四章 五節


 アメリアは疑問に想っていた。


 何故自分の姿はアレイオーンにしか見えないのかと。


 その日も彼女はリビングにある革張りの黒いソファに座したイポリトの亡骸と共に眠りについた。すると突如耐え難い痛みに襲われた。覚醒したのも束の間、嫌な臭いを放つ液体と共に宙を舞い、男の胸に飛び込んだ。


 ガラスが割れた音が辺りに響く。


 暖かく懐かしい感触がする。恐ろしさに震えていたが瞳を開く。するとイポリトが居た。シラノ・ド・ベルジュラックのように異様に長い鼻をしていたが間違いなく彼はイポリトだ。アメリアはイポリトの腕の中に居た。


 イポリトは片手で濡れた前髪を搔き上げると、震えるアメリアを宥めた。


 久し振りに聴く愛しい男の声や自分を撫でる優しい手に落ち着き、アメリアは礼を述べた。


 周囲を見渡す。見覚えのあるキッチンだ。


 ……ハンスおじさんの家だ。


 どうしてあたしがハンスおじさんの家に居るの?


 アメリアは眉を下げる。周囲を見渡し、イポリトの顔を仰ぎ、再び周囲を見る。


 間違いなくここはランゲルハンス島だ。


 ……まさか。……魂が抜けて島に来たの?


 愕然としたアメリアは室内を見渡す。どうやらハンスおじさんやニエは居ないようだ。ハンスおじさんの家とはいえ他者の家だ。取り敢えず外に出た方が良いだろう。


 アメリアはイポリトを促す。すると彼は問う。


「お前、分かるのか?」


 今生の別れをした最愛の男に久し振りに見つめられ、青ざめていたアメリアは一転、涙ぐむ。


 ──うん。分かるよ。どんな姿をしていたってイポリトはイポリトだもの。


「そうか、じゃあ案内を頼むぜ」


 え? どう言う事? 案内って何?


 イポリトに連れられキッチンを出る。


 ──ちょっと何処に行くの? どうしよう。話が通じてない。


 混乱した脳内でアメリアは家族同然である親友のアレイオーンを想い出す。


 ──アレイオーン! アレイオーン!


 外に連れられ、くしゃみをするイポリトを眺めていると音もなくアレイオーンが現れた。夜闇に紛れた青毛のアレイオーンにイポリトは驚く。軽々しいイポリトにアレイオーンは不機嫌そうに接する。


 ──アレイオーン、怒らないで。イポリトは誰にでもフランクなの。


 宥める度にアレイオーンはアメリアを一瞥する。


 アメリアは会話を聞いていた。自分の話題になり、状況が漸く理解出来た。どうやらランゲルハンスに切断された左腕に魂が憑依したらしい。アレイオーンには人の形として認識されている。しかしイポリトには自分が左腕としか視認出来ないようだ。


 ──あたし……イポリトには見えないんだ……。


 涙ぐむアメリアにアレイオーンは優しい眼差しを向ける。『大丈夫だ』と視線で訴えるのが分かる。


 かつてランゲルハンスと殺し合ったヴルツェルの話題になる。経緯は分からないが肉体を得たヴルツェルが逃亡し、彼をイポリトが追っているらしい。


 ──助けてあげられないかな? アレイオーンはあたしや彼よりも鼻が良いでしょ? アレイオーンなら出来ると想うの。


 アレイオーンはアメリアを切なげに見据える。


 ──お願い。アレイオーン。大事な人が困ってるの。


 一瞬、アレイオーンの瞳が潤んだ気がした。


 ──アレイオーン……?


 アレイオーンは深く頭を下げた。


「……分かった。やってみよう」


 アメリアの襟首を咥えたアレイオーンは彼女を背に乗せ、南に続く道を常歩する。


 シラノが後を追う。


「待てよ」


「お前は来なくて良い。俺とアメリアだけで何とかする」アレイオーンは鼻を鳴らした。


 アメリアは首を横に振る。


 ──皆で行こう。イポリトは事情に明るいと想うから道々話を聞こうよ。


 アレイオーンは鼻を鳴らした。先程から何故か苛立っている。


「左腕と馬公だけ行かせる訳いかねぇよ」


「俺とアメリアだけで充分だ。鼻男は戻れ」


 口論が始まり、鼻息を荒げたアレイオーンは顔を突き出しイポリトに噛み付こうとする。しかしイポリトは体をかわした。


 ──噛まないで!


 アメリアはアレイオーンの首を叩いた。


 ──イポリトに酷い事しないで。……どうしたの? アレイオーン、何だか変だよ?


 アレイオーンは瞳を伏せる。


「……叱られた」


 イポリトは眉を下げ微笑しつつもアレイオーンの首を撫でる。


「叱られてしょぼくれるなんざ可愛い所あんじゃねぇか」


「黙れ」


「俺はシラノだ。お前の名前教えてくれよ」


 ──シラノ? 自分の名前を覚えていないって事は誰かの所属者なんだね。


 だんまりを決めるアレイオーンの首をアメリアは突ついた。瞳を伏せ深い鼻息を吐いたアレイオーンは口を開く。


「……アレイオーン」


「アレイオーンって言うのか。宜しくな」


「宜しくなんてしてやらないからな。あとアメリアを『左腕』と呼んでやるな。アメリアはアメリアだ」


「そうか。悪かったな、アメリア」


 親友の心遣い、そして久し振りに最愛の男から名前を呼ばれた事にアメリアは満面の笑みを浮かべた。




 穏やかに流れるアケロン河をヘカテは睨んでいた。


 冥府に戻り報告書を上げ、愛犬達の散歩をしようと想った矢先にハデスに取っ捕まった。『島で起きている事について全て話せ』と言われ、渋った。大昔ハデスは島の管轄権を取り上げた。それなのに何故問う。睨んでいると『話さなければ携帯電話を取り上げる』と脅された。アレは愛用品であり仕事道具だ。仕方なく事の次第を報告書に記した通り説明した。しかしハデスは他に難癖をつけて携帯電話を取り上げた。


 なんて野郎だ。魔術と贖罪の女神から仕事道具を取り上げるとは。犯罪現場の証拠撮りとして活用する以外に様々な物を撮って遊んでいたのに。大方あいつは気まずい動画を探しているのだろう。アレが流出され奥方の眼にとまると立場が危うくなるものな。


『ハデスの懐刀』と呼ばれているものの、自らの義に忠実であり魂の真価を追求するヘカテにとってその二つ名は窮屈であった。決して主君に忠実な訳では無い。絶大な信頼を得ている訳では無い。


 コレー誘拐の折からハデスとは仲が悪かった。コレーに一目惚れしたハデスは彼女を攫った。愛娘である乙女の女神コレーを探す豊穣の女神デメテルを不憫に想い、実情をこっそり教えてやった。それがハデスの鶏冠にきたらしい。……結局コレーはハデスと結ばれ、冥府の最高神の妻ペルセポネとして君臨した。しかし口説きの邪魔をされたのは男として許せなかったようだ。


 しかし携帯電話を取り上げられメソメソ泣く私ではない。機は熟した。動くなら今だ。


 鼻を鳴らして輝く水面を睨んでいると視界に棹が差し入れられる。ヘカテは顔を上げる。渡しを終えたカロンが小舟から棹を刺して戻った。


「や。珍しい客が来とるでな。しかもおっとろしい顔をしてるだで」カロンは岸辺に小舟を着けると棹を放り、地に足を着けた。


「久し振りだな。……今日はまた面白い服を着ているな」ヘカテは微笑んだ。カロンは葉笠を被り白いアオザイを着ていた。


「マンダリンドレスよりは動き易いだで。パンツを穿いておるからな」カロンは葉笠を放ると隣に座した。空を仰ぐと深呼吸する。


 二柱の女神の背後ではケルベロスと黒犬二頭が一頭の蝶を追いかけ戯れている。


「して何の用だで?」カロンは問うた。


「預けていた物を取りに来た」


 カロンは難しい顔をして暫く空を凝視していた。しかし想い出す。


「……や。アレだでな? 黒くて小さな細長い箱のような物だで?」


「そうそう。それを返して欲しい」


 ふん、と鼻を鳴らしたカロンはアップスタイルにしていたシニヨンに指を突っ込むと黒いUSBメモリを取り出す。綺麗に纏められていたブロンドの髪が解れ鳥の巣のようになる。カロンはUSBメモリを手渡した。


「ありがとう。ちなみに複製の赤い奴はどうした?」ヘカテはタイトスカートの裾をずらしガーターストッキングにフラッシュメモリを挟む。


「指示通りブラジャーのパッドポケットに仕込んでおるぞ」


「そうか。なら安心だ」ヘカテは微笑んだ。


「……それよりもそのユーエス何とやらで何をするのだでな?」


「ハデスを困らせてやろうとしてな。後任のヒュプノス神に罰を下し更には島の内政にまで関与しようとしている。以前島を守ってやれなかった分、今回はきっちり守ろうと想ってな」


「や! 楽しそうだでな!」


「そうだ、大事になれば楽しいぞ。USBメモリにはハデスがおイタしてる動画や画像が詰まってる。これを開示すれば大事になるぞ」ヘカテは唇の片端を吊り上げて笑う。


「積年の恨み晴らしてくれだでな」カロンはエメラルド色の瞳を輝かせた。


「ああ。それを種に強請るぞ。……確かお前も相当の恨みを持っていたな」


 カロンは頷く。


「生者の英雄ヘラクレスを渡したと叱責されてな、鎖でグルグル巻きにされたでな。か弱い女が筋肉ダルマに勝てる訳なかろう。理不尽極まりない! 想い出すだけで腑が煮えくり返るわい!」


「……もしハデスが慈悲を請うた場合、お前は何を望む? ブツを預かっていてくれた分、聞いておこうじゃないか」


「……そうだでな」


 カロンは振り向き花畑を見遣った。花畑ではケルベロスと二頭の黒犬が戯れ合っている。


「儂もオオイヌも一柱に一頭きりだ。仲間が欲しいだで」


「分かったよ。交渉する」


 ヘカテはアケロンを後にした。


 ハデスの館に戻ると本日の裁定を終えて夫婦の寝室へ退がろうとするハデスに声を掛けた。


「今日も真っ直ぐ寝室へ戻るとは実に奥方想いの旦那だな」


 ハデスは振り返る。廊下の壁にヘカテが寄りかかり腕を組んでいた。


「……何か?」


 不敵な笑みを浮かべると彼女はスカートの裾をずらす。ハデスは視線を逸らした。喉を小さく鳴らし笑うヘカテはガーターストッキングに挟んでいたUSBメモリを取り出す。


「ウブな上司様は揶揄い甲斐があるもんだ。こっちを向きな」


 ハデスは睨む。彼女はUSBメモリを掲げていた。


「……何が入っていると言うのだ?」


「上司様が取り上げた携帯電話の全データだ」ヘカテはポケットから花煙草を出すと口に咥え、指先に灯した水を点け深く吸った。ポプリのような香りが肺を満たす。


「ここは禁煙だ」


「『禁煙』だろ? ローレンスの花煙草は煙が出ないからな。上司様が嫌いな副流煙の心配は無い」


「君は飽く迄も対等に話すというのだな」ハデスは鼻を鳴らした。


「冥府の王と臣下とは言え交渉は対等に行う。中身を公開されたくなければ提示する条件を全て飲め」


「私に楯突く気か?」


「ああ」


 ハデスは鼻を鳴らす。


「残念だがあの携帯電話から君の秘密のデータを抜き取ってある。それを公開されたくなければ矛を納めるのだな」


「機械音痴の上司様がアレを見破れるとはね。恐れ入った」ヘカテは肩をすくめた。


「……さて、どうする?」ハデスはヘカテを見据えた。


 シャンデリアのロウソクを眺め花煙草の香りを味わったヘカテはハデスの瞳を見据える。


「どうもしない。公開したければ公開するといい。私は私に恥じた事は一度として無い」


「処女神たる者、痴態を多くの者に見られても構わないと?」ハデスは眉をひそめる。


「構わない。私は愛する者に対し誇りを持っている。何も恥じる事は無い。どんな姿であろうともどんな者を愛そうとも処女だとも非処女だとも私は私である事を貫く」


 指に挟んでいた花煙草をヘカテは握り潰した。花煙草の先端から水が滴る。


 ハデスは小さな溜め息を吐く。


「……それが君の正義か?」


「これが私の愛であり正義だ」


 唇を噛み締めたハデスは瞳を閉じた。


「……分かった。君は何を望む?」


「話が早くて助かる。ランゲルハンス島の管轄権の移譲と携帯電話の返却。そして私と褥を共にした者に対して一切の圧力を加えぬ事。イポリトとアメリア、チカゲ、ランゲルハンスを今回の件で罰せぬ事。アケロンの労働環境向上。以上だ」


「随分と欲張りだな」ハデスは苦笑する。


「ああ。私は貪欲だ」鼻を鳴らすとヘカテは握り潰した花煙草を舌に乗せ飲み込んだ。


 ハデスは溜め息を吐く。


「……全ての条件を飲もう」


「ステュクス河に誓えるか?」


「誓いを破れば神でも罰を背負わねばならない河に誓えとは……恐ろしい女だな。……いいだろう。ステュクス河に誓い先の約束を守る。その代わり君も誓え」


 ヘカテは片手を挙げる。


「ステュクス河に誓って私はこの﹅﹅USBメモリのデータを外部に公開しない。……これでいいか?」


「ああ」


 ハデスは手を差し出した。ヘカテは彼の掌に黒いUSBメモリを乗せた。ハデスはそれを握り締める。


「では互いに誓い合った身だ。今後も共に冥府を運営しよう」鼻を鳴らしたハデスは踵を返す。


「待ちな」


「まだ何か?」静止したハデスは振り返らず問う。


「私が誓ったのは『上司様に渡したUSBメモリのデータを公開しない』と言う限定的事項だ。一方上司様が誓った事は限定的ではない。複製は取ってある。よく覚えておきな」


 唇の片端を吊り上げたヘカテは大理石の床をピンヒールで踏み鳴らし去る。


 残されたハデスは噛み締めた唇から血を流した。

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