開店準備中

 初めて、平日の学校帰りでなく、休日の午前中からの仕事だった。

 休日は学生客が少ないため、休みでいいよと言われていたのだが、今日はどうしても晋平が来られないと言うので急遽かり出される事になったのだ。

「おはよーございまーす」

 準備中の札がかかったドアを押すと、突然甘い匂いに包まれる。

 初めは、なんて甘ったるい匂いだと少々不快にもなったりしたのだけれど、この頃はすっかり慣れてしまっている。食べるのは相変わらず嫌いだが、匂いだけならば問題はないらしい。

 スタッフルームで着替えをして、厨房を覗いた。

 開店準備中に店に来たのは今日が初めてである。

 店長でありパティシエである千紘が、見た事もないような真面目な顔でたくさんのケーキを焼いていた。俺が来た事にも気付かないぐらい、一心不乱だ。

(あんな顔、するんだ…)

 初めて会った時から、様々な顔を見てきたけれど、またしても新たな一面を発見してしまった。一体いくつの顔を持っていて、どれが一番本物なのだろうか。

 仕事をする男の顔。それは普段より数倍男前に感じた。

 まだ学生である俺は、間近でそういう人の顔を見た事がなかった。

 こんなに、周りの空気までもがぴしりと張りつめて、格好良いものなのだ。

 しばらく俺は仕事をしに来た事も忘れ、その姿に見蕩れていた。


 その雰囲気にもだいぶ慣れてくると、今度は千紘の手元が見たくなって、そっと近付いた。その指の先で一体どんなものが作られているのか、見てみたかった。もちろん、売り物としての完成品は毎日見ているのでわかっているけれど、それが出来ていく様を近くで見てみたいとそう思ったのだ。

 ひょいと手元を覗くと、びくりと千紘の体が震える。

 デコレーションしていたクリームが変な形になる。

「びっくりした~」

 千紘のその反応に、俺の方こそびっくりした。

「いるなら声かけろよ」

「おはよーございます。気付いてなかった?」

「ああ、集中してるからな。ていうか、早くねえ?」

「あれ?時間違った?」

「10時開店だから、30分前でいいって言ったろ。まだ9時前だよ」

「そうだっけ」

 てっきり9時からだと思い、遅刻しちゃいけないからと少し早めに来たんだけれど。

「まあいいや、おまえの仕事はフロアの準備な。掃除とかしっかりしておいてくれ」

「はーい」

 わざとらしくため息をついた千紘は、クリームが変な形になってしまったケーキを一片、横に避けた。

「責任取って食うか?諒」

「やだ」

「じゃ、バイト代から引いておく」

「いーやーだー。俺のせいじゃないもん。千紘さんが勝手にびっくりしたんじゃん」

「クソガキっ」

 俺が決して千紘のケーキを口にしない事を、千紘は気にしているみたいで、ことあるごとに一口でも食べさせてやろうと試みる。とは言っても、無理矢理口に入れようなんて事ではなく、嫌がる俺を楽しんでいるような感じだ。

 口では悪態をつくけれど怒っているわけではなく、千紘はくすりと笑って再び手を動かしはじめる。

 多分、俺がここにいる事で、さっきまでのような神憑かり的集中はしていないと思う。それでも手先の動きは相変わらず器用で、みるみるうちに綺麗なケーキがたくさん出来上がっていく。

(すごいなあ)

 なんだって造り出せてしまいそうな器用な指。食べた人を幸せな気分にさせる魔法の手だ。

「仕事しろよー、勤労学生」

「だって、俺の仕事、9時半からでしょ?今はまだ自由時間だもーん。見学させてよ」

「あー、そうですか」

 邪魔になるなら向こうへ行こうと思ったけれど、見た限りさほど影響はないらしい。

 俺は少し離れたところで、飽きもせずにじーっと千紘の動きを見つめていた。

 無駄のない動きの一つ一つがまるで芸術のようだった。

 こうして見ていると、あれを食べてみたい思いに駆られる。

 あれが甘くさえなかったら、きっと俺も幸せを味わえるのに。

(なんで俺、甘いもの嫌いなんだろうな)

 見ているだけでもちょっぴり幸せな気分になれるから、いいのだけれど。

「見過ぎだ、諒。俺に穴が開いたらどうする」

「少しハンサムになるかもよ?」

「そしたらお前が困るだろう」

「なんで?」

「俺に惚れちゃうから」

「そんなこと、あり得ませんよー」

 そんな軽口を叩くけれど、本当はもうとっくに惚れている。意地悪だけど優しくて、いいかげんだけど真面目なこの人に。

 毎日のようにバイトしに来るのも、仕事が楽しいのも、千紘がそこにいるからだ。

 そう気付いたのはつい最近の事。

 いつの間にか、この人に惹き付けられて、止まない。

 転がり始めたら、もう止まらない。

「ほら、もう時間だから、働け」

「わ、ほんとだ、いつの間にか時間過ぎてるじゃん」

「だから見過ぎだって言ってんの」

「ちぇ~っ、働いてきまーっす」

 名残惜しい気分満点で、俺はフロアに出て行った。

 しっかりと掃除をして準備をして、店を開ける。

 千紘のケーキでお客さんを幸せな気分にさせるため、俺は俺に出来る事をする。

 少しでも、千紘が喜んでくれるなら。

 俺はそのためにここにいる。



<終>

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