六章 十九節


 夫のハリラオスとの意見の不一致に耐えかねたゾーイは独りで海を渡ろうとした。しかし渦に巻き込まれた。彼女とポンペオの間に設けた心優しい次男のゼノンは母を助けようと渦に潜った。ゼノンは寂しい想いをする母親の唯一の心の拠り所だった。しかし二人は浜に戻る事は無く、この入り江に漂着した。渦に阻まれ夫達がいる浜にも戻れず、二人は細々と魚を捕まえ、洞窟で暮らした。幾年も救助を待ったが来なかった。絶望したゾーイとゼノンはこの地で二人だけの者として、男と女として互いを深く求め合った。実の息子とは言えど、心優しき伴侶を得たゾーイはゼノンの息子達を次々と生んだ。二人は夫婦としてとても仲睦まじかった。彼らは穏やかに暮らした。


 しかし新しい暮らしにも影が差す。大時化で食料が一切獲れなくなった。腹に新しい子を宿した上に飢餓に陥っていたゾーイの胸からは乳が出なくなった。赤子が死に、腹の子が死に、幼い息子達は次々と死んで逝った。洞窟の中は小さな骸が沢山転がった。……このままでは自分達の命まで危うい。ゾーイとゼノンは骸を食した。


 命を繋ぎ、また魚が捕れるようになった。ゾーイとゼノンはまた子供を作った。喜んだゼノンはゾーイと腹の子に滋養のある物を食べさせようといつもよりも遠くへ漁に出た。ゾーイはせり出た腹を撫でつつ、愛する夫であり息子であるゼノンの帰りを待つ。いつも夕日が沈む前にゼノンは帰って来るのだが、その日は空に星が出ても帰って来なかった。それでも幾日も幾日も辛抱強く待った。心細かったが夫を信じて待った。ついに夫は帰って来た。ゼノンは骸となって帰って来た。


 ──『山の向こうへ行きたい』だと? 馬鹿を言うな。俺達には無理な事なんだ。山にだけは行くな、この地を出ようと考えるな。神罰が当たる。


 ゾーイの脳裡でハリラオスの声が響いた。


 そうだ。山の向こうも海の彼方も所詮無理だったのだ。だのに私と腹の子の為を想って遠くへ漁に出たゼノンは死んでしまった。今更だけれどもハリラオスの真意が汲み取れた。海の彼方も所詮無理なのだ。


 悲しみに暮れつつもゾーイは双子を生んだ。二人共男児であった。腹が空になったゾーイは漁に出て双子の為に乳を与え『海の彼方へは行っちゃダメよ。母さんを置いて行かないで。独りにしないで』と諭し育てた。時々水死体が流れ着いた。ゾーイは成長した息子達とそれを貪って餓えを凌いだ。


 やがて成長した息子達とゾーイは交わるようになった。『種を残せ』と言う本能でもなく、快楽を追い求めるでもなく、洞窟に引き止める為だけに息子達と交わった。息子達は漁へ出る度、海の彼方の話をした。


 生きる為に魚を食し、引き止める為に息子達と交わるゾーイに記憶を取り戻そうなんて考えは頭から消えていた。どうすれば孤独にならないか、と言う事だけが頭を占めていた。幾度か腹がせり出たが胎児は腹の中で息絶え、頭が無い奇怪な緑児として生まれ死に絶えた。


 ある日、息子達は腹がせり出たゾーイに滋養のある物を食べさせようと遠くへ漁に出た。しかし幾日も待っても帰って来ない。息子達は出て行ったのだとゾーイは悟った。彼女は後悔した。あれだけ口酸っぱく諭したのだ。息子達はかつて自分に似たのだ。こんな窮屈な生活はもう沢山だ、と洞窟を出て行ったのだ。


 やがてゾーイは男児を産み落とした。トゥットと名付け、乳を与えていると二体の男の水死体が洞窟に流れ着いた。かつて出て行った息子達だった。ゾーイは彼らを食し、トゥットに乳を与えた。


 トゥットは順調に育った。与える食料が少ないのにも関わらず足腰が丈夫だった。幼くも海に親しみ、小さくも美しい貝を拾ってはゾーイを喜ばせた。死んだ夫達の骨を齧りつつもゾーイはトゥットの頭を撫でてやった。


 母想いのトゥットは善き伴侶になってくれそうだ。やがてはトゥットと交わり子を設けるだろう。しかし本当はそんな事を望んでいない。トゥットさえずっと側に居てくれれば、海難事故や飢餓で死なないと約束してくれるならそれでいい。ゾーイはぼんやりとそんな事を想いつつ幼いトゥットと暮らした。人生に疲れ果て、微睡んで過ごしている内に龍となり、やがて洞窟の一部と化した。


 胸の内を吐露したゾーイは長い溜め息を吐いた。


「……なんとも言えねぇ話だな」イポリトは唇を噛みつつ、涙を流すアメリアの頭を撫でる。


 ポンペオは震えるトゥットの肩に手を置いた。


 すると俯き、母の瞳を見つめていたトゥットが口を開いた。


「……想い出した。俺……やっぱり母さんを救おうとしてたんだ」


 幼いトゥットは口数少ない母の独り言を時折聴いた。『助けて』と。


 幼児は母を救えない。ましてや洞窟の一部となり眠る龍など救いようも無い。母から『行くのはダメだ』と禁じられているが海の彼方には誰か助けてくれる人が居る筈だ。心優しいトゥットは疲れて寝息を立てる母を尻目に、海へ潜った。しかし渦に捉えられ記憶を失い、海中を漂っている所を南の街の漁師に助けられた。


「……でも時々、渦の中から母さんの声が聴こえたんだ。『助けて』って」トゥットは母の頬を撫でた。


 ゾーイの黄色い瞳が潤んだ。


「……『助けて』って……『ここから出して』って意味よりも『独りは恐いから助けて』って意味じゃないかな?」アメリアは呟いた。


 一同はアメリアを見遣った。


「だって……そうでしょ? 誰だって独りぽっちなんて耐えられないもの。人嫌いのハンスおじさんだって心臓にはヴルツェルさんがいたし、心の中には掛け替えの無い友達として父さんが居たもの。暗い、誰もいない場所で独りぽっちなんて耐えられないもの。誰かを愛し、信じたいもの」


 アメリアの言葉にゾーイは洟を啜った。


「ゾーイさん、今までよく頑張りましたね。記憶を取り戻していない所属者なのに最後まで助けが来る事を信じて待ってた。だからトゥットとポンペオさんが助けに来てくれた」屈んだアメリアは瞳を潤ませた。


「……信じてなんか」唇を噛み締めゾーイは視線を逸らす。


「いいえ。信じてたんですよ。だって現に生きているもの」


「……自分の子供と交わり、喰らった女に……あなたを喰おうとした女になんて優しくしないでよ」ゾーイは骨張った腕で涙を拭った。


 アメリアは眉を下げた。イポリトはアメリアの肩を抱いてやった。


「トゥットの父親が誰であろうとあなたの息子には変わりません。帰りましょう、ゾーイ」ポンペオは微笑み、手を差し出した。


「帰ろう母さん。イポリトさんやアメリアのお蔭で山の向こうへ行けるようになった。これから南の街はどんどん変わんだ。落ち着いたら旅に出よう。島の色んな場所を巡るんだ。中央部のワイナリー、豊かな東の街、島主ランゲルハンスの膝許北の街、秋って季節に綺麗になる西の山……母さんが夢にまで見た土地を一緒に巡ろ。もう悪夢は終ったんだ」


 トゥットの言葉にゾーイは涙を流した。




 渦は消えていた。海を泳ぎイポリト達が南の街に戻ると、彼らは驚愕した。砂と白い岩肌しか無かった土地が緑に覆われていた。砂浜の近くには背の高い棕櫚が木陰を作り、低木の常緑樹が砂の白さを惹き立たせる。楕円形の大きな葉に零れ落ちたプルメリアの花をアメリアは拾うと芳香を吸い込んだ。


 瞼を閉じて植物の優しさに触れるアメリアを横目にイポリトはポンペオに問うた。


「どうしたんだよ? 白い街が緑になっちまったじゃねぇか。随分綺麗になっちまったな」


 しかしポンペオも開いた口が塞がらず事情を知っているようではない。トゥットもゾーイをおぶりつつ『すっげぇ、すっげぇ』とはしゃいでいる。


 要領を得ないイポリトが頭を搔き毟っていると黒い影が彼を覆った。大男ランゲルハンスの影だった。


「驚いたわ。何したんだ?」イポリトはランゲルハンスを見上げる。


 ランゲルハンスは一歩横にずれると背後を見遣った。するとヴルツェルが車椅子に座していた。彼の大腿は包帯が巻かれ、両下腿が無かった。


 イポリトが息を飲んでいると異変に気付いたアメリアも瞼を開く。彼女も声を失った。


「……以前喰い損ねたヴルツェルの下腿を食した。それにより、不毛の地だった南の街は息を吹き返した」ランゲルハンスは淡々と述べる。


「これはハンスの願いであり、私の願いでもある」脚を失ったのにも関わらず、ヴルツェルは清清しい声音を発した。


 瞳を潤ませるアメリアの肩を抱くイポリトを眺めつつヴルツェルは言葉を続ける。


「悔いは無い。機会さえあれば私は南の街を救いたいと願っていた。それにまた島の運営に携われる、ハンスと共に。ならば脚くらい惜しくはない」


 ヴルツェルはランゲルハンスを仰ぐと微笑んだ。ランゲルハンスは鼻を鳴らして外方を向く。


「……そうか。やっと仲直り出来たのか。なら、俺の役目はここまでだな」イポリトは寂しそうに微笑んだ。


 アメリアはイポリトを見上げる。イポリトは笑う。


「俺の真の目的はそれだ。この島で互いが互いを尊重出来るようなら、現世でも出来る筈だ」


 その刹那、イポリトの足許が輝き出した。彼の足は光の粒子となり霧散する。彼の隣で佇むアメリアの足も光の粒子と化していた。


「左腕を無断で持ち出した罪、そして悪魔の契約の見返りだ。君には永久にアメリアの監視をして貰おう。……アメリアを頼む」ランゲルハンスは呟いた。


「おうよ」悪戯っぽく笑ったイポリトはアメリアの肩を強く抱きしめた。


 アメリアは顔を綻ばせた。父親代わりだったランゲルハンスがイポリトを認めたのだ。


「ハンスおじさん、またステュクスで。ヴルツェルさん、街の繁栄を祈ってます」


 涙を浮かべ微笑むアメリアの膝を光の粒子が飲み込む。


 すると異変に気付いたトゥット達が駆け寄った。


「アメリア! どうした? ……まさか!」アメリアの足許を見遣ったトゥットは驚いた。


「うん。もうお別れ。今までありがとう、トゥット」アメリアは涙を拭った。


「俺も、ありがとうアメリア!」


 トゥットはゾーイを背負い直すとアメリアに手を差し出し握手を交わした。


「母ちゃん孝行もいいけど、早く彼女作れよ」イポリトは悪戯っぽく笑った。


「アメリアに負けないくらい可愛くて優しい彼女作ります!」トゥットも悪戯っぽく笑った。


「お二柱共、今までありがとう御座いました。言葉に尽くせません」ポンペオは深々と頭を下げる。


 イポリトとアメリアは互いを見遣ると苦笑した。


「こんな時にまで律儀で堅苦しい男だな」


「いつか帰島したら遊びに行きますね」


 頭を上げたポンペオは二柱の挨拶に微笑む。


「その時はきっと豊かな緑と美しい海を売りにした大きなリゾート地になっていると想います。新婚さんの部屋、空けておきますね」


 二柱は互いを見遣ると頬を染めて外方を向いた。


 そんな二柱を光の粒子は飲み込む。


 誇らしげに輝く太陽の下、海を映したガラス玉色の空に光の粒子が妖精の粉のように舞い輝いた。


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