三章 三節


 その晩からイポリトはアメリアを避けるようになった。


 深夜、彼女が部屋を訪れてはベッドで寝かしてやった。しかし寝付くのを見届けると彼はリビングのソファへ移動した。


 仕事が上がっても直帰しなくなった。サンダーバード・コマンダーを転がして二十四時間営業のカフェで夕食を摂った。自分やアメリアが作った方が口に合うと想いつつも味気ない食べ物を咀嚼し飲み込んだ。やがてカフェの常連になり寝泊まりに近い状態で過ごすようになった。ボックス席で舞台の専門書を読んだり、少々席を外してネイサンに演技指導を行ったりして過ごした。風呂や着替えはアメリアが仕事に出る時間を見計らって帰宅して済ませた。酷く落ち込むアメリアを案じたユーリエが彼を引き止めるが、適当にあしらった。


 一方、監視は怠らなかった。イポリトはカフェからでも地獄耳を澄ませた。


 アメリアは毎日彼の為に食事を用意した。メールで連絡しても生返事しか返信されず、電話を掛けても取って貰えなかった。日付が変更して二時間も経つと彼女はユーリエを抱いてソファに横たわった。どんなに遅い日でも売春婦の許に転がり込まなければその時間までに彼は帰宅する。しかし帰って来ない。眠れぬ彼女は物思いに耽った。


 家族が居なくなるって寂しいな。現世に来てから食事の時は父さんと話をしてたし、イポリトと仲良くなってからは映画の話や『シラノ・ド・ベルジュラック』の台本読みして楽しかったな。……あたし、イポリトに甘え過ぎた。病院に付き添って貰ったし、寝かしつけて貰ったし休日が重なる度に一緒に出掛けてるし。家族とは言え後を追い回してたら疲れちゃうよね。……ごめんね、イポリト。


 長い溜め息を吐くとアメリアは瞳を閉じた。隈で黒ずんだ眼の周りに涙が溢れた。


 その朝もダイニングテーブルにイポリトの食事を並べラップをかけてから彼女は仕事に出た。帰宅するとテーブルにあった食事は下げられ、キッチンの水切りラックには洗われた食器が並んでいた。


「イポリトが食べてくれたの?」キッチンカウンターでコルクを並べて遊ぶユーリエにアメリアは問う。


 ユーリエは小さく頷いた。


「ケガや病気してなかった? 何か言ってた?」


 ユーリエは小首を傾げアメリアを見つめるとコーヒーテーブルを指差す。そこには今朝までパーツだった筈の男性人形が組まれ、置かれていた。


 コーヒーテーブルに駆け寄ったアメリアは人形を抱く。人形は長い黒髪のウィッグを被りカッターシャツに黒いベストを着て、色の濃いジーンズを履いていた。眼の下の隈が酷く濃く、頬に影があって痩せているように見える。瞳を閉じたその容貌は死に別れた父ローレンスに瓜二つだ。


「……イポリトが組み上げてくれたんだ」


 キッチンカウンターから降りたユーリエはアメリアの許に飛び込んだ。そして彼女のジャケットの袖を引っ張ると顔を仰ぐ。


 アメリアは頷く。


「……ん。分かった。息を吹き込もうね」


 瞳を閉じたアメリアは息を吹き込もうとしたが思いとどまる。


「……ごめん、ユーリエ。きっとこれはあたしがやっていい事じゃない。想いを込めて作ったイポリトじゃなきゃダメだと想うの」


 ユーリエはアメリアの潤んだ瞳を見つめていたが小さく頷いた。


「イポリトが帰って来るのを待とう」アメリアはユーリエを抱き寄せた。


 その晩、ユーリエとローレンスに似た人形を抱いてアメリアは眠った。




「……おいおい。ガキが出歩いて良い時間じゃねぇぞ。ライルはどうした」


 深夜のカフェのボックス席で『日月両世界旅行記』を読むイポリトの対面には黒いエプロンドレスを着たディーが座していた。


「問題ない。こう見えてもイポリトよりもはるかに年上」ディーは勝手に注文したコーラに口を付けた。


「島じゃ当たり前だけどよ、現世じゃ大問題なんだよ。こんな時間に大人はガキを連れ回しちゃいけないの。OK?」イポリトは肘を突き溜め息を吐く。


「九歳のアメリアに酒飲ませてる癖に何故ディーやダムを叱る? イポリトはおかしい」


「死神は大人になんのが早ぇんだよ。ストレスが多い仕事だから早く世代交代出来るようにってな。あいつはあれでも大人の内なんだ」


「何故子供扱いする?」


「あ?」


「アメリアを」ディーは鈍色の瞳でイポリトを見据えた。


 イポリトは眼を逸らすとキューバリブレを呷る。


「……子供扱いしてねぇよ」


「イポリトはアメリアから眼を逸らしている。何故踏み出さない?」


「阿呆か」イポリトは鼻を鳴らした。


「ディーは阿呆ではない。要領悪いだけ。いつもダムに先手を取られる」


「それが阿呆ってんだよ」イポリトは鼻で笑った。


「じゃあダムと代わってやろう。『叫び声を上げてへそ曲がりのおじんを未成年者略取で豚箱にぶち込みたい』とさっきからダムがディーの脳に訴えている」


「勘弁しろよ。おっさんを揶揄うなよ」


「じゃあ認めろ」


「分かった分かった。お前は狡賢い大人の女だな」イポリトは溜め息を吐き、頭を垂れる。


「違う。アメリアを愛していると認めろ」


「あ?」眉をしかめたイポリトは顔を上げた。


「早くキスしろ。イポリトはそれが出来ないからアメリアに八つ当たりした。ガキのイポリトは玉無し棹無しどうしようもない」


「うるせぇな。放っておけよ」


「放っておかない。後悔する。絶対にする」


 ディーはテーブルに身を乗り出すとイポリトの青白く光る瞳を覗き込む。イポリトはディーの鈍色の瞳を睨んだ。喧嘩の際に厳ついイポリトに睨まれれば多くの者は眼を逸らすがディーは逸らさなかった。イポリトはディーの胸倉を掴んだ。それでもディーは怯まず青白く光る瞳を見据えた。


 イポリトは鼻を鳴らす。


「……なかなか気骨があんじゃねぇか」


「ディーはイポリトに後悔させたくない。それだけ」


 エプロンドレスのシャツから手を離したイポリトは乱暴にシートに座す。


「……お前、大事なモン盗られたか亡くしたかしたろ」


「モンじゃない。モリーを亡くした」


 イポリトは顔を上げた。ディーは話を続ける。


「毛並みの良い黒猫だった。名前の意味通り美しかった。隻眼故に凄味があった」


 イポリトは息を飲む。愛して止まなかったあのモリーかもしれない。


「その晩、ディーはライルに連れられてミュージカルを観に行った。その帰りにライルと逸れたディーは路地裏に迷いこんだ」


 雪が舞う晩、ライルと逸れて大都会の路地裏に迷い込んだディーは白い息を弾ませて佇んでいた。魔術を使ってライルを探した方が良い。しかしハデスの臣下のヘカテ女神との規約により現世での魔術の使役は原則的に禁止されていた。魔術師として打つ手が無いディーは思案に暮れていた。しかし眠かった。


 大通りを吹き抜けた雪風が路地裏に吹き込む。ディーは両腕を抱く。毛皮付きのウールコートを着ていたが寒い物は寒かった。この大都会は毎年寒波に見舞われる。ホームレスや犯罪者も鳴りを潜める程だ。ディーが洟をすすると背に埋もれたダムが覚醒した。寒いと文句を垂れディーの肌をヒステリックに齧る。


 ダムはキィキィと喚く。しかしあまりの寒さにディーの意識は朦朧とする。重い瞼を閉じようとすると突如として白い光景に黒い塊が現れた。隻眼の黒猫だ。黒猫は山吹色の瞳でディーを見つめる。


「窓から赤毛の塊が見えると思ったら……迷子か?」黒猫は問うた。


 ディーは瞳を薄く開けつつも黒猫を見つめる。


「……迷子じゃない。……ディーだ」


 黒猫は鼻を鳴らす。


「ディーとやら。付いて来い。良い場所を知っている」


 黒猫は踵を返すと寒波を物ともせずに路地を進んだ。ディーは力を振り絞って黒猫の後を追った。


 黒猫に案内されたのは古いアパートの一室だった。暖かい部屋は今にも崩れそうな程に老朽化している。壁紙は代々の住人が放っていた匂いを溜め込み、黴と古新聞を混ぜたような匂いを放っている。床には毛糸の玉が幾つも転がっている。三毛猫がうずくまる、木が毛羽立ったテーブルには分厚い耐熱ガラスのマグがある。そこからコーヒーの香りが漂う。三毛猫以外にも所々猫が居た。色褪せた楽譜が並んだ本棚には薄汚れた白猫が眠っていた。椅子の座面に無造作に置かれたブランケットにはヒマラヤンが包まっていた。


 慣れない匂いにディーは戸惑った。しかし決して居心地の悪い匂いではない。安っぽいが温もりのある匂いだ。先程までディーの肌を齧っていたダムが大人しくなった。どうやら暖かくて落ち着いたようだ。


「コートくらい脱げ。ラジエーターの側のポールに掛けておくと良い。乾くぞ」


 黒猫は鼻を鳴らし、アップライトピアノの屋根に乗る。


 コートを脱いでブラウスと黒いエプロンドレス姿になったディーはピアノ椅子に座す。


「ありがとう遣い魔。主人は何処?」


「人語を解す俺を見て驚かないばかりか遣い魔呼ばわりとはな。ディーは魔術師か?」


「ディーは魔術師だ。そして蒸留瓶から出られる珍しいホムンクルスだ。ライルに作られた。さっきライルと逸れた。黒猫の名前は?」


「俺はケット・シーのモリー。ピアノ弾きのじじいの許で普通の猫の振りをしながら今は暮らしている。じじいは飯屋でピアノを弾いているから安心しろ。あと三時間は帰宅しない」


「ケット・シーか。道理で話せる訳だ。……『じじいの許で今は暮らしている』と言ったな。それまでは誰の許で暮らしていた?」


 モリーは隻眼を細める。


「……長い間転々として来た。ストリッパー、絵描き、役者、詩人……様々な人間の許を渡り歩いて来たが一番楽しかったのは最初のチビっころの許だな」


「モリーは子供に飼われていたのか?」


「飼われていた? 冗談言うな。俺が面倒見てやったんだよ。父ちゃんと母ちゃん亡くして天涯孤独になっても笑顔を忘れぬチビっころだった。大層可愛がられたよ。溺愛のあまり結婚までさせられた。俺は雄なのに雌猫と勘違いした雄のチビっころと結婚しちまったんだ」


「釈迦の国では木と結婚する。気にするな」


 モリーは鼻を鳴らす。


「阿呆か。そんな意味じゃねぇよ」


「ディーは阿呆ではない。要領悪いだけ」


「それが阿呆ってんだよ。……とにかく可愛いチビっころだった。直ぐに俺は家を出たからな、今じゃ良い想い出だ」


「何故家を出た? 愛するチビっころを置いて」


 モリーは虚空を見上げると溜め息を吐く。


「……俺も当時は若かった。当時、猫の王が死んでな。俺は次の王になろうと家を飛び出した。新しい王になるには条件があってな。新しい王は若くて強くて賢くて未婚の者に限ったんだ。俺は若かったし喧嘩にも強かったし、こう言ってはなんだけれども人語を解する故に賢かった。しかし王にはなれなかった。……チビっころと結婚していたからな」


「嘘を吐いてまで王にならなかったのは何故?」


「同じ雄だけれども俺はチビっころを……愛していた。イポリトは俺の家族だ。母猫に捨てられ片眼を失った俺を見てあいつは微笑んだ。快く迎え入れてくれた。愛する者の存在を否定する事は俺には出来ない」


「……チビっころの名前はイポリトと言うのか。何故イポリトの許へ帰らなかった?」


「一度捨てた者の許へおめおめ帰れるか。プライドが許さなかったんだよ。若かったからな。今だったら飛びついて離さねぇよ。……それでもイポリトの許へ帰ろうと決心がついたのは大陸の戦争が始まってからだな。戦争でどうこうなる前に会っておきたかった。俺は家に戻った。しかしイポリトが戦争に行っちまった後だった。人間でも死神でも雄は戦争に行くんだな。俺は一生分の後悔をした。戦争が終ってもイポリトはなかなか戻らなかった。きっと死神のくせに役目を終えて死んじまったんだ。俺は愛する者に愛を伝えずに永遠に別れちまったんだ。想い出の詰まった街に居るのは辛くて俺は旅に出た」


「……人間でも死神でもって、イポリトは死神なのか?」


「ああ。一等星のように青白く光る瞳をして、右手に包帯を巻いていた。勉強熱心なチビっころでな。俺と遊ぶ以外じゃ語学や算術、歴史を勉強したりピアノを弾いたりしていた。筋が良くてな、死神じゃなければきっと一流のピアニストになっていただろうな」


 モリーが長い溜め息を吐くと、ラジエーターの側で風が巻き起こった。すると風の中からライルが現れた。


「ディー探したよぉ。早く帰ろうよぉ。この国とっても寒いよぅ。常夏のライル島が恋しいよー」白いコートを羽織ったライルは床に散らかった毛糸の玉を踏む。


「ライル、魔術使うの禁止されてる」ディーはライルを見上げた。


「ハデス君にバレなきゃいいよぉ。ヘカテちゃんはケチケチしないものぉ。それに局所的緊急事態ってやつだよー」ライルはヘラヘラと笑った。


 二人のやり取りを見てモリーは寂しそうに微笑む。


「迎えが来たようだな。良かったな」


「ありがとうモリー。いつか礼をしに来る」ディーはポールに掛けたコートを羽織った。


「もう来るな。年寄りの俺はそろそろくたばる。生き過ぎたんだ。これで今生の別れにしよう。こちらこそじじいの与太話を聞かせて悪かったな」モリーは鼻を鳴らした。


「そんな事言うな。必ずまた来る。またイポリトの話を聞かせてくれ」


「……俺が生きていたらな」


 ディーとモリーは互いに微笑み合うと別れた。


 話を項垂れて聞いていたイポリトはやっとの想いで口を開く。


「……それからモリーとは会ったのか?」


 ディーは頭を横に振る。


「もう一度あの部屋を訪ねたがモリーは居なかった。同居していたヒマラヤンに聞いたが亡くなったそう」


「……そうか」イポリトは深く溜め息を吐くと片手で目頭を押さえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る