は、もう会話は成立しないような山道となった。何しろ大揺れに揺れ、しかも登り坂である。下手にしゃべると舌を噛んでしまう。

 侍従が皇后を気遣い、ルシェが付きっきりで皇后の体を支え、なんとか衝撃に耐えた。道の両側は覆いかぶさるような森林で、時々木の枝が激しく馬車にぶつかり、それがさらに輪をかけて馬車を揺らす。しかもそのたびに爆音がするので、皇后は怯えていた。そうしてかなりの長い時間、衝動に翻弄されながらも軍は峠の一番上と思われる所にさしかかった。

 もう日はとっぷりと暮れていた。そこに、明かりが見えた。赤い石を四角く斬ったようなものを積み重ねて造られた三階建ての建物があった。

「あの修道院にひとまず泊めてもらいましょう」

 侍従はそう言って馬車の窓から騎兵を呼び、先に走らせて交渉に行かせた。騎兵が戻って来ての報告はなかったが、そのまま軍勢は修道院の庭に入っていった。

 着いて馬車から降りて、氏忠は驚いた。もう騎兵も歩兵も全員がこの修道院という建物の庭に入ったはずである。馬車の窓から見ていた時は、こんな狭い広場のような所にあの軍勢が全員入るのかと氏忠は心配したが、むしろまだ十分に空き地があった。

 帝都を出発した時の軍勢よりもはるかに数が減っている。三千はいたはずの兵が、千人くらいしかいない。

 ほとんどのものが途中で山道の森の木々にまぎれて、逃亡したようだ。あるいは疲れ果ててもはや歩けず、体力的に取り残されたのかもしれない。

だが、皇后はそのことを気にしているふうでもなかった。これも想定内だというのだろう。

 逃げなかった兵たちは忠誠心が厚いからとかいうのではなく、見た感じ、ここで逃げても野垂れ死にか敵に見つかって殺されるのが落ちだと思ってただついてきただけにすぎないようだ。

 皇后と皇太子は修道院という建物に丁重に招き入れられ、ここまで馬車で来た皇家の親族や重臣たちおよび四人の将軍も中へ入れた。騎兵や歩兵は庭で野宿のようだ。

 氏忠も中に入ったが、ずっと修道院とは何だろうと思っていた。そして中に入ってみるとなんだか宗教上の建物のようで、氏忠の故国でいう寺のようなものかと思った。

 中にいる人々は髪こそ剃ってはいないが、寺の僧侶と雰囲気が似ている。

急なことなので準備もなかったはずだから、ほんの粗食ではあったが食事も出してくれた。庭の兵たちには十分ではないようだが、積み荷として帝都から運んできたパンが配られた。

 その食事が終わった頃である。伝令の兵が息を切らして、皇后の前に走り込んできた。

「申し上げます!」

 皆が、食事の手を止めた。

「反逆者メインデルトは軍を率いて帝都ロンガパーチェに到着。インテルミナーティ城に入った模様です。そしてその三万の軍勢は、一部を帝都に残したまま将軍デルク・ヴォルテルスに率いられてこちらに向かっているとのこと」

 誰もが目を見ひらいた。しばらくの衝撃による沈黙の後、最初に口を開いたのは皇后の兄のウーレンベック将軍だった。ウーレンベック将軍は一度目をつぶり、また開けて静かに言った。

「気になるのは皇帝陛下とフェリシア姫様のご遺体ですが、メインデルトにとっても兄と姪、邪険にはしないでしょう。もしかしたら自らの手で葬儀を行い、そのまま自分の戴冠式に持っていこうという腹では」

 テイセン将軍が話に割って入った。

「しかし、腹心中の腹心であるヴォルテルス将軍に三万の軍を預けてこちらに向かわせたということは、それよりもお后様や皇太子様を先に討ち滅ぼそうという魂胆でしょうな」

食事をしていた手を卓上の水瓶の水で洗うと、皇后は立ち上がった。

「皆さん、お聞きください。敵を恐れるあまりひたすら帝都を脱出して、山中に逃げれば何とかなると思ってここまで来ました。でも、もう敵はかなり近くまで来ているようです。さすがに夜は動きを止めるでしょうが、明日の朝にはこの山に迫ってくると思われます。こんな山の中で狩人に殺される鹿のように討ちとられて、皆さん、末代まで恥を残せますか? それよりもどうせ死ぬなら戦って、敵にひと泡吹かせてやりましょう!」

「「「「「おお!!!」」」」

 人びとは勢いよく歓声を挙げた。

「では、どなたか、いい策はありますか?」

 ところが、今度は人びとは静まりかえってしまった。仕方なく、さらに皇后は言葉を続けた。

「あのヴォルテルスという将軍は人の姿をしていますけれど、実際はその異名のヴィッテ・テイヘルという通り、まさしく白い虎であります。まともに立ち向かってかなう相手ではありません。しかも我われの兵力も、彼らの十分の一もありません」

 実際は三十分の一もいない。

「つまり、開けた平地で戦っても絶対に勝てないのです。そこで、わたくしに策があります」

一同、波を打ったように静まり返った。

「兵の半分は夜の闇の中、来た道を戻って山のふもと近くの森の中に潜みます。あとの半分は彼らを迎え撃つ形で山中で待機。彼らが山に登ってきて山中で待機していた軍といよいよ対峙という時に、森の中に隠れていた半分の兵力で彼らの背後を突き、山の中で挟み撃ちにするのです」

 皇后は、毅然として言い放った。

「おお、それがよいでしょう」

 軍司令のクラーセン将軍が感嘆の声を挙げ、皆がそれに従った。

「四人の将軍は彼らを迎え撃つ正規軍を指揮してください。それで道を後戻りして、敵の背後を討つべく森の中に潜む軍の指揮は……」

 皇后は、一同を見渡した。四人の将軍はそれには加わらないということになっているので、もう一軍を指揮できるような武官はいない。

「氏忠!」

 いきなり名前を呼ばれて、半分放心状態だった氏忠はハッと我に返った。

「森の中に潜んで敵の背後を討つ軍は、あなたが指揮してください」

「えっ? ええっ!」

 意表を突く皇后の言葉に、思わず氏忠は立ち上がった。同時に、その場に居合わせた人々も一斉にざわめいた。

「えっと……自分は武術のたしなみはおろか、軍を指揮したことなど一度もなくて……」

「武術に励んでおられたのは、拝見しておりました。それにあなたは魔法をも修得しているはず」

 そうだ。フェリシア姫との剣戟の訓練を、確かにこの皇后には見られていた。だから、魔法の訓練も見られていた可能性もある。

「あなたは遠い外国から来て、まだ私たちとの付き合いも長くありません。ですから、こんな状況になってさっさと私たちを見捨てて逃げてしまわれても不思議ではないのに、亡き皇帝陛下があなたにお目をかけられたのを忘れずよくついてきてくれました。どうか……皇帝陛下とのよしみで……よろしくお願いしたいのです」

 さっきまでは凛としていた皇后だったが、ついに最後の方は涙に詰まってとぎれとぎれの言葉となった。だがこんなに悲嘆にくれていても気品は失わず、輝くばかりの皇后の姿に、氏忠はめまいがする思いだった。

 だが皇后は、ついにテーブルの上に泣き崩れた。

 迷った。正直、迷った。

 たしかに氏忠にしては、この異世界の異国のために戦う義務も筋合いもない。ただ官職について働くというくらいならいいにしても、軍の指揮となると命がけだ。いや、命を失う可能性も高い。しかし、目の前の皇后の様子を見て、そして亡き皇帝が親しく接してくれたことなど思うと、ここは引き受けるべきではないかと思う。なにしろ異国のものである自分に一軍を預けるなど、よほど信頼されているに違いなかった。

 氏忠は目を挙げた。

「自分は自国でもいくさを経験したことはないし、軍を率いたこともありません。でもこの場に座していてもどうせ失われる命なら、みごとに戦って見せましょう」

 人びとの間で喝采が上がった。だが、真意からの喝采かどうかは疑わしかった。

 すぐに氏忠は予備で荷物に積んであった鎧を着用し、出発することになった。要は、来た道を戻るのだから下り坂だ。山道とはいっても馬車が登れるくらいの坂道だから、そんな険しいわけではない。しかも下りなのに、今の氏忠にとってはなかなかうまく歩けなかった。実は氏忠は鎧を着るのは生まれて初めてだったのだ。まさかこんなにも重いとは思っていなかった。歩兵たちはよくこんなのを着てここまで走って来たものだと思う。さらには、フェリシア姫の形見ともいえる剣を背中に装着している。

 ボプとルイも供に行く。そしてなぜかルシェ、リニ、セシルの三人までもが同行していた。連れていく兵力は、ボプが選んだ。兵たちは意気揚々と士気も高く……などというのには程遠かったが、とにかく行軍は始まった。

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