男子と女子のあいだ

杜社

第1話

女装趣味なんて持ってない。

でも、女装が似合うであろうことは判っていた。

もともと女っぽい顔立ちだったし、高校生になった今に至るまで、女みたいとからかわれたことは数知れず。

……しかし、ここまでとは!

鏡に映るその顔は、正に妹とうり二つだった。

いや、もともと双子だから似ているのは当たり前だが、そもそも男女の双子の場合は二卵性だ。

似てはいても同じではない。

それが、ウィッグと薄い化粧だけで妹と同じになった。

俺は女に生まれ変わったのだ。

試しに、妹がねたときに見せる、ちょっと甘えたような上目遣いをしてみる。

かーわいー!

って、きっしょ! 俺きっしょ!

自分の可愛さと気持ち悪さに、思わず鏡の前で身悶みもだえしてしまう。

「お兄ちゃん」

ベッドの上のあおいが、不安げな顔で俺を見ていた。

幸いなことに、その目は俺の頭を心配するようなものではなく、純粋な理由に基づくものである。

「本当に行くの?」

そうだ、自分の可愛さに酔ったり自己嫌悪に陥っている場合ではない。

妹以上に、俺は不安なのだから。

「ああ。でも勘違いするなよ? これはお前のためじゃなくて、妹が留年するなんてことは兄として恥ずかしいことだからだ」

俺は表情を厳しくする。

「うん、ごめんね」

あ、いや、責めているわけでは。

ただ、生まれつき病弱な妹を持った兄としては、これくらい当たり前のことで、決して過保護などではなく……。

「心配するな。お前の可愛さ──いや、お前の言動を模倣もほうすることなんて朝飯前だ。安心して寝てろ」

俺は、葵に対して数え切れないくらい繰り返してきた笑顔を浮かべる。

上から目線、傲岸ごうがん、葵ちゃんが可哀想などと周りから評される笑顔だが、俺は兄の威厳だと思っている。

「うん、わかった」

葵が微笑む。

兄の絶対的な自信が、妹を安心させるのだ。

「じゃ、行ってくる」

俺は葵の制服を身にまとい、気合いを入れて家を出た。


通い慣れた学校。

だが、時間帯が違うだけでこんなにも不安になるのか。

いや、時間帯だけじゃなく性別すら違うのだが。

閉ざされた狭い空間で、俺は呼吸を整えていた。

今から自分がしようとしていることを考えると、緊張感と罪悪感みたいなものが込み上げてくる。

俺の行動は、多くの人を騙すことになるだろう。

そして、もしそれがバレたら、俺はただでは済まないだろう。

もう決めたことなのに、そんな迷いを繰り返している最中さなか、壁越しに水音が聞こえてきた。

「ふぅー」

同時に、何やら溜め息めいたものも耳に届く。

恐らく、こらえていたものを解き放つ安堵あんどの息に違いなく、俺を纏う張り詰めた空気とは裏腹な弛緩しかんした気配が伝わってくる。

……凄いものだな。

閉ざされた狭い空間で便座に腰掛ける俺は、ほとばしるような放尿の音に、やや圧倒された。

隣の個室の、恐らくは、いや、絶対にと言っていい女子のそれに。

そう、俺は今、女子トイレにこもっている。

いや、べつに、女子のそれが清らかな水のせせらぎ、なんて思っていたわけじゃない。

男だろうが女だろうが、放尿は放尿だ。

溜め込んでいたものを解き放てば、当然、勢いよく迸る。

……滝やん?

俺は、遥か高みから落下する、豪快な滝を頭に思い浮かべた。

同時に、滝に打たれる僧侶のように、達観とも諦観ともいえる思いに至った。

女装することで、俺は多くのものを失うのだろう。

でも、葵のためになるならば、決して後悔はしない。

よし、やるぞ、やってやる!

決意を新たに立ち上がり、ついでに用を足そうと座り直す。

……座ってする小便は、なんだか俺を物悲しくさせた。


人の気配が消えたので、恐る恐る個室から出る。

自分の通う学校の、見慣れない空間。

そして、その鏡に映る、ある意味では見慣れた、けれど、見慣れたそれとは違うはずの顔。

「葵……」

鏡に向かって妹の名前を呟く。

それに応えて、妹がニコッと笑う。

つまり俺が笑ったわけで、我ながらキモいと思いつつ、鏡に写る葵は可愛らしい。

恐らく俺は、これから何度も可愛いとキモいの間を行き来するのだ。

身長は俺の方が二センチほど高いが、靴底の厚さで変わる範囲内だし、ウィッグと薄い化粧、女子の制服にパンストは、普段から女みたいと言われてきた俺の僅かに男っぽい部分を完全に消している、筈。

うん、大丈夫だ。

家を出る前にもチェックは繰り返したし、葵も問題ないと言っていた。

何もビビることは無い。

「葵、おっはよー」

「あひゃい!」

めっちゃビビった!

「ど、どうしたの?」

「え、あ、いや、おはよう」

おはようでいいんだよな?

いや、それよりも、咄嗟とっさに奇声を上げてしまったが、俺が最も危惧しているのは声だ。

姿は誤魔化せても、俺に妹の声が出せるかどうか。

そもそも、男が女の声を出せるものなのか。

いくら女みたいと言われ続けてきた俺だって声変わりはあった。

かつてのボーイソプラノと言われた頃とは違うのだ。

「あれ? なんかいつもより声が可愛いじゃん」

なんでやねん!

俺に男らしさは無いのか!

「どうかした?」

密かに怒りを滲ませた俺の顔を、ピアスに化粧に派手な服装をした女子が覗き込む。

ギャルとヤンキーを合わせたような、ちょっとやさぐれた雰囲気を醸し出すお姉さんといった感じだが、近くで見るその顔は意外と愛らしい。

が……近い、近すぎる。

そうか、女子同士だと、こんな無防備に接近してくるのか。

「いや、いえ、何でもない」

俺は慌てて距離を取るが、その動きが不自然だったのか、彼女は怪訝な顔をする。

「葵」

「な、なに?」

近い近い、なんで更に詰め寄ってくるんだ。

「今の動き、顔色……」

ヤバイ、怪しまれてる!

「今日は調子いいんじゃん?」

へ?

「機敏な動作、血色のいい頬、お姉さん安心しちゃったわー」

……俺も安心したよ。

事前に妹から受けたレクチャーから、クラスメートの情報は暗記している。

恐らくこの女子は、美紗って子だ。

一つ年上で身長は高め、髪色は明るいアッシュグレー。

そして、事前に聞いていた通り、妹の体調を気遣ってくれる。

「美紗さん」

「美紗さんは呼びにくいから美紗ちゃんにしろと何度言えば」

身体を押し付けるような、優しい体当たりで不満を表してくる。

そうだった。

美紗さんて呼んだら怒られるからね、という注意も受けていた筈なのに。

「美紗ちゃん」

「はいなー」

「ありがと」

「な、なによー改まって!」

照れ隠しなのか、俺の腕をバンバン叩く。

その姿は、派手な服装も派手な髪色も関係なく、一つ年上なことも関係なく、葵を気遣ってくれる一人の女の子だと気付かせてくれる。


服装は自由だ。

制服でも私服でもいい。

ほとんどが同い年とはいえ、上は四十代の人もいるという。

妹の通う学校は、俺の通う学校と同じでありながら、全く違う世界だ。

南野日向ひなたと南野葵。

兄と妹。

男子と女子。

全日制高校と定時制高校。

昼と、夜のあいだ。

俺はこれから、それぞれの間を行き来するんだ。

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