一章 七節


 アメリアはドラゴンの子供だ。タナトス神の祖であるローレンスとドラゴンであるユウの子供だ。十年前、あのアパートで放置子のユウにローレンスは出会った。不憫に想ったローレンスは彼女の弟共々世話をしてやった。年が離れていたが共に生活するうちに愛が芽生えた。しかし死が彼らを引き裂く。ユウとその弟の魂は死者の園エリュシオンに送られる筈だった。しかしローレンスは退屈なエリュシオンでは不憫だと想い、死者や眠りについた魂が時に泣き、時に笑い現世と同じように過ごせるランゲルハンス島へ流した。


 勝手な行いに怒りを示した冥府の最高神ハデスはローレンスに謹慎処分を言い渡した。しかしローレンスは謹慎中に問題を起こす。ハデスは頭を冷やさせる為にローレンスを悪魔が司るランゲルハンス島へ流した。水脈に流され記憶を失ったローレンスは再びユウと出会う。ランゲルハンス島で人は魂の姿に戻る。水色のドラゴンの姿をしたユウとローレンスは恋に落ちた。


 しかしハデスとかわした約束を果たす為に現世へ戻らなければならない。ローレンスは彼女の想いに応えなかった。ある事件によって昏睡状態に陥ったローレンスにユウは跨がりアメリアを身籠った。それを知らずにローレンスは島を出たのだ。


 アメリアは事実に嘘をまぶしてエスターに説明した。


「……まあ。仕事の関係でお父さんと引き裂かれたなんて……。真実を口に出来ずお父さんと呼べないどころか、一年以内に気付いて貰わなければクビだなんて」話を聞いたエスターは眉を下げる。


「……本当は呼びたい」


 父さんって呼びたい……。アメリアは唇を引き結んだ。


 母さんを始め、島のみんなから父さんは優しくて愛に溢れて天使みたいな人だったって聞かされて育った。他者の為に泣き、他者の為に命を投げ打ち、他者の為に自らの幸福に背を向け……。他者の幸福を心から願うなんて生半可な覚悟じゃ出来ない。弱く儚い人だとも聞いたけれども、想いを貫いたのだから真に強い人だと想った。そんな人の血があたしに半分流れている事を誇りに思った。だから……自分が貴方の子供だと言う事を知って欲しかった。


 あの日ミスターが慰めてくれた時『僕には子供が居ないからね』って言葉が脳内で甦って悲しくなった。だのに子供扱いされて引っ叩いた。ずっと引きずっていた。母さんがあたしを身籠ったって自覚する前にミスターが島を出て行っちゃったから仕方ないけど……言われると腹ただしかったしそれ以上に悲しかった。……あんな時、実の娘だと分かってくれてればどんなに楽だろうか。肩に凭れて泣いたら気持ちが落ち着いただろう。……あたしにはそれが許されない。あたしはミスターの子供であって子供じゃない……。


 ハデス様に『事実を打ち明けてはならない。人一倍鈍いローレンスが自然に気付くのが十三の苦役の最後の苦役だ。一年以内にローレンスが気付かなければ君は魂を滅する』と言われて、あたしから話せない。


 どうすれば気付いて貰える?『家族だ』って言ってくれるけど『娘』として認めて貰った訳じゃないもの。


 眉を下げ、涙を浮かべてカップを見詰めるアメリアの頭をエスターは撫でる。


「呼んでみなさいな」


 アメリアは顔を上げた。彼女の見開いた大きな瞳が涙で潤んでいるのを見て、エスターは微笑む。

「『お父さん』って呼んでみなさい」

「で……でも実の娘だって気付いて貰わなきゃ。どうやって……」

「後で大丈夫よ。大切なのは関係を築く事。例えば親子は大体血が繋がっているけど夫婦は血で繋がってないわ。血の関係が夫婦や養子縁組よりも強固だとは決して想わない。血が繋がった親子でも切れるものは切れるもの。……最初から存在する関係よりもゼロから築き上げる関係は一歩出遅れているわ。アメリアとお父さんはゼロから築き上げる関係でしょう? 互いを思いやっているのでしょう? だったら少しわがままを言っても良いわ」

「でもわがままだなんて」アメリアは首を横に振る。

「さっき言ったでしょう? 偉い人や凄い人はね、親しみを持って接するととても喜ぶわ。私もアメリアに『おばあちゃん』って呼んで貰えてとても嬉しいもの」

「迷惑じゃない……かな?」

「アメリアはとてもいい子ね……思いやりがあって勇気があって。でもいい子は大人の都合で『いい子』を演じるの。自分を殺してまでね。『都合のいい子』になっちゃダメよ。それこそお父さんに気付いて貰えなくなるわ」

「そう……なのかな?」アメリアの頬に一筋の涙が伝った。

「ええ。だから今日から『お父さん』って呼んでみなさい」

「今日?」

「そう。今日よ」

「その内……じゃダメ?」

「今日じゃなきゃダメ」

「どうして?」

「今日は努力する者の為に与えられた時間。何でも明日に持ち越そうとするのは愚者よ。今日を逃せば明日も逃すわ。今日出来る事は今日やらなきゃダメ」


 翌日、鼻歌を歌いつつ黒いレディを出したアメリアは仕事へ向かった。

 古いアパートがある路地から黒いレディは大通りへと出る。次々と現れる道路の破線を幾度も見送る。

 昨夕の事を想い出すと今でも顔がにやける。

 エスター宅からアメリアが家に戻るとリビングではローレンスが書類仕事をしていた。コーヒーテーブルには書類がとっ散らかっている。文章の推敲に集中したローレンスはアメリアの気配に気付かない。口を半開きにして左手で書類を持ち、右手でペンを回している。

 声を掛けても良いかな。『呼ぶなら帰宅直後に視線があったタイミングで呼びなさい。出来れば二人きりの時にね』っておばあちゃんに教えて貰ったもの。でも……仕事に集中してるみたい。邪魔しちゃ悪いよな。今がいいタイミングなのに悔しいな。

 もどかしいアメリアは膝をもぞもぞと擦り合わせたていたが諦めて自室へ戻ろうとした。踵を返すとパンツのポケットに忍ばせたガーディアンベルが鳴った。

 ローレンスは顔を上げる。リビングと廊下を隔てるドアにアメリアが佇んでいたので笑顔で出迎える。

「あ。アメリア」

 アメリアは振り返った。儚くとも優しい笑みを向けられ、頬が上気する。

 笑顔で出迎えられるなんて想ってなかった。いつも笑顔で出迎えてくれるけど、今は仕事中だったから顔を上げられないと想ったのに。どうしよう。笑顔を前にして『ただいま。父さん』なんて恥ずかしくて言えないよ。


 言葉を失い、自分を見詰めるアメリアにローレンスは困惑する。以前、アメリアが酷く落ち込んだ際に気軽に頭を撫でようとして嫌がられた。また失礼な事をしたのかもしれない。


「ど……どうしたの? 僕、何か変な事言った?」


 立ち上がり戸惑い狼狽えるローレンスをアメリアは見詰める。どうしよう。また困らせた。あたしがちゃんと反応しないからだ。ただいまって言わなきゃ。またチャンスはある。その時『父さん』って呼べば良いんだ。


 アメリアは『ただいま』を発そうと口を開く。しかし脳裡にエスターの言葉が甦った。


 ──何でも明日に持ち越そうとするのは愚者よ。今日を逃せば明日も逃すわ。


 このチャンスを逃すとずっと言えないままかもしれない。


 思い止まったアメリアは口を引き結ぶ。


 ローレンスはアメリアにまた不快な想いをさせたか、と狼狽える。


 唾を飲み込み、意を決したアメリアは言葉を紡いだ。


「ただいま。父さん」


 豆鉄砲を喰らった鳩のようにローレンスは瞳を見開いた。そんな彼を見てアメリアは頬を更に上気させる。

 言ってしまった。とうとう言ってしまった。一度口にした言葉は取り消せない。変な子供だと想われた。よそよそしくされたらどうしよう。嫌われたらどうしよう。


 恥ずかしさのあまり自室に駆け込もうとアメリアはリビングと廊下を隔てるドアのノブに手をかけた。


「おかえり。アメリア」


 背に掛けられた優しい声音にアメリアは振り返る。革張りの黒いソファの前で佇んだローレンスが微笑んでいた。


「……今日、イポリトは遅くなるって。だから僕とアメリアで晩ご飯食べに行こうよ。僕、料理出来ないし、家やカフェとは違う所で美味しい物を食べたらアメリアともう少し仲良くなれるかなって」


 ローレンスの提案に、アメリアはこっくりと頷いた。


「良かった。断られるんじゃないかと想ってヒヤヒヤしてた」ローレンスは眉を下げて微笑む。


「あの……」アメリアはドアノブから手を離す。


「何?」


「あの……あたし……母さんしか知らなくて。ミ、ミスターが本当のと、父さんだったら楽しかっただろうなって。甘えだって分かってます。で、でも呼びたいなって。優しくて思いやりに溢れるミスターが……父さんだったらなって。と、父さんって呼んでも?」


「こんな僕で良ければ」ローレンスは満面の笑みを浮かべた。


「あ……あと」


「なあに?」


「この間はカフェで生意気な事言ってごめんなさい。と、父さんにまともな食事を摂って欲しくて……」


 頬を染めて膝をもぞもぞと擦り合わせるアメリアにローレンスは微笑む。気が強いのに俯いて恥じらって……まるでユウみたいだな。


「気にしないで。まともにご飯を食べられない僕が悪いんだから」


 眉を下げたアメリアは顔を上げる。


「そ……それで、ですね。この間、お菓子なら食べられるって聞いて……」


「うん。量が少ない物やお菓子は食べられるし好きだよ」


「お菓子って言っても……塩っぱい系で……。あの、今からベーコンとホウレン草のマフィンを焼くので良かったら召し上がってくれませんか?」


「アメリアが焼くの?」ローレンスは瞳を丸くする。


「はい」


「お菓子作れるの?」


「はい」


 ローレンスは破顔する。


「嬉しいな。イポリトはお菓子作らないから。マフィン、楽しみにしてるよ」

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