六章 三節


 鬱蒼と緑が生い茂る険しい山をイポリト一行は登っていた。途中まで道があったが数時間前に消えてしまった。鉱山とはいえ、途中からとても険しくなるので人がまったく寄り付かない所らしい。そして麓からの眺めに反してとても高いと、リンダと牧場主が言っていた。アレイオーンを牧場に置いて来て正解だった、とアメリアは溜め息を吐いた。


 イポリトは足を動かしながらも夕べ見た夢を反芻していた。『シラノ・ド・ベルジュラック』五幕シラノ週報の場のようだった。幾度となく見た芝居だ。今でもシラノの台詞は諳んじられる。夜空の下、顔が見えない乙女に抱かれ満身創痍の自分はシラノの台詞を吐いていた。一体彼女は誰なのだろうか。かつて憧れた英雄と彼が愛した幻なのだろうか。それとも……。


「頂上に着く気配ないね」


 アメリアの声にイポリトは意識を引き戻された。


 明け方から昇り続けている筈なのに一向に山頂に着かない。心臓に負担が掛かると言うディーを負ぶったイポリトは彼女に時間を問う。ディーが遣い魔に懐中時計を覗かせる。遣い魔は正午から三時間も過ぎた時刻を述べた。


 ずり落ちて来たディーを揺すって背負い直すとイポリトはアメリアに問うた。


「なあ。本当にこの山越えるしかねぇのか? 日暮れを心配せにゃならなくなったぞ」


 アメリアは額の汗を拭う。


「南の街は鉱山に囲まれてるから登山するしかないってハンスおじさんが言ってた」


「……この島一の魔術師なら山を削ってくれよ」イポリトは頭を振り、こめかみに流れ落ちた汗を振り払う。


「ライルでさえ解決するのは難しい」汗ばんだイポリトの背に負ぶさったディーが呟く。


 アメリアとイポリトはディーを見遣った。


「老練の魔術師でも難題。これは呪いだから」


「呪い?」


 イポリトが問うと鬱蒼とした木陰から鳥が甲高い声を上げて飛び去った。


「シルフのケイプから聞いた話。大昔、ランゲルハンスはヴルツェルを喰った。しかしケイプが止めた事により足を喰いそびれた。土の精のヴルツェルもランゲルハンスと同じく、この島だ。島と体はリンクしてる。北は頭、東西は腕、南は足。足を喰い損ねてから南方地域の地形はおかしくなった。呪われたオデュッセウスを助けた事によりポセイドンの怒りを買ったパイアケス人の国のように」


「パイアケス人の国って……確か山々に囲まれて陸の孤島になっちまったって話だよな」イポリトはアメリアを見遣った。


 アメリアは小さく頷く。


「ハンスおじさんの悩みの種なの。『南ばかりは救いの手を差し伸べられない』って。海に面しててもハデス様のお達しで船を出せないから交易も出来ない。ハーピーも山を飛び越えられないし、ましてや四つ足のケンタウロスもこんな険しい山を越えるのは不可能だもの。……それにしても呪いだったなんて知らなかった」


「それを俺達はハンニバル将軍の山脈越えみてぇに越えようってのか。……何で出立前に教えてくれねぇんだよ?」


「言った所でどうにもならない」ディーは鼻息を吹く。


「だよね」アメリアも頷いた。


「そらそうだろうけどよ、これじゃ飯抜き野宿コースだぜ? 言ってくれりゃ事前準備出来ただろうに」


 ディーとアメリアは互いを見合わせた。


「ヤだぁ! ご飯食べたい!」アメリアは頬を膨らます。


「何か作れ!」負ぶさったディーはイポリトを踵で蹴り飛ばした。


「俺だって嫌だわ! お子ちゃま二人も抱えて登山なんてよ!」イポリトは鼻を鳴らした。


 三人が口喧嘩をしているといつの間にか日差しが弱くなり、樹々の色が黒くなった。辺りにも影が射す。


 異変に気付いたイポリトが空を眺める。


「おい。本格的に日が傾いて来たぞ。山の日暮れは早ぇんだよ」


「最悪」ディーはイポリトを蹴り飛ばす。


「休める場所探さなきゃ」アメリアは眉を下げた。


 ディーを負ぶったイポリトとアメリアが歩みを進めると、暗い茂みから光る球体が見えた。四つの球体は爛々と玉虫色に光る。地から球体までの高さは人の膝丈程ある。


 アメリアはイポリトに耳打ちした。


「ねぇ……気付いてる?」


「ああ。……高さから察するに野犬かキツネ……いや、オオカミかもな。しかも二頭とは」イポリトは眉をしかめた。


「じゃあ走って逃げるのは無理ね」


「ディーを負ぶってるから翼を広げて飛ぶのも無理だな。……柔らかくて美味そうな奴が犠牲になるしかねぇな」イポリトはアメリアを横目で見遣った。


「冗談言わないでよ!」アメリアは叫んだ。


 すると大声に驚いたのか茂みはガサガサと大きく揺れる。イポリトはディーを地に落とすと構えをとり、茂みに対峙する。地に尻をつき表情を歪めるディーの前に出たアメリアは詠唱して術で剣を出す。


 息を飲んだイポリトとアメリアが身構えていると、茂みから黒い塊が出て来た。


 猛獣を予想していた二柱は肩を落とし、安堵の溜め息を吐いた。二柱の眼前には黒猫が二本足で佇んでいた。


 隻眼の黒猫はイポリトを見るなり、瞳孔を散大させた。小刻みに体を震わし、尻尾をピンと立たせる。今にもイポリトに飛びかかりそうな気配だった。


 イポリトも黒猫の正体に直様気付いたようで両手を広げる。


「……モリー!」


 泣いたような笑ったような何とも形容し難い表情をしたモリーはイポリトに飛びつく。


「ああ! クソ! 何処行ってやがった! 探したんだぞ! チビっころ! 長い鼻なんてぶら下げやがって!」


 モリーを抱きしめたイポリトは頬擦りする。


「俺だって探したんだぞ! こんにゃろ! 勝手に居なくなって悪い嫁しゃんでしゅね!」


 九十年分の頬擦りをしたイポリトは瞳を潤ませるモリーの前脚を開くと腹に顔を埋め、匂いを堪能する。モリーは嫌がって暴れるが四肢を抑えられているので縛を解けない。顔を上げたイポリトはモリーの金玉を突つこうとする。しかしアメリアとディーに向こう脛を蹴られてモリーを離した。


「やめてよ!」アメリアは眉を顰める。


「モリーが不憫!」普段、無表情のディーも語気を荒げた。


 イポリトは唇を尖らせた。


 モリーはディーにも飛びつき挨拶する。


「よう。久し振りだな」


「眼に力がある。動きも俊敏」ディーはモリーを撫でる。


「まあな。回春って奴だ」


 モリーは横目でアメリアを見遣った。アメリアは会釈する。モリーはイポリトを見遣る。


「……旅の仲間だよ」イポリトは鼻を鳴らした。


「ほーん」モリーは訝しげにイポリトを見つめる。


「……んだよ?」


「仲間ね。……ま、そう言う事にしてやるよ」


「ってかどうしてモリーが島に居るんだよ?」イポリトの問いにディーも頷いた。


「ん? 大都会でおっ死んだら苦役中のローレンスに魂を拾われたんだよ。ほら、お前と暮らしていたヒョロ吉だ。記憶取り戻した俺はこの山で暮らしている。……しっかしお前もおっ死ぬとはな」モリーはイポリトを見上げた。


「生前お前と擦れ違ってたんだな。……俺も色々あったんだよ。記憶取り戻してもこの鼻ぶら下げてるしよ、山越えて南の街に行かにゃならんのよ。俺の目的はそこにある」


「山を越える? あんな所にか?」モリーは顔を顰める。


「どんな所なんだよ?」


 イポリトはモリーを見据える。モリーは陰って来た空を仰ぐ。


「細かい話は後にしよう。俺のねぐらに案内してやる。今夜はそこで休め」


 モリーは茂みを振り返る。


「おい。ヴィク坊。安心しろ。父ちゃんのダチ公だ。もう出て来てもいいぞ」


「あんだよヴィク坊って。息子か?」イポリトは問うた。


「まあな」


 照れ臭そうに微笑んだモリーが再び茂みに声を掛ける。


「おい。出て来いよ」


 しかしモリーの息子は茂みから出て来ない。


 溜め息を吐いたモリーはイポリトと共に茂みを掻き分ける。するとそこにはアメリアの叫びに驚き失禁した雪豹の子供が気を失い倒れていた。


「畜生。誰に似てビビリになったんだ」モリーは溜め息を吐いた。


 イポリトはゲラゲラと笑った。




 案内された一行はモリーのねぐらで一晩を明かす事にした。ねぐらである洞穴には美しい雌の雪豹が一頭、寝そべっていた。彼女はモリーの連れ合いでティッカと言った。アメジストの首輪を付けた彼女の脇には黒猫の子供が一匹居た。


 既に日が暮れ、空に星が出ていた。焚火を一同は囲む。


「嫁さんも子供も居るとはな」


 歯を見せ笑うイポリトはモリーを肘で小突いた。


「第二の生だ。好きに生きるさ」モリーは悪戯っぽく笑った。


 アメリアとディーは愛らしい子供達を抱き、ティッカと談笑していた。それを横目に男達は話を続ける。


「蚤の夫婦の癖にどうやってファックしたんだよ。ちんまいお前じゃそもそも嫁さんの尻に前脚も掛けられねぇだろ」イポリトは苦笑する。


「うるせぇ。仕込めたモンは仕込めたんだ。ケット・シーを舐めるなよ? 種が違う双子でな、雪豹の兄貴が好奇心旺盛な癖にビビリのヴィクラム、黒猫の妹が賢く穏やかなサリーだ」


「ほーん。楽しそうにやってるじゃねぇか」


「まあな。しかし縄張りをパトロールしていた俺だってチビっころに会えると想ってもみなかった」モリーは鼻を鳴らした。


 イポリトはモリーを見遣ると満足そうに笑った。


 男達はウサギの干し肉をつまみにそれぞれの経緯を語り合った。


「ほーん。モリーの嫁さんも苦労して死んだんだな。ローレンスのクソじじいが動物園巡りもしているとは知らなかったわ」


「記憶を取り戻して人里離れた山で暮らしていたら出会ったんだ。初めは喰われるんじゃないかって尻尾巻いて逃げたんだ。しかし逃げ損なって足をくじいた俺を甲斐甲斐しく看病してくれたんだ。良い女だろ?」


「んでアメジストの首輪で求婚したって訳か」イポリトは悪戯っぽく笑った。


「……ん。まあな」モリーは口を引き結び、俯いた。


 焚火が爆ぜる。


「ところでよ、どうしてこんなとんでもない山を越えようとしてるんだ?」


「とんでもない山?」イポリトは問い返す。


「知らないのか? ここはとんでもなく高い山なんだよ。見かけによらずな。俺も頂上目指そうと奮闘したが無理だった。何日も足掻いたが無理だった」


「傍目からはそう見えなかったけどな。……そんな山を越えようとしていたのか」イポリトは溜め息を吐いた。


「それよか山越えて何する気なんだ?」


 モリーの問いにイポリトは順を追って説明した。


「……成る程な。土の精霊を追っているのか」モリーは隻眼を閉じる。


「さっき『あんな所』って言ってたけど南の街ってどんな所なんだ?」


「……ここに立ち寄ったペガソスの話では貧しい所らしい。土が死んでるから目立った農作物は育たず、オリーブすら枯れてしまう。犯罪者が跋扈し、治安が非常に悪い土地だ。例えこの山脈に囲まれてなくても移住しようなんて考える者はいない」


 イポリトは腕を組み、思案する。では何故ヴルツェルはわざわざそんな所へ向かったのだろうか。身を隠すにしてももっと良い場所はあるだろう。


「この辺りでさえまだ麓だ。それにこの山脈には主が出るんだ。ティッカの縄張りは安心だがそれを越えると危険だ。今までよく鉢合わせなかったな。不思議なくらいだ。主が幅を利かせているのも山脈越えが難しい理由だ」


「しかし……俺は行かなければならない」


「どうしてもか?」


「ああ」


 イポリトとモリーは互いを見据え合った。


 明日の登山を控え、一同は早々に就寝した。しかし尿意を催したディーが起きると異変に気付き、イポリトを揺さぶり起こした。


「……あんだよ。小便くらい独りでしろよ」眼を擦りつつイポリトは起き上がる。


「小便よりも一大事」ディーは声質を強張らせる。


「あんだよ?」


「ヴィクラムがいない」


「あ?」


「ヴィクラムがいない。ディーは夜、独りで小便するのが恐い。のでヴィクラムを連れションに誘おうとした。しかし何処にもいない」


 イポリトはモリーとアメリアを起こした。物音に目醒めたティッカは事実を知り、言葉を発せない程に動揺した。アメリアは彼女の背を撫で、宥めようとする。


「ヴィクラムってさっき失禁した雪豹だったよな?」イポリトはアメリアに問うた。


「うん」


 黒い子猫のサリーを抱き、辺りを右往左往していたディーが戻る。


「縄張りの中にはいないようだ。術を使って調べたがこの辺りにはいない」


 取り乱したティッカが咆哮した。モリーはティッカの背を擦る。


「ちゃんと帰って来るから。探して来るからねぐらを守っててくれ」


 モリーが宥めるがティッカは背を擦られる度に取り乱す。スモーキークォーツ色の瞳に涙を溢れんばかりに浮かべ、首を横に振る。


「あの子に……あの子に何かあったら! 私、私……!」


「大丈夫だ。ヴィクラムは俺とティッカの息子だろ? 強い子だ」モリーはティッカの首を抱きしめた。


 伴侶を必死に宥めるモリーを眺めたイポリトは瞳を閉じ、地獄耳を澄ます。ヴィクラムの鼓動や呼吸音を追う。音は縄張りを越え、茂みを越え、急斜面へ向かっている。土を滑る音も聴こえる。


 瞼を開けたイポリトはディーにサリーの子守りを頼んだ。そしてモリー夫婦に『迎えに行って来る』と告げアメリアと共にねぐらを離れた。

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