二章 八節


 埋葬の日、アメリアはローレンスに仕事を預けると黒いレディを墓地まで飛ばした。天は雲が覆い、アメリアの胸中を映したような天気だった。


 冷淡な表情を浮かべる遺族と胸に手を当てて祈りを捧げるセイリオスに囲まれ土の底へとエスターの棺が沈む。その様子をアメリアは墓石から離れた丘に佇み見守った。


 棺に土を被せる墓守を尻目に遺族は早々と立ち去る。しかしセイリオスはその場を後にしなかった。雨が振りポツポツと喪服を濡らしても、雷鳴が響いても佇んでいた。


 これからこの人はどうなってしまうのだろう。丘に一本だけ佇む大樹に雨宿りしたアメリアは土に埋もれ行く棺を見下ろすセイリオスを見詰める。


 曇天に閃光が走る。


 驚いたアメリアは瞼を瞑った。瞼の裏側まで閃光が透ける。鼓動が跳ね上がる。


 雷鳴が低く唸ったのを聞くとアメリアは瞼を開いた。


 こんな小高い所に居たら危ないよね。しかも大樹の真下だなんて……。セイリオスさん大丈夫かな?


 アメリアは墓石を見遣る。しかし先程までそこで項垂れていたセイリオスは居なかった。


 何処かに避難した?


 見晴らしの良い墓地一帯を見渡すが人の影は無い。


 眉を下げたアメリアがエスターの墓石を見詰めていると再び空に閃光が走った。


 ここに居たら危ない。


 頭を抱えたアメリアは駐車場へと駆け出した。




 高速に乗って首都へ戻ろうすると雨脚が強まった。


 雷鳴は止んだが雨粒の勢いが凄まじい。グローブ越しに雨粒を感じる。雨に打たれたアスファルトがミルククラウンの花を咲かせる。


 アメリアは唇を噛む。ヘルメットのシールドを曇り止めにしてても、高ギア低回転でスロットルにメリハリをつけても、ラインを避けても、のんびり走ろうと心がけても怖いものは怖い。事故を起こす自分が頭の片隅でちらりと閃く。


 ──悪天候の時って万全を期してても怖いものは怖いよね。緊張状態の体が車体に余計な力を加えて更に乗り難くするんだ。そんな時は急いでいても乗らない方がいいよ。何処かで休むと気持ちも休まる。それが一番の近道だ。


 優しいローレンスのアドバイスを想い出すと高速を降りて雨宿りをしようとサービスエリアへ向かった。


 住宅地の側にあるサービスエリアに黒いレディを停める頃には辺りが雨飛沫で白くなった。まるで滝だ。これでは走れまい。


 大人しく休んで良かった。胸を撫で下ろしたアメリアは雨で泡立つウッドデッキを駆け抜け、エントランスに入る。


 ロビー中央に鎮座する生花売り場を抜け、カフェでチョコ掛けドーナツとココアを買う。ドーナツを齧りつつベンチで濡れたジャケットを脱いでいると、見覚えのある顔が向かいのベンチに居るのに気が付いた。


 イザベラだ。


 本を広げて座していたが読書をしている体ではなかった。彼女の視線は分厚い本ではなく、販売員すらいない生花売り場に向けられていた。この場に体が在っても魂を何処かに彷徨わせている。


 エスターの屋敷で見かけて以来……いや、真面にイザベラと会うのは吸血鬼の墓地で会って以来だろう。


 仕事に失敗して落ち込んでいるのだろう。屋敷であんな事があったばかりだ。いつも尊大なイザベラが今日は小さく見えた。会えるって分かってたらお菓子作って来たんだけどな。


 アメリアはもう一つドーナツを買うとイザベラに声を掛けた。


「また会ったね」


 現実に引き戻されたイザベラは気怠そうに顔を上げた。


「良かったら食べる?」アメリアは先程買ったオールドファッションドーナツを差し出した。


 ドーナツとアメリアをイザベラは見比べる。


「……オールドファッションよりアメリアが食べたフレーバーが良かった」


「え。……もしかしてチョコ食べてた所見てた?」


「まさか。口の周りがチョコだらけだから」イザベラは鼻を鳴らした。


 瞬時に頬を染めたアメリアは口許を手で拭う。しかしチョコはつかない。


「嘘。チョコの香りが漂ったから。このサービスエリアにチョコのお菓子なんてあのドーナツ屋しか扱いが無いもの」イザベラは悪戯っぽく笑んだ。


 いつものイザベラだ。大層落ち込んでいるだろうと想っていたアメリアは破顔した。


「今度はチョコ買って来てよね」イザベラはドーナツを齧る。


「チョコ好きなの?」


「地球上で最も」イザベラは無表情で咀嚼する。


「あたしも」


 満面の笑みを浮かべたアメリアはイザベラの隣に座す。


「凄い雨だね。あたしバイク転がして来たから雨宿り」


「そう。大変ね」


「うん。……イザベラって誰かと来たの? 免許持ってる年齢には見えないけど」


 鼻を鳴らしたイザベラは肘掛けに立てかけた杖を見遣る。


「デカパイでも中身が九歳のガキと変わらないアメリアに言われたく無い。散歩に寄ったの。家がこの近く」


「そうなんだ。……時々立ち寄るの?」


「いいえ。近所の散歩は今日が初めて」


「折角のお散歩なのにこんな天気じゃ残念だね」


「疲れたから丁度良かった。それに出先でもやる事は一緒よ」イザベラは本を小突いた。


「ごめん。読書邪魔したね」


 湯気が立ち昇るココアのカップを片手にアメリアは腰を上げる。しかしイザベラはそれを制す。


「……じゃない」


「え?」消え入りそうな声にアメリアは問い返した。


 口をもぞもぞと動かしたイザベラは眉根を寄せてアメリアを見上げる。


「……邪魔じゃない」


 珍しい。イザベラが想いを素直に述べるなんて。アメリアは呆気にとられた。


「う……うん」徐に頷いたアメリアはベンチに腰を下ろすとココアを一口、胃の腑へ送った。


 それきりアメリアは黙した。言葉が出ない。イザベラは休みの日を墓地で過ごす『独り』が好きな人間だ。それなのに長い時間共に過ごす事を望むだなんて……余程、この間の仕事がショックだったのだろう。何か声を掛けてあげたい。しかしそれは叶わない。あの日、エスターの屋敷で一部始終を見守っていたが自分は透過して姿を隠していた。あの場には自分は『居なかった』のだ。


 アメリアはイザベラを見遣る。先程まで眉根を寄せていたイザベラはぼぉっと一点を見詰めていた。シトリン色の瞳は何も映さない。……また魂を何処かに彷徨わせているのだろう。


「……なんか元気無いけど」


 アメリアが問いかけるとシトリン色の瞳がぎょろりと彼女を睨め付けた。『何も聞くな』と言っているのだろう。弱っていてもイザベラらしい。王族のような誇り高さと尊大さが漂っていた。


 慰める訳にもいかず、しかし話題に出すのも許されない。どうしたものかとアメリアが戸惑っていると、雨で濡れた肩にイザベラが凭れ掛かった。


「ぬ、濡れちゃうよ?」アメリアは眉を下げる。


「濡れて良い」肩に顔を伏せたイザベラの声はくぐもっていた。


「冷たくない?」


「平気」


「でも」


「うるさい。黙って」


 ぴしゃりと話を閉められた。アメリアはイザベラの想うままにしてやった。雨に濡れた肩は冷えていたが、やがてじんわりと温かくなった。


 人の少ないサービスエリアのベンチに洟を啜る音が響いた。




 母以外の者と風呂に入るのは何年振りだろうか。ハンスおじさんの家に預けられた幼少の頃、ニエと入ったのが最後だろう。優しい女性だった。向かいに浸かった彼女はあたしを飽きさせないように泡遊びを教えてくれたっけ。


 泡風呂に浸かったアメリアは向かいで浸かるイザベラを見遣る。白眼を充血させ瞼を腫らしたイザベラは外方を向いていた。


 家に招かれてから……いや、サービスエリアからずっとイザベラは無言だ。雨宿りさせてくれたお礼、風呂を貸して貰ったお礼を改めて述べなくてはならない。


「ねえ」眉を下げたアメリアは声を掛ける。


「……何?」イザベラは振り向きもしない。


「雨宿りさせてくれてありがとう。それにお風呂まで貸してくれて……。お家の人にもお礼言いたいから上がったら紹介してくれる?」


 イザベラは鼻を鳴らす。


「レオは仕事。今日は家には私だけ」


「レオ?」


「養父」


「イザベラの父さんなんだ。どんな人?」


「弁護士」


「え、と……職業じゃなくて人柄」アメリアは苦笑を浮かべた。


「気障ったらしくて芝居がかって鼻につく性格。物覚えがいいし、頭の使い方も人の動かし方も知ってる。口から先に生まれたみたいに弁が立つ。法廷じゃ他の弁護士を始め、裁判長にも検察にも嫌われてるそう。いちいち気に障るって。私が弁護人選ぶなら彼を絶対に選ばない。ムカつくから」


 アメリアはくすりと笑む。


 それが気に喰わなかったようだ。イザベラは眉間に皺を寄せる。


「何?」


「スラスラと悪口挙げられのに『物覚えが良い。頭の使い方も知ってる』って褒めるなんて……本当は好きなんだろうなって」


「いい所は素直に認めるわよ!」染めた頬を膨らませたイザベラはお湯をアメリアに掛けた。


 泡ごとお湯を被ったアメリアは微笑む。


「元気出た?」


「……少しだけ」イザベラは再び外方を向いた。


「良かった」


 それきり二人は黙した。泡が弾ける微かな音、換気扇の運転音が浴室に響く。アメリアは心地良さに瞼を閉じていた。すると水滴がバスタブへ落ちる音が響く。瞼を開くとイザベラの頬から雫がバスタブへ滴っていた。頬を伝う雫はシトリン色の瞳から溢れている。


「イザベラ?」アメリアは眉を下げる。


 涙を拭わずイザベラは言葉を紡ぐ。


「……仕事で失敗した」


 エスターの屋敷での事を言っているのだろう。あたしが知らない筈の事実だ。アメリアは口を引き結んだ。

「……ただの失敗じゃない。取り返しがつかない。もう次がないの」


 洟を啜ったイザベラは眉間に皺を寄せる。


「……諦めちゃうの?」視線を落としたアメリアは問う。


「……特殊な仕事だもの。信用が第一よ。私はその能力しか持たなかったし、生涯これで食べて行こうって想ってた。他に取り柄は無い。翼を切り落とされた鳥が空を翔られないのと同じ。レオは『このままでも大丈夫だ。責任持つから心配しなくて良い』って言ってる。……辛い」


 アメリアはイザベラを見遣る。眉を顰めたイザベラは唇を震わせていた。眼を細めて懸命に嗚咽を堪えていた。


「仕事が出来ない以上に……レオに優しくされるのが辛い。『契約違反だ』って責められる方がまだマシ。『今日は遅くなりそうだから先に食事作っておく』とか『ティールームの側の警察署で接見するから好みの茶葉買って来る』とか気を遣われるのが辛い。裏表の無い優しさを望んでいる自分が怖い。今までだって優しかったのに……私、何も感じなかったのに」


「レオは心から優しくしてくれるんじゃないの?」


「分からない。……自分の気持ちもレオの気持ちも分からない。……レオが私を引き取ったのは私の能力を買ったから。私はビジネスなら……窮屈な孤児院を出られるならそれで良かった。だけど……こんな風になって、力を失って、自分が何を望んでいるのか知るのが怖い」


 青白く光る不思議な瞳をぐるりと回しアメリアは思案する。


「……裏表が無いかもしれないよ?」


「アメリアの馬鹿。相手は狡猾な男だもの。何を考えてるか分からない事もあるもの」イザベラは頬を拭った。


「馬鹿で悪かったわね」


「……レオに『友達選びも慎重にしろ。アメリアは君に良い影響を及ぼさない』って言われた。普段絶対に干渉しないのにそんな事言った」


 アメリアは黙す。確かに人間は死神と仲良くしない方が良いのかもしれない。仲良くなれば、魂の尾を切り離す爛れた右手に誤って触れるリスクも高まる。……それを知っているとなればレオはあたしの正体を知っている事になる。しかし他に理由が見当たらない。強いて言えば身分が違うから、とかだろうか?


「身分が違うから?」眉を下げたアメリアは問う。


 イザベラは首を横に振る。


「そんな下らない事に拘るヤツじゃない」


 アメリアは長い溜め息を吐いた。きっと死神だって事を知っているんだ。人間の中には偶にいるって父さんに教えて貰った。レオは敢えてイザベラに話さないだけだ。レオに会ったら不味い。彼が帰宅する前に早く退散しないと。


 バスタブから上がろうとアメリアは腰を浮かせる。しかし自分を見上げるイザベラの濡れた瞳を見遣ると留まった。自分の心配より……イザベラを慰めなきゃ。


「ねえ」再びバスタブに尻を着けたアメリアは問う。


「何?」イザベラは洟を啜る。


「あたし達って友達?」


「……友達じゃない」


 弱っていても強情な子だ。アメリアは苦笑を浮かべる。


 するとイザベラが言葉の続きを紡ぐ。


「友達になったら……別れるのが辛いから。もう親しい人を作りたくない」


「そっか。でもあたしはイザベラを友達だと想ってる。片想いの不完全な友達だけど……それでいい。辛いのはあたしだけでいいよ。レオに怒られるのはあたしだけでいい。イザベラには笑って欲しい」


 アメリアが微笑みかけるとイザベラは俯く。


「……天使みたいに優しくしないでよ」


 イザベラの頬から滴る涙がじゅっと泡を溶かす音が浴室に響いた。

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