五章 一節


 今も昔も人を誑かさない悪魔は異端とされた。


 大地に人が現れ神話が確立した頃、一人の悪魔が生を受けた。夢魔アロイジア﹅﹅﹅﹅﹅・ランゲルハンスは異端者だった。ランゲルハンスは男女両の性を持っていた。しかし小回りが利いて都合が良いので常に女の姿で出歩いていた。夢魔の中で……全ての悪魔の中で最も美しいと謳われる程に煌々しい容貌だった。厳冬の空を想い起こさせる鈍色の瞳は憂いを秘め、腰は悩ましげにくびれ、豊かな胸を実らせていた。ランゲルハンスは男の欲望をかき立てた。


 しかし当の本人の興味は別の場所にあった。愚かな人間を愛し、信仰の隔てや苦しみから解き放ってやりたいと真に願っていた。そんな考えを持つ異分子は嫌われる。周囲に示しがつかぬと言う理由で魔界を追放された。


 しかし一人ではなかった。変わり者のライルと言う夢魔がランゲルハンスの後を追いかけた。彼は異端者では無かった。


 ランゲルハンスは問うた。『何故自分を追いかけるのか』と。


 ライルは豊かな胸を指差し答えた。『君が好きだからぁ。優しくて格好良くて頭が良いからぁ。女の君はボインだしぃ男の君は逞しいものぉ。それだけじゃ理由にならないのー?』


 溜め息を吐いたランゲルハンスは邪魔をしないならば勝手にし給え、と同行を許した。真に孤独ではない事が分かると少しだけ心持ちが楽になった。


 しかし行く当てが無い。


 地に満ち満ちた人間の中で暮らすのも気が疲れる。


 現世で昆虫採集に夢中になるライルを尻目にどうしたものかと熟考していると、二人の前に女神が現れた。


 魔術師の王であるヘカテだった。彼女はハデスが支配する冥府で三番目に位が高い神だ。


 ランゲルハンスもライルも悪魔であり魔術師であり、また錬金術師の端くれでもあった。ランゲルハンスは不承不承膝を折ると魔術師の王に頭を垂れた。ライルはヘラヘラと笑い片手を挙げる。


 ヘカテは二人の悪魔に手を差し伸べた。犯罪を取り締まる神である彼女は天上、地上、冥府の三界で顔を利かせていた。それ故に冥府でも天界でも現世でもない空間を彼女は保持していた。そこを与えるから島を作り暮らせと知恵を吹き込んだ。


 そこは生命のゆりかごとなる海と恵みをもたらす天空しか無い空間だった。土の属性を有した二人の悪魔は別れるとそれぞれ島を作った。こうしてランゲルハンス島とライル島は生まれた。


 やがて土が堆積しただけの島に自然が生まれた。天は雨をもたらし川や水脈を生む。緑が芽吹き、花が咲く。昆虫や小動物達が空を翔け、地を這う頃、ランゲルハンス島では四大の精霊が現れた。火の精サラマンダーのフォスフォロ、風の精シルフのケイプ、土の精ノームのヴルツェル、水の精オンディーヌのプワソンだった。


 四人はこの島に招かれた礼を述べた。


「……招いたも何も呼んだ覚えは無い」ランゲルハンスは四人を見遣る。


 フォスフォロ、ケイプ、プワソンは互いを見遣ると微笑んだ。


「じゃあ押し掛けたって事で良いわよね? 押し掛け女房ならぬ押し掛け精霊!」微笑んだプワソンは長身のランゲルハンスを見上げた。


「あっし、追い出されると行く宛ねーんだ。ケツ叩かれても動かねえぞ」ケイプは鼻を鳴らす。


「ここは一つ、仲良く行こう。セニョリータ、どうかお許しを」フォスフォロは女姿のランゲルハンスの白い手を取ると手の甲にキスを落とす。眉を顰めたランゲルハンスは瞬時に手を引っ込めると、笑顔を向けたり不貞腐れたりする精霊達を見遣った。


 まだ声を掛けていない男がいた。ユリの蕾のような長い耳をブロンドから覗かせた背の高い男だ。三大精霊の背後に隠れた彼はそっぽを向いていた。仕方なしに付き合っている風体だ。


「君は……」ランゲルハンスは男を見据える。


 問われた事にすら気付いていない。彼は明後日の方向を見つめている。


 プワソンは彼の腕を指で突つき『島主に自己紹介くらいしなさいな』とランゲルハンスの前に引っ張り出した。


 現実に引き戻された男は目前のランゲルハンスに気付く。


「ノーム……ゴブリンのヴルツェルだ」


 ランゲルハンスは微笑むと手を差し伸べる。


「君はゴブリンか。私と同じ土の属性だな。宜しく」


 仏頂面だったランゲルハンスがヴルツェルだけ握手を求めた事に三大の精霊は驚きさざめいた。しかし肝心のヴルツェルは握手の意味が分からず差し伸べられた手を見つめる他無かった。苦笑したランゲルハンスは手を引っ込めた。


 それがランゲルハンスとヴルツェルの出会いだった。


 変な奴らが来た、とランゲルハンスは乗り気でなかった。しかし月日が経つにつれ気さくな精霊達に心を開いていった。気が合う者など魔界に一人としていなかったので人に飢えていた。女姿のランゲルハンスはスケベ心を抱いたケイプやフォスフォロを揶揄い、自然を愛するプワソンと詩を吟じた。ヴルツェルと話す事は少なかったが、同じ波長の彼の隣に座すだけでも心地が良かった。気の合う者達に初めて触れ、ひたすらに幸福だった。




 ある日、住処にしている西の森にログハウスを建てる運びになった。建築地はランゲルハンスの住居の隣だった。フォスフォロやケイプ、プワソン、ランゲルハンスの住居はあったがヴルツェルの住居は無かった。


 ヴルツェルは『今まで通り海岸の洞窟に住む。住居はいらない』と断った。


 しかし洞窟は森の住居から離れているので精霊達にとって不便だった。声を掛けない限り、ヴルツェルは洞窟に閉じこもり日がな一日思索に耽る。


 精霊達はヴルツェルを外に引っ張り出そうと躍起になっていた。しかしランゲルハンスはそれに加わらなかった。他者と接する一方で、閉じこもり思索に耽り錬金術や魔術を極めるのは好きだ。ランゲルハンスはヴルツェルに理解を示していた。一方で彼が隣に住んで気が向いた時に話をしたいとも想っていた。


「……本当に建てるのだな」


 図面を開いてあれやこれやと話す三大精霊を尻目にヴルツェルは呟いた。


 男の姿をしたランゲルハンスは彼を見遣る。力仕事をする時は男で居る方が、都合が良かった。


「……皆、君と遊びたがっている。君の為に何かしたいと切に願っているのだ」


「生前、こんな仲間に囲まれていれば私の人生も違っていただろうな」ヴルツェルは長い耳を揺らすと鼻を鳴らした。


「……君も訳ありかね?」


 ヴルツェルはランゲルハンスを尻目で見遣る。


「皆訳ありだろう。私はゴブリンの癖に馬鹿デカく、貴様は悪魔の癖に心優しい。……時折、夢魔と言う事実を忘れる。生物を慈しむ貴様は魔界では生き辛かった事だろう」


「ああ。消されないだけマシだったな」ランゲルハンスは苦笑した。


「……私は疎まれて殺された」


 ランゲルハンスはヴルツェルを見遣る。


「……そうか。この島では精霊も悪魔も死なない。君を疎む者も居ない。存分に生きたいように生きてくれ、ヴルツェル」ランゲルハンスは微笑んだ。


 鼻を鳴らしたヴルツェルは長い耳を小刻みに動かしつつ三大精霊達の輪に入っていった。


 ヴルツェルの住居であるログハウスが完成してからは、三大精霊はひっきりなしに住居を訪ねた。フォスフォロは自作の果実酒を持ち寄り、プワソンとケイプはチャトランガと言うボードゲームを持ち寄って知恵競べをした。しかしケイプもプワソンも聡明なヴルツェルにいつも惨敗していた。


「ハンスも偶には顔を見せて上げなさいな」薬草を摘むランゲルハンスにプワソンは声を掛けた。


 慎ましい胸のプワソンに縫って貰ったシャツを女姿のランゲルハンスは着ていた。ランゲルハンスは腰を屈め薬草を摘む。胸ボタンは豊かな胸に圧されて今にも飛びそうだ。


「……君達精霊がひっきりなしに訪ねるものだから、私が行っては気が休まないだろう?」


「じゃあお邪魔するのは控えるわ。だからハンス、貴女もヴルツェルとお話しして頂戴。ヴルツェルが会いたがってるわ」プワソンは微笑み屈むと、ランゲルハンスの手から薬草の籠を優しく取り上げた。


「学問と静寂を愛する隠者が人に会いたいと? しかも私か?」


「そうよ。気が合う筈よ。それに家を訪ねると彼は必ず『ハンスはどうした?』って聞くの。同じ属性だから気が合うんじゃないかしら? 貴女は満遍なく人付き合いするけど私達みたいにどんちゃん騒ぐタイプじゃない。何よりもヴルツェルに気を遣ってる……要は大人って事かしら。物静かな学者肌のヴルツェルと気が合う筈よ」


 ランゲルハンスは重い腰を上げた。自宅に戻ると最近造ったグラッパの瓶を片手にヴルツェルの家を訪れた。


 ノックを聞いたヴルツェルは『また精霊共か』と辟易した表情でドアを開けた。しかし佇んでいたのがランゲルハンスだと分かると無表情に戻った。


「……何か?」ヴルツェルは問うた。


 ランゲルハンスは瓶を掲げる。


「……今後の酒造りに参考にしたい。忌憚の無い意見を聞けると有り難い」


 ランゲルハンスは瓶を軽く揺さぶる。すると豊かな胸も揺れた。


 ヴルツェルは眼を逸らし、鼻を鳴らす。


「……貴様は錬金術師でもあったな。胡散臭い錬金術とやらの副産物か」


「まあそう言うな。副産物とて捨てた物ではない。味わってから貶しても遅くはなかろう」


 ヴルツェルはランゲルハンスの鈍色の瞳を見据える。


「……畑を作って花の種を蒔こうと想ったが明日にしよう……上がれ」


 ランゲルハンスは招じられるとリビングの木の丸テーブルにグラッパの瓶を置いた。


「待ってろ。グラスを用意する」ヴルツェルはキッチンへと姿を消した。


 初めて家に上がったランゲルハンスはリビングを見渡した。壁には絵心の無いプワソンが描いた四大精霊と悪魔の似顔絵が飾られていた。稚拙な絵だったが瞳の色や髪の色で各人を識別出来た。テーブルにはケイプが置いていったチャトランガのボードや駒がある。飾り棚には木彫りのカップが五つ飾られていた。細かい彫刻を施されたカップには各人の名前が刻まれていた。


 飾り棚の前でカップを眺めていると、グラスを二脚持ったヴルツェルが戻った。


「引越し祝いにとフォスフォロが置いていった物だ。貴奴が作ったらしい。器用だな」


 ランゲルハンスは振り返る。


「五つもある。察するに『このカップを使って皆で飲もう』と彼は言いたいのではないかね?」


「ああ。そのような事を言っていたな」


 グラスをテーブルに置くとヴルツェルはグラッパの瓶の口を開けて中身をグラスに注ぐ。無色透明の液体がグラスに満ちる。


「……皆勝手に私物を置く一方で取りに来ない」ヴルツェルはグラスを眺める。


 ランゲルハンスは木の椅子に腰掛ける。


「好かれているのだな」


「正直、困っている。……どのように反応すればいいのか分からない。生前、そのような場面に遭遇した事が一度として無いからな」ヴルツェルは瓶の蓋を閉めた。


「したいようにすれば良い。不快なら顔を顰め給え。嬉しいのなら微笑めば良い」ランゲルハンスはヴルツェルの紫色の瞳を見据えた。


「微笑むとは……どうすればいい?」


「……君は笑い方を知らないのかね?」


「ああ」


「眉を上げ口角を上げれば良いだけだが……上辺だけ感情を表しても彼らは喜ばないだろう」


「……そうか」


 ランゲルハンスがグラスを持つとヴルツェルもグラスを持った。ランゲルハンスはヴルツェルのグラスにグラスを当てた。


「乾杯」ランゲルハンスはグラッパを呷った。


 ヴルツェルはランゲルハンスを見つめた。


「……何かね?」


「……悪魔は乾杯しないものだと想っていた。ガラスがぶつかり合う音が嫌いだろう?」


「理知的な君まで迷信を信じるとはね」ランゲルハンスは俯き、喉を小さく鳴らして笑う。


 ひとしきり笑い、顔を上げると自分を見つめるヴルツェルに気が付く。


「何だ? 何故私を見つめるのかね?」


「……どうやって笑うものだろうと気になった」


「君は真摯だな。疎まれていたのに人の為に何かしようと懸命になる」ランゲルハンスは微笑んだ。


 ヴルツェルは鼻を鳴らすと顔をそらした。ランゲルハンスはある事に気付く。


「なんだ。笑えるじゃないか」


「笑える、だと?」ヴルツェルは眉を顰める。


「ああ。君は正の感情を顔に出さないがその長い耳で表現するようだな」ランゲルハンスの視線の先にはユリの蕾を想わせる長細い耳があった。耳はピョコピョコと楽しげに動く。


 ヴルツェルは鼻を鳴らすとグラスに唇をつけた。しかし酒が舌に乗った途端、強烈なアルコール臭が鼻腔を突く。彼はグラスから唇を離すと床に膝をついて噎せ返った。


 咳き込むヴルツェルをランゲルハンスは見遣る。


「どうした? 君は飲めない口ではなかろう」


 俯き胸に手を当て咳き込んでいたヴルツェルは呼吸を整える。


「……飲めるには飲めるが……香りも度数も強烈だ。酒と呼ぶには程遠い代物だ」ヴルツェルは睨む。


「先日計測した所、六十度程だった」ランゲルハンスは空のグラスに出来損ないのグラッパを注ぐと呷った。


「殺すつもりか」


「この島では精霊は死なないだろう」ランゲルハンスは喉を小さく鳴らして笑う。


 楽しげなランゲルハンスをヴルツェルは無表情で眺めていた。しかし彼の長い耳は楽しそうに小刻みに動いていた。

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