ランゲルハンス島奇譚(3) 「シラノ・ド・ベルジュラックは眠らない(下)」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

四章 一節


 その左腕は異質さを放っていた。数多くの標本瓶が並んだランゲルハンス宅のキッチンの棚で異質さを放っていた。


 人体標本だからでも、他の白っちゃけた標本とは違い新しい物だからでもない。


 シラノの視線を奪ったのは瓶の中の左腕が放つ、懐かしさだった。


 腕から眼を離せなかった。何故だか分からない。触れたくなる。


 標本は左前腕が切断された物だった。華奢で色が抜けるように白い。女の腕だろう。薬指にはアクアマリンの指輪が嵌められていた。恋人から貰ったのだろうか。手術で腕を切断したのなら指輪を嵌めているのは理解し難い。無理矢理切り落とされたのだろう。


 シラノは昨晩のローレンスの愚痴を想い出した。ローレンスは元死神だ。役目を終え、このランゲルハンス島に最近戻って来たらしい。彼は現世に居る親しい女が悪魔の掟を破った事によりランゲルハンスに腕を切り落とされた、と嘆いていた。


 ──掟を破る事はどんなに重い事か理解してる。それでも彼女の腕を切り落とす事に憤らずには居られない。


 シラノの脳裡に青白く光る瞳に涙を浮かべたローレンスが紡いだ言葉がよぎる。


 やるせなくなったシラノが唇を噛み締めていると、瓶の中の左腕が痙攣を起こした。主とは神経が繋がってない。しかし痛みを耐えるように拳を握り締める。柔らかな肌に爪が食い込む。


 もしかしてファントムペイン(幻肢痛)か? 相当苦しんでるだろうな。


 哀れになったシラノは棚から標本瓶を下し、蓋を開けると手を差し伸べる。


「ンな事してるとますます痛ぇぞ。手貸してやるから想いきり爪立てろ」


 女の左手に触れると自らの手を握らせた。女の左手は突然感じた人肌の温もりに驚くがシラノの手を握り小刻みに震えた。


「……遠慮すんな。独りで痛み耐えるんじゃねぇよ。想いっきり爪立てろ」


 左腕は彼の手に爪を食い込ませる。シラノは痛みを耐える。


「本当はよ、お前だけじゃなくてご主人も慰めてやりてぇけどな。堪忍してくれ。大切そうな指輪ごと左腕失うんだからよ、やり切れねぇよな」


 限りなく優しいまなざしを痛みに耐える左腕に注いだ。




 チカゲは長袖をずらす。細くとも筋肉が付き血管が浮き出た腕に巻かれた武骨な腕時計を見遣った。既に八時を十五分も過ぎていた。しかしアメリアから定時の連絡が来ない。


 階下に住むアメリアは朝八時になるとチカゲの部屋まで顔を出すかメールで連絡を入れるのが日課だった。


 新任の監視役であるチカゲは本来ならば彼女と居を共にしなければならない。しかし『毎日顔を出すから別々に住みたい。イポリトは死んでもずっと恋人だから……他の男性と暮らすのは……ごめんなさい』とアメリアはチカゲに頼んだ。彼は気だてのいいアメリアに淡い恋心を抱いていた。例え実らぬ想いでも惚れた女の頼みを聞いてやりたかった。チカゲはアメリアと共に生活していると報告書を綴りハデスを欺いた。真上が空き部屋だったのでそこに居を構えた。


 チカゲは地獄耳を有していた。しかし仕事とは言え乙女の生活に耳をそばだてるのは気が引ける。彼女が仕事に出ている時は耳をそばだてたが、帰宅すれば監視をやめた。


 しかしアメリアの様子がおかしい。約束事を遵守する彼女は八時五分前や八時丁度に顔を出す。朝早くから出る場合はメールで予定を知らせる。しかし今日は八時を過ぎても連絡がない。


 チカゲは眉を下げた。心配だ。


 彼女はつい最近まで極東の神々や異形の者達と友好を深める為、冥府の最高神ハデスの代理として極東列島を訪問していた。一昨日帰国したばかりだが、通常任務をこなしつつ徹夜で書類を作成していた。疲労が蓄積して寝込んでいるのかもしれない。


 チカゲはアメリアの部屋へ向かった。


 インターフォンを押したが出なかった。ポーチに佇んだチカゲはポケットに手を突っ込み、眉を寄せて思案する。女性の部屋に入るべきか入らざるべきか。


 ハデスから渡されていた合鍵を握り、瞳を閉じた。


 幾ら心配だからと言って女性の部屋に上がるのは気が引ける。しかし自分はアメリアの監視役だ。


 ポーチで屈んだり立ったり思案していると、隣の部屋を出るスーツ姿の男に怪訝な顔を向けられた。見知った男だったので訝しげに見られつつも挨拶された。隣の部屋の男で良かった。顔見知りの人間ではなかったら不審者として突き出される所だろう。いつまでもこんな所でモジモジとしている訳にはいかない。


 大きく息を吸って吐くと『御免』と呟き、ドアを解錠した。


「……アメリア、おはよう御座います。定時連絡が無いので参りました」チカゲは玄関に入る。


 しかし声は返ってこない。三和土には彼女が愛用しているブーツが置かれたままだ。どうやら外出はしてないようだ。


 作り過ぎた煮物のお裾分けをする際、チカゲはアメリアと玄関で立ち話をする。無論、部屋には上がらせて貰えないのであまり話は続かない。しかしそんな不憫なチカゲを好む者もいる。人形のユーリエとローリーだ。必ず現れてはチカゲをよじ登って遊ぶ、ユーリエとローリーも今日は来ない。


 様子が変だ。


 靴を脱いで揃えたチカゲは廊下に上がった。リビングと廊下を隔てるドアを見遣る。ドア中央部の曇りガラスからは明かりが見えない。


「……アメリア、入りますよ」


 廊下を進んだチカゲはリビングと廊下を隔てるドアを開いた。


 だらしないカーテンの隙間から薄暗い部屋に光が差し込む。革張りの黒いソファでアメリアはイポリトの亡骸の胸板に寄り添っている。彼女の膝では人形のユーリエとローリーが彼女を案じて叩いていた。


 純情なチカゲは目を背けた。男女の同衾の場を目の当たりにする事は恥ずかしかった。


 しかし冷静になった。


 これが一つ屋根の下で暮らすのを拒んだ真の理由だったのだ。


 眼を背けてはならない。大きな問題がある。彼女は死神の掟を破っている。役目を終えた死神は荼毘に付さなければならない。彼女はイポリトの遺体を荼毘に付したと嘘を吐き、今まで暮らして来たのだ。深く愛した者と死後も寄り添いたいと言う気持ちは分からなくもないが……。取り敢えず彼女を起こして事情を聴かねばなるまい。


「……ア、アメリア、起きて下さい」頬を染めたチカゲはアメリアに近寄る。


 チカゲは眼を見開いた。


 表情を歪めたアメリアは額から玉のような汗を流し、呼吸を乱していた。


「ア、アメリア? どうしましたか?」


 チカゲはアメリアを揺さぶる。ユーリエとローリーはアメリアを叩き続ける。


「アメリア、起きて下さい。具合が悪いのですか?」


 しかし彼女の瞼は上がらなかった。チカゲは彼女の額や頬に手を当てる。


「アメリア。……アメリア!」チカゲはアメリアを強く揺さぶった。ユーリエとローリーはソファから転がり落ちた。それでも彼女は起きない。


 重篤な事が起きている。チカゲはハデスに報告した。心配そうにアメリアを見つめるユーリエとローリーを抱いていると三十分程でハデスと医術の神であるアスクレピオスが現れた。チカゲから事情を聞いたアスクレピオスは診察をする。ハデスは眉を顰め顎を擦り亡骸を見つめていた。


「……規定通り居を共にしていると報告書には記されていたが?」ハデスはチカゲを見遣る。


「申し訳御座いません。女人と居を共にするのは……」


 俯いたチカゲが口籠っているとハデスは溜め息を吐く。


「……まあいい。君はまだ清いのだな。清さに免じて苦役は課さないでおこう。しかし追って罰を下す。いいな?」


「御意」


 アスクレピオスは深い昏睡と診断を下した。


「重度の疲労も御座いますがこの娘の魂は現在、ここには御座いません。深き夢を見て居ります」


「では何処に?」ハデスは問う。


「……前任の監視役イポリトはヒュプノス二柱によって殺され、悪魔ランゲルハンスと契約を交わしていたので魂を島に送られたと伺って居ります。この娘は心から彼を愛していたのでしょう。彼女はランゲルハンス島出身です。思い焦がれて魂が体から抜けたかと存じます」


「つまりかつてのローレンスのように島で魂を彷徨わせていると?」


「はい」


 ハデスは顎を擦る。そのような事態であればハンスから一報届く筈だ。ローレンスの魂の選択時もハンスから手紙が届いた。ハンスは何をしているのだ。……そういえば管轄権を取り上げたとは言え島の守護神はヘカテだったな。彼女なら事情を知っているかもしれない。


「ヘカテを呼び寄せろ」


 ハデスはチカゲを見遣った。

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