第三章 白い羽の行方

第三章 白い羽の行方



 我ながら恥ずかしい事をしてしまったと理解している。

 男性のシャワーの最中に話しかけるなんて。

 同国人ならともかく、相手は日本人だ。何と思われただろう。

 あまつさえこちらから求婚めいた事を言ってしまったのだからなお悪い。

 リンダはかーっと、今更ながら全身が熱くなった。

「……何を偉そうに。子供なんて育てた事ないでしょう、私」

 それどころか恋人すらいた事がなかった。友人も数えるほどしかいない。

 リンダは両手を頬に当てる。恋愛経験のなさが今の自分の状態を作っているのだと思うと、途端に後悔の念が押し寄せてくる。

 もっと学生時代に恋に積極的になればよかった。

 そんな、今更言ったところでどうにもならないような事を思う。

 あれから三日。リンダは毎日同じ事を考えいてた。

 特に浴室の中で。ここが一番、記憶が想起しやすいのだろう。

 シャワーヘッドから流れ出てくる水の音が、あの日の出来事をより鮮明に思い出させてくる。

 やめて……と誰にともなく呟いた。体中が熱を帯びているのは、シャワーのせいだ。

 リンダはシャワーと止め、浴室から出る。脱衣所に用意していた下着を履き、そのままの姿でリビングへと向かう。

 今日は休日だ。家から出る用事もないし、来客の用事もない。

 体が冷めるまで、このままで問題はないだろう。

 そう思い、彼女は冷蔵庫のドアを開けた。中にはいくつかの飲み物があった。

 ミルク、市販のコーヒー、ミネラルウォーター。

 以前はここに野菜ジュースやあらかじめ作っておいたプロテインなんかも入れていたのだが、野菜ジュースは存外体に悪いしプロテインは面倒臭い。

 結果として、この三点が現在のリンダの主な飲み物だ。

 他には……食べ物と呼べる物はなかった。小腹が空いている程度なので、今は問題ない。

 が、昼近くになるとどうだろう? 果たして空腹に耐えられるだろうか?

 自問して、しかしすぐにそんな事は不可能だと結論付ける。

 これまでの傾向として、リンダは自分の腹具合を把握していた。

「……ま、予定もないしね」

 そう独り言ちて、寝室へと向かう。

 クローゼットを開け、中からそれなりに外に出ても問題のない服を見繕う。

 遠出をするわけじゃない。ましてデートでもない。

 あまり服装に気を使う必要もないだろう。

 リンダはそう思い、見繕った服へと袖を通す。

 黒っぽいインナーに白いTシャツ。それから黒のパンツ。

 と、そこでブラを付けていない事に気が付いたが、だから何だという話だ。

 すぐに帰って来るのだから問題はない。

 スマートフォンを持ち、家を出る。鍵はオートでかかる仕組みだ。

 あらかじめ登録しておいたスマートフォンが近付くと、こちらもオートでロックが解除される。便利な世の中になったものだとつくづく思う。

 さてどうしたものかと思案する。

 コンビニまではさほど遠くはない。かと言って近いかと言われると意見が分かれるところだろう。

 リンダ的には遠い部類に入れていいのだとは思う。配車サービスを使うのも手だ。

「んー……でもなぁ」

 いくら外出に支障はないとはいえ、今は割とラフな格好だ。

 配車サービスを利用すると、当然運転手が付いてくる。

 女性ならまだいいが、男性だった場合は気まずい思いをする事になるだろう。

「なんで今のご時世、AI搭載車じゃないのか……」

 誰にともなく文句を言った。

 確かに現代においては人間を使った方が安い場合もある。それに資本がない場合は人の手を使う事は往々にして存在する。

 果たしてこれは幸福なのだろうか?

 確かに、とある側面だけを見た時、幸福に見えるのかもしれない。しかし、別の側面を見た場合には誰かが不幸になっている気がする。

「……いやいや、私は政治家じゃないし」

 自分と身の周りの人の事で精いっぱいだ。赤の他人を気にかける余裕なんかない。

 などと、自分を納得させてはみるものの、やはりどうしてももやもやした感じは否めなかった。……やはり歩こう。

 普段から運動不足気味ではある。だからこそ、こんな暗い考えが頭を過ぎるのだろう。

 今度からは定期的に体を動かそうと決意する。

 が、すぐに息が上がる。ぜえぜえとまるで病人のように息も荒くなり、じっとりと肌に汗が滲む。

「……おかしいなぁ」

 いくら普段から運動不足だと言っても、ここまでひどいということはないだろう。

 ちらりと背後を振り返る。自宅から一キロと離れてはいない。

 ありえない事だ。にも拘らず、これほど息が切れる。

 これは何だろう? 何か秘密組織の陰謀だろうか?

 そんなありえないような疑問が頭の片隅で首をもたげる。何を馬鹿な事を、と自分に言い聞かせる。

「……ちょっとは運動しよう」

 果たして体の中で何が起こっているのか、専門外のリンダには予想しようもなかった。

 かくして目的地であるコンビニへとたどり着く。自動ドアをくぐり、中に入る。

 さて一体何を買おうか……そんな事を考えながら、陳列棚に並ぶ食品を物色する。

 リンダが食べ物に目を走らせていると、自動ドアが開いた。間を置かず、来客を告げるチャイムが鳴る。

「この間はありがとう」

「いえ……結局あの老婦人にお金を出して頂きました」

「それでもだよ。ひまわりがいなかったらりんごは食べられなかったから」

「そんな事は……」

 困惑したように言葉を詰まらせる気配。

 ――それにしても、ひまわりとは。珍しい名前……。

 リンダはちらりと振り返る。日本人だろうか?

「……は?」

 と、そこで彼女は目を見張った。

 なぜなら、そこにいたのは浩一郎の娘、サラだったからだ。

 その隣には、見知らぬ女性……いや、待てよ?

「あの顔、背格好……」

 サラとは以前に二度ほど顔を合わせた事がある。人見知りをあまりしない、活発な子供だった。あの時は確か……サラの下へと向かう浩一郎について行ったのだった。

 その時に、病室に飾られていた写真立て。そこに写っていたサラの母親。

 死んだはずの浩一郎の婚約者とそっくりだったのだ。

 リンダはさっと棚の影に身を隠した。幸い、今は接客用ロボットしかいない。

 彼女の今の行動を怪しいと思いこそすれ、咎められる事はないだろう。

 リンダは楽しそうに会話をするサラとひまわりを交互に盗み見る。

 ――誰?

 サラの母親はずっと以前に他界している。それは浩一郎も言っていたので間違いはないだろう。という事は、彼女とは全くの別人という事になる。

「……確かに、世の中にはよく似た人物がいるとは言うけれど」

 しかし、あれは似ているというより、もはや本人と言っても差し支えないのではないだろうか? 直接会った事があるわけではないので断言はできないが。

 リンダの記憶の中にあるサラの母親。その姿形は紛れもなく、今現在サラとともに入ってきた女性と全く一緒だ。

 ――双子? それともクローン? ……実はアンドロイドだったり、はないか。

 リンダはぐるぐると思考を巡らせる。双子ならともかく、クローンやアンドロイドは法律で禁じられている。作った事がバレれば処罰の対象だ。

 であるなら、やはり今サラと一緒にいる女性は双子説が濃厚だろう。

 それにしても……と、サラは自分の格好を見下ろした。

 かなりラフないでたちだ。サラの母親の双子という事は、浩一郎とは家族も同然。

 彼の家族にこの格好を見られるのは……困る。

 リンダはそそくさとこの場を後にするべく、彼女達の同行を見詰める。

 隙を見て、脱出するために。

「……何を?」

 サラとその女性は真っ直ぐにリンダの方へとやってきた。見付からないように移動する。

「あっ! 何しているの!」

 びくん、とリンダの肩が震える。まずい、と頭の中で警鐘が鳴る。

「こんにちは」

 ととと、と歩み寄って来るサラ。どうしたものだろうかと思案するリンダ。

 思案した挙句、リンダは悪足掻きをしてみた。

「……こんにちは、お嬢さん。それで、一体何のご用?」

「お姉さん、コーイチローと一緒にお仕事している人でしょ?」

「うっ……ええと、何の事だかわからないわ」

 リンダは前を向いたまま、サラに答える。今はスッピンなのだ。

「どうしたの? ねえねえ」

 サラが顔を覗こうとくるくるとリンダの周りを回る。合わせて、リンダも回った。

 一向に顔を向けてくれない父親の同僚に業を煮やしたのか、サラはぷーっと頬を膨らませる。

「どうしてこっち向いてくれないの?」

「それは、そのぉ……」

 だらだらと冷や汗が流れ落ちる。

 だって今顔を見られるのは……何となくまずい。

 以前あった時にはさらりとだがメイクをしていて、白衣も着ていた。

 つまり、格好いい知的なお姉さんとして映ったはずだ。

 なのに今はこんな格好だ。休日だからと入っていって気を抜き過ぎている。

 幻滅されるだろう。そしてこの事は浩一郎にも伝わるに違いない。

 実はリンダが一番恐れているのはそこだった。

 今の醜態が浩一郎に伝わり、結婚などしたくないと言われてしまうかもしれない。

 そうなったら……考えるだけで恐ろしい。

 やはりここは、絶対に死守しなくてはならない。

 と、そんな事を考えているとじーっとこちらを見る視線を感じた。

 件のサラの母親にそっくりな女性――ひまわりと呼ばれていた女性だ。

「……ええと、ところであなたは?」

「私はひまわりと申します。サラがお世話になっているようで」

「え? ああ、いえ別にお世話だなんて……」

 会ったのはこれで三度目だ。つまり顔見知りでしかない。

 なんて挨拶を交わしたところで、ハッとした。今は他人の振りをしなくては。

「な、何の事でしょうか? 私は、別にサラとは知り合いでは……」

 言いかけて、またもやハッとした。今咄嗟にサラ、と口走ってしまったのだ。

 これでは自分から知り合いだと言ってしまっているようなものだ。

 リンダはおそるおそるサラを見る。が、サラはくりっと可愛らしく小首を傾げていた。

 大きな二つの瞳が、更に大きく広げられている。まるで不思議がっているように。

「……えっと……どこかで会った?」

「い、いえ……たぶん違うかと」

 ふーっと、リンダは安堵した。バレなかった。

 何せあったのはたったの二度。それにその時のサラは今より小さく、なおかつ病室にいた。

 それに、リンダは今、ほとんどスッピンの状態なのだから、当然と言えば当然だ。

 何となく複雑な思いに駆られながら、それでもホッとする。

 そんなリンダを不思議に思いながら、サラは更に言葉を続けた。

「おねえさん……なんかどこかで見た事あるような……?」

「何を言っているのかしら? おそらく気のせいよ、それは」

 たはは、と愛想笑いを浮かべ、この場を乗り切ろうとするリンダ。

 早く立ち去った方が無難だろう。そう判断し、じゃあと踵を返す。

 と、不意にリンダの足が止まった。んん? とまゆを寄せ、ひまわりを注視する。

「ええと……この方は?」

 リンダの疑問に、サラは得意げに胸を張った。

「ひまわりだよ!」

「ひま……わり?」

 日本人? でも、さらりとした金髪や蒼い瞳。

 明らかに西洋人のそれを見て、リンダは小首を傾げた。

 それに……と記憶の中にあるサラの病室。ベッドの横にあるテーブルの上を思い出す。

 写真立て。そこに写っているのは、まさしく目の前の人物。

 最初は双子か何かだと思ったけれど、見れば見るほど同一人物にしか見えない。

「いや、双子だからといってここまで似る事は珍しい」

 もちろん、記憶の中の写真に写っている女性と比べて同じかと問われれば、わからない。

 いくら記憶力に自信があったところで、全く正確に思い出すなど不可能だ。

「あなたは……何者?」

「……私は何者でもございません」

 表情を変えず、ひまわりが言う。

 その返答の意味を理解するのに、リンダは数秒かかった。

「あなたの名前は……ひまわり?」

「はい。私の名前はひまわり。……彼女が名付けてくれました」

 言って、ひまわりがサラを見る。サラはふふんと胸を張っていた。

「……名付けた?」

 彼女のその言葉が、リンダを更に困惑させる。

 どう見てもひまわりは成人している。サラの母親と同い年なら、とっくに三十歳は超えているはずだ。

 なのに、名付けた? ……謎が深まった。

「あなたは……ええと、本当に人間?」

「…………」

 失礼に値するとわかってはいたが、訊かずにはいられなかった。

 リンダはひまわりの返答を待つ。どうしたものかと思案するように、じっと彼女はリンダの顔を見詰めていた。

 それから、ゆっくりと口を開いた。無味乾燥な声音が耳に届く。

「私は人間です。紛れもなく」

「えっ……ええ、そうよね。ごめんなさい」

 リンダは戸惑いつつ、謝罪する。なぜそんな事を訊いたのか、自分でもわからなかった。

 ただ、ひまわりがあまりにも人間らしからぬと感じたのだろう。

 サラへと視線を向け、何かを誤魔化すように小さく微笑んだ。

「それじゃあ、私はこれで失礼するわ」

「うん……帰り道は気を付けないとだよ」

「ええ、わかっているわ。ありがとう」

「うん」

 サラが元気よく返事をする。大きく縦に振られたその小さな頭に手を置いて、リンダは店を後にした。

 そそくさと逃げるように立ち去る。何か、悪寒のようなものが全身を駆け巡る。

 外に出ると、薄着だからだろうか。ぶるりと全身が震えた。

「早く帰ろう」

 結局何も買わなかった。それでいいのだと自分に言い聞かせる。

 あれで……よかったのだと。あれ以上あの場にいる事はできなかった。

 きっと、得体の知れない何かで押しつぶされていた。そんな予感がした。

 

 

                 〇〇

 

 

 外出許可は、予想外にあっけなく取れた。

 その事を浩一郎に報告すると、サラは通話を切る。父親の声は嬉しそうでもあり、同時に不安そうでもあった。

 彼が何を不安に思っているのか、サラには何となくわかっていた。

「病気の事とか、他にも色々あるよね」

 サラはちらりとひまわりを見やった。

 りんごを買いに行くお使いを終え、ずっとそこにいる。甲斐甲斐しく、サラの世話を焼くアンドロイド。

 実の母親に似たその相貌を見ていると、じわりと胸の奥が海水にも似た何かで満たされていく。……その正体を、サラは見て見ぬ振りをしていた。

「……りんご、美味しかったよ」

「そうですか。それはよかった」

 笑顔を向けるひまわり。浩一郎の話では、これもただのプログラムだという。

 父が追い求めた過去の幻影。サラが大好きだった母の姿は、しかし幼い少女の望む形とは全く違う在り方で存在していた。

「……せっかくだから、お出かけしよう」

「お出かけ……大丈夫なのですか?」

「大丈夫だよ。……それに一人じゃないもん」

 ニコッと、胸の内を満たす海水から目を逸らし、サラはひまわりに笑いかけた。

 彼女の手を握る。

「ひまわりが一緒だよ。だったら問題ないでしょう?」

「……ええ、まあ」

 ひまわりはりんごを買いに行った際の事を思い出していた。

 街頭にはたくさんの人がいた。その人の群れの中に、サラを連れ出しても問題はないのか。

 はぐれないという保証はない。そしてもしはぐれてしまった場合、ほとんど病室にいるサラはどんな行動を取るだろう。

 データが、足りない。答えを導き出すには。

 ひまわりは逡巡の後、サラの手を取った。

「絶対にこの手を離さないでください」

「……わかった!」

 心底嬉しそうに、サラは笑顔で頷く。その力強さに、ひまわりは驚いた。

 もちろん、サラの事はある程度データとしてインプットされている。

 母親が死亡した直後から、体調を崩して入院していたサラ。けれど、最近になって体調が回復しつつある事も。

 おそらく、精神的に過大なストレスがかかった事が原因だろうと浩一郎は言っていた。

 医師とも意見が一致している。この病院に入院して間もない頃は浩一郎とすら会話がままならなかったと記憶している。

「では、行きましょう」

 サラをベッドから下ろし、病室を出る。

 一階の受付で事情を説明して、いつ戻るのかの予定を伝えた。

 きっと遅くなるだろう。午後八時くらいにしておく。

「わあ、すごい!」

 病室を出ると間もなく、サラは簡単の声を発した。

「一年振り。……窓からの景色とは全然違うね」

「そうですか。ええ、そうでしょう」

 ひまわりはサラの横顔を見ながら、相槌を打つ。

 当然だ。病室のベッドから見えるのは、ごく限られた世界。

 対して、一歩建物を出た先で見えるのは、どこまでも広がる広大な空。

 感動、という点では、やはり後者の方に軍配が上がる。一年振りならなおさらだろう。

 ひまわりはそう分析して、さてどこへ行こうかと思案する。

「……サラは、どこか行きたいところはありますか?」

「ええと……ええとね」

 握っているサラの手に、力が籠められるのを感じた。

 興奮しているのだろう。ほんのりと上気した頬が赤みがかり、子供のようだ。

 いや、事実子供だったと訂正する。

 母親が死亡して一年。乗り越えられたというには疑問が残る。

 サラのリクエストを聞いて、頷くひまわり。すぐにマップと照合して、ルートを検索する。

 どこをどう通って、公共交通機関の発車時刻を確認して……。

 などとやっていると、サラが彼女の腕を強く引っ張った。

「はやく行こう!」

「まだルートの構成が……」

「そんなのいいから。すぐに行こう!」

 ひまわりの手を引いて、駆けるようにして道に出る。街路に人影はなく、どちらかと言えばロボットの数の方が圧倒的に多い。

 今の時代、娯楽など掃いて捨てるほどある。わざわざ外に楽しみを求めようなどとする人物はいないという事なのだろう。

 ひまわりはそんな感想を抱いた。だからといって寂寥の念を感じるほど、人間らしさを学習しているとは言えない彼女は、サラに連れられるままに街路を走る。

 しばらくして、サラが音を上げる。

「……疲れた」

「まだ駅にすら到着していませんが?」

「喉乾いた」

「……体力」

 ぼそりとひまわりが呟く。バッと彼女を振り返るサラだったが、本当の事なので反論はなかった。ぐぬぬ……と小さく唸るのが関の山だ。

「……だってしょうがないじゃん。ずっと病院だったし」

「まあ……そうですね」

 サラは精神的なショックから体調を崩し、今までずっと入院していた。

 およそ一年。それだけの時間をあのベッドの上で過ごせば、体力も落ちるというものか。

「……ここから五十メートル先にコンビニエンスストアがあります」

「五十……」

 ひまわりが告げると、サラはあからさまに嫌そうな顔をした。

 つらいのだろうか。だったら引き返してもいいのだけれど。

 ひまわりはそう思い、口にしようとした。が、それよりはやくサラは歩き出した。

「コンビニで……ジュースでも買おう。もちろんコーイチローのお金で」

 何かを決意したかのようにそう言うサラ。

 ひまわりは少し驚きつつ、少女の小さな背中を追った。

 大丈夫ですか? という言葉は、出て来なかった。自分でも、意外な事に。

 ここは労りを見せるところだと気付いたのは、コンビニがすぐ目と鼻の先に見えてきてからだった。

 なぜこんな事、すぐに思い至らなかったのだろう? 不思議でならない。

「どうして……?」

 誰にともなく呟いて、ひまわりは立ち止まる。

 ひまわりの人工知能は生まれてまだ間もない。もちろん、間違える方多いいだろう。

 だがしかし、いくら何でもこんな簡単な事をミスするとは思えなった。

 小さな背中を視界の真ん中に収めつつ、彼女は首を傾げる。

 意味がわからなかった。自分が、わからなかった。

「……どうしたの、ひまわり?」

 くるりとサラが振り返る。その顔には、困惑の色が浮かんでいた。

 何に困惑しているのだろう。立ち止まっている事か、それとも別の事?

 ひまわりは首を振り、その疑問を保留する。今ここで考えても答えは出ない。

 なら、もっとデータが集まってから考えるのが得策だ。

「何でもありません」

 ひまわりは呟き、サラの後に続く。

 目指していたコンビニは、すぐ目と鼻の先だ。そこでサラが欲しがっていたジュースを買う。

 喉を潤し、再び歩き出す。目的などない、ただの旅。

 遠出になるだろうか、とひまわりは危惧した。サラの体力的にそれはきつい。

 けれど、今のサラの様子を見る限り、その心配はなさそうだと思い直す。

 音のない自動ドアを潜り、コンビニの中へ。

 そこでちょっとした出会いがあった事は、また別のお話。

 

 

                〇〇

 

 

 白衣はいつまで経っても慣れなかった。

 だからだろう。どちらかというと作業着を着ている事の方が多いのは。

 浩一郎はふとそんな事を思い、苦笑する。

 研究職。具体的には新しいテック技術を開発して、世の中を更に便利にするための仕事。

 しかし浩一郎には、世の中の貢献できるテクノロジーのアイデアなんてなかった。

 彼はただ、自分の求めている物を作る。それだけの事しかできない。

 もしそれで誰かが喜んでいるのなら、素晴らしい事だ。でもそれは、自分の手柄じゃない。

 だから、きっとその過程には何人、いや何十人という人が関わっているのだと想像する。

 簡単な事だった。そして、だからといって彼の仕事に変更はない。

 ただ作る。作って誰かに渡す。

 リンダでもいい。他の職員でもいい。

 誰でもいいから、自分の成果を譲渡する。そうすれば、それを世の中の役に立ててくれる。

「……僕の考える事じゃあないな」

 ギシッと。背もたれに上体を預ける。

 今頃、サラは何をしているだろう。ひまわりと仲よくやっているだろうか。

 ぼんやりとそんな事を考える。大丈夫だとは思うが、それでも心配だった。

「……なんでこんな事をしてるんだろう、僕」

 誰にともなく、呟く。必要な事だとわかってはいるが、今は二人の事が気がかりだった。

 と、そんなふうにぼーっとしているとぽふっと頭の上に紙の束が置かれた。

「何をしているんだ。作業に集中しろ」

 じろりと視線を向けると、鈴川がいた。

 鈴川はあきれたように嘆息して、紙束から手を離す。

 取り落としそうになって、慌てて掴んだ。見ると、何かの図面のようだった。

「ええと……これは?」

「今度の企画会議で提出するアイデアの草案。おまえの意見を聞かせてくれ」

「僕の……いや、僕じゃなくハンナがいいんじゃないか、こういうの」

「もちろん、ハンナにも当たってみるつもりだ。が、意見できるだけ多い方がいい」

 なるほど、確かにそうだ。鈴川の意見にも一理ある。

 浩一郎はぺらりと草案の書かれた紙束をめくる。なかなかの品だと思った。

 そこに書かれているのは画期的なアイデアではない。

 というより、画期的で革新的な発明というのは、もはや出し尽くされてきた。

 今現在のテクノロジーの発展に必要なのは、今ある技術をどうやって突き詰めるか、だ。

 ブレイクスルーという言葉も、そろそろ過去の遺物になりつつあった。

「……警備ロボットか」

 四枚目に差しかかったところで、ようやく全体を把握できた。

 鈴川の考えているのは、警備ロボットだ。それもただの警備ロボットじゃない。

 次世代を担う警備ロボット。

 ナノデバイスを使って人や物の細かい部分にまで入り込み、心拍数や空気の振動数を計測。

 そうした数値から異常な現象や行動の前兆を予測し、未然に防ぐ事を目的としている。

 用途は様々に考えられるだろう。

 例えば、代表的なところで言うと入院患者のバイタルチェック。土壌に埋め込めれば土砂崩れが起きる前に避難に役立つだろう。

 脳波や空気の流れ、脈拍の速度や体温から不審者を割り出す事にも使えるかもしれない。

 ナノデバイスを使えば、様々な事に応用可能だ。

 だけれど……と浩一郎は眉間に皺を寄せた。

「これは……おそらく通らない」

「おそらく、じゃなくて九割九分通らないだろうな」

 鈴川はPCの電源を入れながら、なんて事ないことのように呟く。

 けれど、実際はなんて事ない、ことはないはずだ。

 こうして資料にまとめてきたという事はこれを次の会議で提出するつもりなのだろう。

 でも……と浩一郎は思う。

 確かにこういう発明は夜の中の役に立つだろう。ナノデバイスもそれほど目新しい物じゃないし。

 しかしこれでは予算がかかり過ぎる――浩一郎の脳裏にそんな言葉が過ぎった。

「まあ、俺たちがいるのはあくまで企業だからな」

「…………ああ」

 そうだ。浩一郎たちが所属する機関はあくまで一企業。

 企業は営利を追求する組織だ。採算の合わない事はやりたがらない。

 だから、この草案は無理だ。経営に疎い浩一郎でも、その程度の事はわかる。

 どんなに素晴らしいものも、金のないところでは実現できない。

 それが、悔しかった。自分だけならいざ知らず、鈴川のような人材までそんな事で潰されるのかと思うと。

 けれど、そう思ったところで無駄だ。無理だ。

 浩一郎には、またそれをどうにかする力はなかった。

「……後悔しているよ」

「それは、俺だって同じだ。俺たちにもっと力があれば、あんな事にはならなかった」

 鈴川はまぶたを閉じ、過去を思い出している様子だった。

 苦悶に歪むその表情に、浩一郎はきっとよくない事を思い出しているのだろうと思った。

 あの頃……まだ、浩一郎がここに来たばかりの頃だ。

 カーラが生きていて、陣頭指揮を執っていた時代。その凛とした知的な女性は、堂々と浩一郎たちを導いていた。

「僕は……」

「ま、全部終わった事だ。今更言っても仕方がない」

 鈴川は肩を竦め、おどけるように言った。その言葉が本心だとは、どうしても思えなかった。

 なぜなら、彼もまた、カーラに惚れていたから。それを、浩一郎は知っている。

 彼よりもずっと長く、この場所にいて、カーラの側にいた鈴川。

 あんな素敵な女性に好意を抱かない男はいないだろう。

 浩一郎は鈴川から視線を外し、ふらりと踵を返した。

「……どこへ行く?」

「ちょっと……ね」

 これ以上、彼の時間を無駄にしたくはなかった。

 ――そして僕も、自分の時間を無駄にしたくはない。

 浩一郎はふらふらと覚束ない足取りで、鈴川の前から消えるのだった。

 

 

                〇〇

 

 

 すぅっと、何かが頬を撫でる。それが雨上がりの涼しげな涼風であると認識するのに数秒かかった。

 データ通りだ。これを人は心地よいと感じるのだろう。

 ひまわりは振り返り、さらさらと揺れる木々を視界の端に捉える。

「……どうしたの?」

 幼い少女に問われ、ひまわりは声を振り返った。

 ぎゅっと握られた手の先。そこには、淡く美しい青い瞳を讃えた少女。

「何でもありません、サラ」

 ひまわりはゆっくりと首を振り、にこっと微笑んだ。それを受けて安心したのか、サラもにこっと微笑み返す。

 行きましょう、とひまわりが提案する。こくんとサラが頷き、再び歩き出す。

 雨は小雨だった。通り雨だったようで、すぐに晴れ間が覗いた。

 再び振り出す気配はなく、またネット上でも雨の予報はなかった。

 降水確率十パーセント以下。どちらかというと、今のはレアな体験をしたのかもしれない。

 ひまわりはその事をサラに告げると、サラはふふ、と楽しそうに声を弾ませる。

「そっかぁ……レアなんだね」

「そんな事が……それほど楽しい事なのですか?」

「楽しい事だよ。だって……初めての事だもん」

 サラはひまわりを見上げ、目を細める。ひまわりサラの言っている意味がわからず、困惑した。……後で浩一郎に訊ねてみよう。

 ひまわりはサラに手を引かれ、あてどもなく歩き続ける。

 病院からはだいぶ離れていた。ちらりとサラを見やると、疲れたように息を弾ませている。

 確かに、病院からだいぶ時間が経った。距離もそれなりにあるいた。

 一年間の入院生活を送っていたのだ。これほどの距離でもサラにとっては遠出と変わらないのではないか?

 今更ながら、そんな事を考えた。

「……少し休憩にしましょうか」

 コンビニには立ち寄ったけれど、ゆっくりと座れる場所はなかった。

 だから、今度はちゃんとした休憩を取りたい。そう思い、きょろきょろと周囲を見回す。

 すると、折よく公園を発見した。とはいえ、ベンチと噴水があるだけの質素なものだけれど。

 公園に入ると、誰もいなかった。当然だ。こんな面白みにない場所に誰が来ると言うのだろう。今頃はVRゲームも普及しているので、みな自宅で楽しんでいるのだろう。

 ふぅ……と一息吐くサラを横目に見ながら、ひまわりはふとした疑問を口にする。

「……今の時代、誰も生身の体に拘らないという話を聞いた事があります」

「??? ええと、どういう事?」

「全てにおいて生身の体が必要なくなりつつあるという事ではないでしょうか」

「ふーん? よくわからないけれど、そうなんだぁ」

「ええ。しかし誰も、生身の体と決別しようとはしない。これは興味深い事らしいです」

「興味深い……なんで?」

「なぜ……でしょう? しかし、そう感じるのです」

 感じる……これほど自分という存在に似合わない言葉もないな、とひまわりは自嘲する。

 人間ではないのだから、感じる事なんてあるはずもないのに。

「これほどまでの技術の進歩。そして世界は平和になりつつある」

 それが本当の平和かどうかはさておいて。

 ひまわりはぐるりと周囲を見回した。現在において、交通事故の死亡率はほぼゼロ%と言っていい。その背景には自動運転の普及もあるだろう。

 けれど、一番は人が外に出る必要がなくなったからだ。外に出なければ、事故も起こりようがない。至極当然の事だ。

 今や世界中のほとんどの人間が自宅にいながら娯楽を楽しみ、仕事に精を出している。

 一日の内のかなりの時間を仮想空間で過ごしているのだと、ネットニュースにはあった。

 なら、生身の体でいる必然性も当然薄れてきているはずだ。いちいちネットにアクセスしなくてはならないのなら、不便で仕方がないだろう。

 しかし、実際は多くの人間がまだ生身の体を持っている。これはどういう理由によるものか。

 興味深い、とひまわりはまた呟いた。

「ふーん……? あたしにはよくわからないけれど、あれだね」

 サラはきゅっと、強くひまわりの手を握った。

 まるで人間と変わらない体温を持つ彼女の暖かさに、思わず顔が綻んだ。

「楽しそうでよかったよ」

「楽しそう……ですか? 私が?」

「うん」

 ひまわりが訊き返すと、サラはこくんと頷いた。

 にこにことした笑顔を向けてくるサラ。果たして、一体何を考えているのか。

 いや……何も考えてなどいないのかもしれないな。

 ひまわりは無表情にサラを見下ろし、そう思った。

 人間も機械も、突き詰めれば電気信号で動いている。なら、その違いは一体何なのか。

 ひまわりは外見上、浩一郎の亡き夫人と一寸違わないという事だった。

 ――私は、彼女の代わりととして生み出されたのだろうか。

 それならそれでいい。それが自分の役割だというのなら。

 ひまわりはベンチの側までサラを連れて行くと、抱き上げ、座らせる。

 ありがとう、とサラは謝辞を口にした。それを、黙って聞いている。

 母親代わりというのなら、それでいい。目的ははっきりしていた。

 むしろ、何をしていいのかわからない状態の方が困っただろう。だから、これでいい。

 ひまわりはサラの隣に腰かけ、周囲を見回す。

 排気ガスの排出量もここ十年で八十%の削減に成功している。国が目標とする数値まであとニ十%。努力の甲斐もあって、空気は澄んでいた。

 これなら、サラの具合も悪くはならないだろう。

「……いいお天気」

 サラが呟くの声が聞こえる。

 風に乗り、さわさわと木々の葉が擦れる音にかすみ、消えていく。

 まるで空気に溶けてしまったようだ、とサラは言う。そのまま、空気の一部としてあたしの声は誰かに届くのかな、と。

「そうだといいな」

 なぜ? とひまわりは問うた。少し考えるような仕草をしていたサラだったが、すぐに振り返る。

「だって、もしかしたら誰かがあたしの声を聞いて元気になるかもしれないし」

 そう言って笑うサラの笑顔は、素敵だった。

 どんな理屈かはわからないけれど、子供の言う事だ。深く考えてはだめなのだろう。

 それに、サラの声と言葉が誰かを元気づけるのなら、悪くないと思える。

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