第3話 「甘口ですけど、どうですか?」


 部屋に帰りジャケットを脱いでハンガーにかける。視界の端に赤い携帯電話が映るが、敢えて見ないようにする。適当にジーンズに穿き替えて、冷蔵庫からビールを取り出して雫ちゃんの部屋に向かった。


「ひゃあっ、仮病使っちゃったのに、お酒なんか飲んでもいいんですかねっ」


 玄関でビールを見せると雫ちゃんはぴょんっと跳ねて目をパチクリさせた。彼女はきっとお母さん似なのだろう。姉の沙織と違って雫ちゃんは小柄だし瞳はぱっちりまんまるだ。多分、モテるだろうけど、そういえば彼氏がいたという話は聞いたことがない。

 ずっと片想いしてる相手がいるとか、お酒を飲んでる時にぽろっとこぼしたことがあったけど、どうなったのかな。好きなら告白しちゃえばいいのに。なんて、他人が偉そうに言うものじゃないか、と思いながら持ってきたビールを手渡す。


「お酒はいいけど、明日はちゃんと行くんだよ。サボりぐせがついちゃうと自分の首を絞めることになるよ」

「はーい。じゃ、ありがたく。いっただきまーすっ」

 まったく返事だけは一人前なんだから。

 ビールを受け取った雫ちゃんは右手をあげて敬礼をして、おどけて見せた。


 僕らはテーブルに向かい合って座った。雫ちゃんがカレーをよそってくれる。レタスとトマトのサラダも木のボールに盛り付けられていた。やっぱり女の子って一人暮らしでも食器にこだわるんだなぁ。僕なんか深皿と茶碗とラーメンどんぶりくらいしか部屋にないのに。

「じゃ、いただきますっ!」

 元気よく手を合わせ雫ちゃんは早速缶ビールの口を開けた。

 嬉しそうにぐびっとビールを飲む雫ちゃんを見ていると、なんだか和む。子供の頃から知っている雫ちゃんは僕にとっても妹みたいな存在だった。

「いただきます」

 僕も手を合わせてカレーを口に運ぶ。

「甘口ですけど、どうですか?」

 上目づかいで感想を求めてくる雫ちゃん。甘口のカレーなんてなかなか食べる機会がないから新鮮だった。豚肉のブロック。大きめにカットされたニンジンやジャガイモたち。なんだか小学生の頃に食べた給食のカレーみたいで懐かしい。

「うん、おいしいよ」

「本当ですか? 光輔さん辛口の方が好きでしょ。一味唐辛子とかスパイスとか、一応ありますけど、いれます?」

「いいよ。せっかくだから、普段はなかなか食べない甘口を味わうよ」

「むう、気を使わなくていいのに」

 雫ちゃんはなぜか頬を膨らませた。

「別に気を使ってるわけじゃないよ。ホントにおいしいよ」

 苦笑しながら弁明する。本当に気を使っているわけじゃなかった。相手に合わせるのが苦痛じゃないだけなのだ。保守的で優柔不断であまりチャレンジをしない性格の僕は、こういう時じゃないと新しいものや普段しない経験をする機会がないのだ。だから、誰かと一緒だとできるだけその人の嗜好に合わせて体験してみようとする。それが意外と楽しかったりするのだ。まあ、そういう機会も沙織が死んでからはめっきり減ってしまったが。

「光輔さんが気にしないっていうならいいんですけどぉ」

 雫ちゃんはあまり僕の発言を信じてくれていないようで、不満げだった。

「全然気にしてないって。雫ちゃんは疑り深いなぁ」

「だって光輔さん。わたしにいつも気を使ってるし、いつまでたっても子供扱いしてくるし、あんまり本音を見せてくれないんですもん」

 プイッとそっぽを向く雫ちゃん。そういうところが子供っぽいんだよな、と思いながらも勿論口には出さない。だけど、僕は別に彼女に対して本音を見せてないつもりはさらさらないのだが。

「そんなことないよ。だって雫ちゃんはもう他人って感じじゃないもん」


「え!? そ、それってどういう意味ですか……?」


 なぜか雫ちゃんの頬がほのかに赤くなる。

「うん。当たり前じゃん。雫ちゃんは沙織の妹だし。それだけじゃなくて、本当に色々支えてもらって感謝してるんだよ。勝手だけど、妹みたいに感じてるんだ」

 カレーを口に運びながら言う。


「……妹かぁ」

 その言葉尻に少しだけ、愁いのようなものが混じっているような気がして僕は視線を上げた。

 雫ちゃんが大きな瞳がため息と共に下に向いた。

「当たり前じゃんか。お母さんにもよくしてもらってるし。二人には頭が上がらないよ」


 沙織が死んだ時、親父は再婚したばかりで幸せな時期だったから、僕は恋人の死について何も伝えられなかった。

 ひとり部屋にこもり塞ぎ込んでいたときに寄り添ってくれたのは流川家の人たちだった。


 沙織と付き合い始めた頃から流川家との交流はあった。付き合ってすぐに沙織に家へ招待され食事を振る舞われた。

 沙織のお母さんは娘の彼氏に興味津々だったようで食事の最中、僕のことを根掘り葉掘り聞いた。

 その中で僕が父子家庭だと知ると涙ぐんで「娘の彼氏は息子も同然だからなんでも言ってちょうだいね」と言ってくれた。照れ臭かったけど、嬉しかった。まだ中学生になったばかりの妹の雫ちゃんとも一緒にゲームをしたりしてすぐに打ち解けた。

 僕にとっては再婚して引っ越したばかりの親父の家より、沙織の家族と過ごす方が居心地が良かったのも事実だった。

 沙織のお父さんは少し強面な人だったけど、僕のことを気に入ってくれた。駅前でばったり会った時には居酒屋に連れて行かれたこともあった。


 大学四年の春、沙織と二人で流川家に赴き、就職したら結婚を考えていると親御さんに報告もした。

 まだ学生なんだから就職して生活が落ち着いてから考えなさい、とお父さんは苦笑いだったが、お母さんは「これで念願の息子ができるわ」なんて言って喜んでくれた。


 だけど。


 その年の梅雨のある日。デートの待ち合わせに僕が遅れて、そのせいで沙織は交通事故に遭ってしまった。彼女は雨でスリップしたトラックに轢かれてしまったのだ。

 沙織はあっけなく、この世からいなくなってしまった。僕にとって交通事故で大切な人を失うのは二度目だった。


 あの日から僕の世界は灰色になったのだった。


 喪失感の中、食事も取れず、大学にも行けず、暗いアパートで後悔ばかりしていた僕を支えてくれたのは、家族を亡くして悲嘆に暮れているはずの沙織のお母さんや、まだ高校生になったばかりの雫ちゃんだったのだ。部屋に来てご飯を作ってくれたり、散歩に連れ出してくれたり。


 だから、僕は二人にとても言葉では言い表せない気持ちを抱いている。本当に感謝しているし、申し訳ない気持ちでいっぱいなのだ。二人が支えてくれなかったら、今の僕はないと思う。


「……むぅ。だからそういうことじゃないのにぃ」


 だけど、僕の感謝の気持ちの何が不満なのか、雫ちゃんは頬を膨らませてお皿の中をかき混ぜるようにスプーンを弄んで、パクリと大きな口でカレーを頬張り、缶ビールを煽った。

 なかなか年頃の女の子の考えていることはわからない。

「あっ。そういえば。最近、お姉ちゃんの夢を見るんです」

 お皿の中のカレーがなくなりかけた頃、雫ちゃんが思い出したように言った。

「沙織の? どんな夢?」

「んっと。毎回、導入部分は違うんですけど、なんか公園のベンチで寝てるんですよね、お姉ちゃんが。それで、わたしは『なーんだ、そういうことか。お姉ちゃんったら、こんなところで寝てるから家に帰ってこないんだな』って妙に納得して、疲れてるだろうから起こさないで帰ろうって、話しかけもしないで帰っちゃうんです」

「寝てるのを見るだけ?」

「はい。起きてから、なんで話しかけなかったんだろうって毎回思うんですけど、夢の中のわたしはお姉ちゃんを寝かせておいてあげようって思っちゃうんですよ」

「なんだか不思議な夢だね」

「しかも、お姉ちゃんが寝てる公園も、現実では行ったことないのに、夢の中だと馴染みの場所なんですよね。大きな丸い池があって、真ん中から噴水が飛び出してて、鳩とか小さな子供が周りにいて。なんかこの公園懐かしいなって思うんですけど、実際にはそんな公園は知らないんですよ。夢の中だけで知ってる場所なんです」

「夢でしかいけない場所か。確かにそういうの、僕にもある気がするなぁ」

「光輔さんにもあります? 不思議ですよね! なんなんでしょ。あの感覚。懐かしくて、切なくて、でも少し怖いような。変な感じ。なんかね、ネットで調べたら、前世の記憶とかっていう話もあるんですよ。本当にそうだったら面白いですけど。とはいえ、じゃなんでお姉ちゃんが出てくるのかっていうと、なんだかよくわからないし……。ま、夢なんてそんなもんだって言われたらそれまでなんですけどね」

 雫ちゃんは「えへへ」とはにかんだ。


 食器の洗い物を手伝ってから僕は自分の部屋に帰った。ほろ酔い気分で気持ちが良かった。


 だけど、ベッドに転がった瞬間に、あの携帯電話が再び鳴り出して一気に酔いは醒めた。


 まただ。

 嫌々ながらも手を伸ばす。


 相変わらず画面の上には圏外の表示があるのに。そしてメールの本文はまたも文字化けだ。漢字やカタカナの混ざりは昨日よりも増えているけど、内容が理解できるようなものではなかった。こんな誤作動が何度も起こるものなのか。

 僕は決心して返信を送ってみることにした。


「何の用ですか?」


 たった一言。死んだ沙織がメールを送ってきているなんてありえないし、そもそも圏外なのにメールが来ることもおかしい。インターネットにも繋がらないし、電話をかけることもできないのだから。

 つまり、僕のつまらぬ戯れの返信は誰にも届かずに、送信ミスとなり下書きフォルダに残るはずだった。だけど、液晶画面にはあっけなく「送信完了」の文字が現れた。


 嘘だろ。


 メールフォルダを確認すれば、やはり送信済みのフォルダに移されている。意味がわからない。僕が携帯電話を握りしめて固まっていると、再び携帯電話がメールの受信を告げた。文字化けが減っていた。


『繧医≧繧?¥返信をくれましたね。ありがとう。早速縺?縺後?あなたにお願いがあります。色々混乱しているでしょうが、わたしのいう通りにして縺サ縺励>縲。これはあなたのためでも縺ゅj縲、あなたの大切な莠コ縺ョ縺溘aでもあリマス。』


 明らかに僕に向けて送られた文面だ。前よりも言葉が読み取れる。でも、なぜ……。

 目を凝らして文字を追っていると、読み終えるより先に、続けざまにまたメールが届いた。


『繧?▲縺ィと安定してきましたね。この文章は読めて縺?k縺九↑。ことは急ぎます。繧上◆縺励?の指示にしたがってほしいのです。』


 少しずつ文字化けが少なくなっていく。これはなんだ。悪い夢なのか。それとも、誰かの悪戯か。僕は再び返信を打つ。


『一体あなたは誰ですか。なぜ沙織のアドレスから送っているのですか』


 すぐに返信は来た。


『やっと、きちんと繋がったようです。良かった。これでもう文字化けせずに文章は通じているはずですね。さて早速ですがお願いがあります。明日、私が指定する場所に行ってほしいのです。』


 相手は僕のことなど御構い無しにメールを投げつけてくる。誰なんだこいつは。頭の中で警戒のランプが灯る。怪しい。どうしたものか。もちろんこのまま返信を返さずに、無視することだってできる。だけど相手は沙織のアドレスを使ってメールを送ってきているのだ。なりすましの詐欺師であるかもしれない。ITの技術には詳しくないが、使われていない携帯にメールを送るような技術もあるのかもしれない。


『あなたの要望に応えるかどうかは、そちらがしっかりとした返答をしてからだ。なぜこのアドレスを使っている。あなたは誰だ』


 僕は返信を送ることにした。すぐに折り返しのメールは来る。


『申し訳ないのですが、その質問にはまだ答えることができません。お願いです。明日の夕方、あの公園に行ってください。あなたにしかできないことなのです。』

『公園? 何の話だ。はぐらかすな』

『あなたならわかるはずです。大切な人との思い出の公園です。あの大きな池の噴水のある公園。そこに行ってほしいのです。』


 どきりとした。噴水のある公園だって?

 もしかして、僕が沙織に告白したあの公園のことを言っているのか。まさか。


『今はそれしか伝えられません。明日の夕方、また連絡をします。必ず公園に行ってください。そして、この通信端末も必ず持って行ってください。』


『まて。そんな場所知らない。そちらの指示など従わない』


 僕が慌てて返信を打つが、その後、携帯電話がメールを受信することはなかった。圏外表示の携帯電話を握りしめてただ呆然とすることしかできない夜は静かに更けていった。


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